勝竜寺城の戦いと越中統一

三好三人衆による支配を受ける京の都では、将軍・足利義栄の不在もあり、三好家の思うがままに政権が運営されていた。

だが、その三好の京支配に待ったを掛けたのが近濃尾越六家同盟の一角・蒲生家である。


6月中旬、蒲生家の実質的当主・蒲生宗智は、新たに領地とした志賀郡の大津に兵を集結させると、全軍を以って京へと進軍したのだ。その数、約1万。蒲生家の最大動員数に達する大軍であった。


蒲生家がここまでの兵を動員できたのも、近江三家同盟に加えて、近濃尾越六家同盟を締結したことにより、背後への一切の不安が消え、西の京に向けて全戦力を動員する決断ができたからだ。


宗智は一気に上洛を成し遂げると、京の西を南北に流れる桂川を横断して三好三人衆の一角たる岩成友通の居城・勝竜寺城へと攻め入ったのであった。


一方、三好三人衆は「生駒の戦い」で松永久秀を打ち破ったものの、未だ健在の畠山家にほとほと手を焼いていた。


畠山家を頼って堺に逃げた松永久秀も未だ闘志の炎を燃やして立て直しを図っており、畠山家も募兵によって三好三人衆への徹底抗戦への姿勢を明確にしていた。


さらには筒井藤政を使って久秀から奪還した大和国も、呆気なく寺倉家に奪われる事態になってしまった。


蒲生家だけなら未だしも、畠山に加えて領地を接することとなった寺倉家への対処に追われるところに、蒲生家が介入してくる事態となれば、畿内の覇者たる三好家と言えどもさすがに手に余る。


さらには「生駒の戦い」に勝利した後の三好三人衆の中で、政権の主導権を三人の中で誰が握るのかという点で不和が生じ始めていたのだ。これまで対松永・畠山の抗争では固い結束を誇っていた三好三人衆であったが、いざ自分たちが政権を握る段となると、途端に仲間割れによる対立の構図に陥った。


その結果、三好三人衆の岩成友通は勝竜寺城の城主となって京の都を一人で守るという、いささか手薄い防御態勢となっていた。


勝竜寺城は京都盆地の西南部、桂川の支流の小畑川と犬川の合流地点に立地し、西国街道と京街道が交差する交通上の要衝にある京の重要な防衛拠点である。


その勝竜寺城に5000の兵で立て籠もる岩成友通に対して、蒲生軍は三好家の援軍がやって来る前に勝竜寺城を落とそうと強攻を仕掛けた。


だが、実際には三好三人衆の間の対立により、他の二人から援軍が送られる可能性はほとんどなかったのだが、蒲生家は情報不足で三好三人衆の不和がそこまで悪化しているとは知らない。


岩成友通は蒲生軍の猛攻に耐え続けたものの、平城である勝竜寺城は防御力はさほど高くはなく、次々と門を破られていった。


とはいえ、蒲生軍は強引な城攻めによって兵の損耗は大きく、戦いが終わった時には勝ったとは思えないほどの痛手を被っていた。


勝敗を分けたのは、自ら刀を取って戦った城主・岩成友通の討死であった。友通は馬廻りと共に奮戦したものの、本丸への撤退中に蒲生軍に囲まれ、奮闘空しく胸を貫かれた。城主を失った三好軍は瞬く間に戦意を失って瓦解し、双方に大きな痛手を残して戦の幕が閉じた。


一方の蒲生宗智は現場の指揮を息子である当主・蒲生忠秀に一任し、後方での督戦に徹していたが、勝竜寺城を落とすのに2割近い兵を失った状況に言葉を失った。


そして、蒲生軍は守備兵を勝竜寺城に残すと再び桂川を渡河し、満身創痍の8000の兵を以って京に入り、京の占領を成し遂げたのであった。





◇◇◇




五月蝿い蝉の鳴き声が梅雨明けを知らせる7月。夏の到来と共に周囲の大名家が一斉に動き出した。その顔ぶれはいずれも近濃尾越同盟の面々である。


寺倉家の仲介で上杉家と同盟を結んだ浅井家は、西越中に兵を進めた。西越中には勝興寺と瑞泉寺という本願寺勢力が未だ残っていたものの、加賀一向一揆に比べれば取るに足らない小勢力であり、石山本願寺の顕如も西越中は既に手放す覚悟を固めていたようで、坊官の派遣や物資の供給を全く行わなかったため、あっという間に駆逐された。


西越中の狂信徒たちも半ば見捨てられたことになったため、魔法が解けたように戦闘意欲を失い、徹底抗戦に出ることはなかった。当然であろう。見放された後も信仰心が解けないのであれば、それはもはや人間ではなく、単なる傀儡だ。


こうして、勝興寺と瑞泉寺を始めとする西越中の一向門徒は、抵抗と呼べるほどの抵抗ができないまま打ち滅ぼされた。


そして、浅井軍は勢いのままに西越中の婦負郡・射水郡に勢力を持つ越中守護・神保長職の居城・増山城へと進軍した。


神保家が20年ほど前に富山城を築き、新川郡の椎名家を圧迫するようになったため、5年前に椎名の援軍要請を受けた越後の上杉輝虎は、当時の神保長職の居城であった富山城を攻め落とした。


増山城はその時に長職が逃げて籠城した山城であり、砺波郡・射水郡・婦負郡の三郡の境に位置し、越中随一の要害堅固な城である。


長政は力で攻め落とすのは難儀すると考え、包囲して兵糧攻めを行うことを決めた。


そして、8月。増山城の兵糧が底を突くと、神保長職は一矢報わんと城から打って出た。昔からの懇意で頼みの綱だった能登畠山家の援軍を得ることは出来ず、飢え死ぬくらいならばという捨て身の戦法だった。


増山城に籠っていた将兵の数は3千。対する浅井軍は1万を優に超える大軍であった。栄養失調と夏の灼熱によって体調を崩していた者も多く、神保軍は抵抗空しくあっという間に討ち取られていった。


神保長職の討死によって増山城は開城され、西越中は浅井家の手中に収まった。それと共に、東越中が約定通り上杉輝虎から譲渡され、ついに浅井家は越中国38万石の統一を成し遂げたのであった。

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