安曇郡制圧

信濃国安曇郡・森城。


「御隠居様、某は徹底抗戦すべきかと存じまする!」


重臣の今福友清が畳を掌で叩きつけると、評定の間は一瞬にして静まり返った。何回聞いたか分からない議論に仁科家家臣は辟易としていた。


信濃国の北西部、安曇郡の木崎湖の南岸に位置する森城は、古くから安曇郡一帯を治める国人領主、仁科家の本拠であった。


仁科家は15年前に武田家に臣従し、安曇郡の支配を認められていたが、「第四次川中島の戦い」に当主の仁科盛政が出陣した際、留守役であった反武田派の家臣が独断で上杉家と内通したことから、戦後に盛政は武田信玄から「家臣への薫陶がなっておらん。全ては当主の右衛門大夫の責任だ」と厳しく責を問われ、信玄の五男・盛信を養子に迎え入れて当主とし、盛政自身はまだ20代にも関わらず強制的に隠居させられ、「御隠居様」と呼ばれていたのである。


盛政自身にも問題がない訳ではなかった。温厚な性格で普段から覇気を表に出さず、外見的にも柔和な垂れ目が家臣らに親しみ易さを抱かせていたが、言い換えれば“舐められていた”のである。信玄が盛政に切腹を命じなかったのも、盛政に反乱を起こすような懸念が一切感じられなかったためであった。


「そうは言うても我ら仁科家に竹中軍に抵抗する力などなかろう。竹中は1万を優に超える軍勢を率いて、すぐ南まで迫って来ておるのだぞ?」


盛政はいつも通り温和な笑みを浮かべて、今福友清の主張にも気圧されることなく応答し、盛政のその態度が今福友清と横田康景を余計に苛つかせていた。


この2人の重臣は武田家から送り込まれた盛信の補佐役、いわゆるお目付役であった。


というのも、仁科家当主となった盛信はまだ9歳と幼く、政は無理なため盛信の名代として2人が評定に参加していたのだ。しかし、2人は武田家の武威を笠に着て、仁科家の内情に土足で踏み入るような内政干渉を頻繁に行っていたのである。


しかし、仁科家前当主の盛政の影響力は依然として大きかった。戦っても負けるのが明白な竹中軍に降伏開城しようと考える盛政と仁科家譜代の家臣に対して、徹底抗戦を主張する武田側の今福友清と横田康景の2人は当然ながら対立した。


そのため、昨年11月に竹中家が筑摩郡を制圧してから7月中旬の今日まで、仁科家の評定の議論はずっと平行線を辿っていたのである。


当然ながら評定に出席している仁科家譜代の家臣は、武田側の2人の言動を極めて不快に感じていた。だが、一時的とはいえ上杉家に通じた造反により、ただでさえ肩身の狭い思いをしている。一時の感情に任せて反論すれば自分だけでなく、仁科家にも迷惑が及びかねず賢明ではないという考えからぐっと口を挟むのを堪えていたのだった。


そして、今日の評定は決して口出ししてはならないと理解していた仁科家家臣たちは皆一様に口を噤んで、"主君"である盛政と2人のやり取りを固唾を飲んで見守っていたのだ。


「斯様に弱気な態度であるから他の家臣どもにも舐められたままなのですぞ!」


横田康景が前当主である盛政に向かって無礼な言葉を吐いて煽った。確かに盛政は常に温厚で争いを好まず、言い換えれば消極的で弱気な男であった。苛烈で攻撃的思考の多い武田家家臣にとっては水と油の関係であり、到底受け入れがたい性格であった。


「武田の援軍が来れば話は別だと言っておろうに。抵抗したところで待つのは死しかなかろう」


盛政が溜息を吐くと、頭に血が上った今福友清は地団駄を踏んで反論する。


「御屋形様は織田との戦で精一杯でござる! 竹中の大軍はどれだけの犠牲を払おうとも、ここで仁科家が食い止めるべきでござる!」


「ふん。貴殿らは民のことなど何も考えておらぬのだな。竹中軍と戦えば多くの民の命が失われる。それが分かっておるのか?」


「民草の命など掃いて捨てるほどあるわ! 武田家のためにはどうとでもすれば良いわ!」


横田康景が思わず本音の言葉を吐くと、盛政が垂れた目尻を釣り上げて今福友清と横田康景を睨みつけ、2人は盛政の変わりように目を大きく見開いた。


「信玄様は本拠の甲斐以外がどうなろうが構わぬのであろうが、我らにとって安曇は先祖代々の本拠。無用な戦で民が死に、奪われ、耕した田畑が荒れるのは到底耐えられぬのだ。もはやこれまでだな。やれ!」


盛政の号令と同時に仁科家家臣たちが一斉に2人に襲い掛かり、2人は刀を抜く暇さえなく、あっという間に縛り上げられ、床に這いつくばった。


「おのれ! 盛政、血迷ったか!」


「上杉への内通を許された御屋形様への恩情を忘れ、再び謀反を起こす気か!」


「私には元から武田への忠誠心などないわ。これまで武田から養子を受け入れ、心ならずも武田に従ってきたのは、すべては安曇に戦禍が及ぶのを避けるためよ。竹中半兵衛様は武田信玄とは正反対で、善政の誉れ高い名君と評判の御方だ。私はとうの昔に竹中様から文を受けて竹中家に臣従を決意し、弱気な振りをしてお主らを欺いてきたのよ。よくぞこれまで我が物顔で振る舞ってくれたな。お主らの首を竹中様への手土産にしようぞ」


「「くっ……」」


盛政は一見覇気のない男に見えたが、それは家臣の忠誠心を見定めるための"演技"であり、本当は戦に巻き込まれて最も苦しい目に遭う領民のことを一番に思いやり、領民から愛される当主だった。


2人は反論できずに口籠もり、恨めしそうな目つきで部屋から引っ立てられていった。

盛政は竹中家への降伏を城兵に公表すると、森城は無血開城されたのであった。





◇◇◇




7月下旬、森城の評定の間の上座に竹中半兵衛が座り、下座で仁科盛政を始めとする仁科家家臣が平伏していた。


「仁科右衛門大夫盛政にございまする」


「竹中半兵衛重治と申す。此度はよくぞ竹中家への臣従を決意してくれたな。礼を申すぞ」


「いえ、滅相もございませぬ。竹中様のお陰で武田の佞臣どもを始末することができ、何よりも安曇の民を戦に巻き込まずに済み申した。誠にかたじけなく存じまする」


「そうか。貴殿も誠に領民思いの領主なのだな。仁科家には安曇郡の本領を安堵する故、安心召されよ」


「ははっ、誠にありがたく存じまする。ところで、武田から養子に迎えた名ばかりの当主の盛信ですが、処分はいかがなさいまするか?」


「盛信殿は武田から送り込まれた当主だったとはいえ、まだ9歳の童の命を奪うのはさすがに哀れで忍びない故、仁科家との養子縁組を解消し、武田に追放してはいかがかな?」


半兵衛は盛政を再び仁科家当主に戻して家臣に迎え入れると、前当主の幼い盛信を助命して武田家に追放処分とすることを提案した。


「ははっ。盛信は心根が素直な童ですので、某もできれば命は助けたいと思うており申した。ご恩情賜り、誠にかたじけなく存じまする」


その後、安曇郡の国人衆筆頭であった仁科家が降伏臣従したことを受けて、様子見をしていた他の国人衆も慌てて竹中家に臣従を申し出て来た。


こうして、竹中家は浅井家とは対照的に調略により戦わずして安曇郡を制圧し、4万石の領地を得たのであった。

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