将軍の死②

尾張国・清洲城。


「クックックッ。公方が死んだか。己の分を弁えずに三好の怒りを買った公方も愚かだが、長慶亡き後の三好も存外と強気ではないか」


9月下旬。尾張・三河・遠江三国の国主、織田信長は将軍・足利義輝の憤死を聞いてほくそ笑んでいた。


畠山との戦で連敗を喫し、天下人たる三好長慶が死んで、家中が内紛含みだという状況の中、目の上のたん瘤の存在と言える義輝を白昼堂々と二条御所を大軍で囲んで惨殺したと言う。


ただでさえ旧体制の象徴である畠山に押され気味だというのに、ほとんど実権がないとは言え、曲がりなりにも将軍を殺せば更に自らの首を絞めることになるということを三好三人衆や松永久秀は理解していなかったのか。信長は内心呆れに近いものを感じていた。


「左様ですな。畿内は荒れに荒れるでしょうなぁ」


信長の乳兄弟で側近である池田恒興が視線の定まらない目で返答する。武家の棟梁たる将軍・義輝の死は恒興のみならず、織田家臣にとって衝撃的なものだったからである。悲しみを一切感じていない人間など、織田家中では当主の信長くらいだろう。


「だが、これで西は正吉郎がいれば十分であろうな」


織田家、そして信長にとって寺倉家の存在は非常に大きい。寺倉家は西美濃と伊勢・伊賀・志摩の三国を治めて、今や織田と並んで100万石の大大名となっており、畿内にも大きな影響力を及ぼしつつある。三好の暴走を抑えうる者は寺倉家をおいて他にはないだろう。


信長も正吉郎と同じく、新たな秩序の構築のために旧体制の打破を望んでおり、泰平の新たな日ノ本を作り上げたいと考えている。同じ志を掲げる義兄弟であり、同盟者である鉄壁の存在が、自身の背後を守ってくれていることがここまで心強いことだとは、史実で徳川家康という同盟者がいた信長でも感じることはなかったことだろう。


信長は時代にそぐわない先進的な考え方やその性格の苛烈さ故に、身内である家臣たちからも疎んじられ、これでもかというほどの周囲に敵を作り続けていた。「本能寺の変」が起きた原因の一端はその性格にあることは間違いない。


だが、寺倉正吉郎という良き理解者を得て、後顧の憂いのなくなった信長はまさに虎に翼だ。信長の目が向いている先は武田が治める駿河、そして北条の相模であった。


武田は幼い娘を嫡男・奇妙丸の嫁とは言え、実質は人質として織田家に送り込むことで、織田との間に休戦協定を締結した。これによって、武田はこの1年で駿河を掌握し、川中島で大きく削がれた国力を回復させるまでに至っている。


無論、織田もこの1年で国力をさらに増してはいるが、それでも武田は非常に手強い相手になることは間違いないのだ。


武田と織田が激突するのは遠江と駿河の国境、大井川となるだろう。ここは織田が武田との休戦協定を結ぶにあたって、その原因となった場所だ。以前から小競り合いが絶えない地であり、休戦協定が決裂するとすれば、またこの地になるのが予想できるからだ。


あの信玄のことである。昨年はあれほど下手に出て戦を忌避していたが、自分が優位になれば、自分から持ち掛けた約定までも平気で破る。そういう男なのだ。


信玄は織田に攻め込む契機として、大井川の西側の織田領で透破でも使って、武田領との間にわざといざこざを起こさせる魂胆かもしれない。


信長は武田の動きを最大限に警戒し、打倒武田信玄を胸の内に掲げたのであった。




◇◇◇




越後国・春日山城。


「なんとお労しや……。おのれ! 逆賊・三好め。必ずや上洛し、討ち滅ぼしてくれようぞ!」


10月上旬。関東管領・上杉輝虎は将軍・足利義輝が三好に弑逆されたとの凶報に接して怒り狂っていた。ほくそ笑んでいた織田信長とは対照的である。


言うまでもなく、関東管領職は足利幕府の要職であり、輝虎の名は義輝から「輝」の偏諱を授かって改名したものであったため、輝虎が激怒するのも当然のことであった。


「……上洛か。西では浅井が加賀一向一揆を滅ぼし、次は西越中の勝興寺と瑞泉寺の一向門徒を滅ぼさんとしているようだが、東越中に踏み入るようであれば戦わざるを得まい。だが、近濃尾四家同盟を率いているのは織田上総介殿ではなく、おそらくは寺倉伊賀守殿であろう。もうかれこれ5年も前になるか。寺倉伊賀守殿には信濃川の分水路や川中島の礼も言ってはおらぬな。うむ。関東も平穏である今ならば、雪解け後にでも一度上洛して、寺倉伊賀守殿と会って話をしてみるとするか。まずは文を送るとしよう」


上杉輝虎は正吉郎から授けられた信濃川分水路の案を、史実のそれとほぼ同じルートで既に実行に移していた。分水路の掘削普請には領民を賦役で動員していたが、米が不作の時には労賃と昼飯を提供すると領民は喜んで働き、分水路は後20年くらいで完成しそうなほど順調に進んでいた。


輝虎は三好を討つためではなく、正吉郎に会うために年明けの上洛を決意したのであった。




◇◇◇




摂津国・石山本願寺。


9月下旬。本願寺の法主・顕如は、加賀一向一揆の敗北に魂が漏れ出そうなほど深く嘆息していた。


野分が近づいているのか、どんよりとした暗い曇り空が広がる外の景色を物憂げに眺めながら、顕如は背後に控えていた下間頼廉に告げる。


「まさか加賀を奪われるどころか、頼照まで討ち取られるとは思わなんだ。お主も悔しかろう」


「……誠に左様で」


顕如の言葉は悲哀混じりだったが、頼廉に目を向けることはない。


加賀一向一揆を指揮して討死した下間頼照は下間家の傍流であり、血の繋がりがあった頼廉にとっても思うところがあったのだ。別に顕如から謝罪の言葉が欲しかった訳ではない。どんなに後悔しようとも戻ってくる命はないのだ。たとえ仏の力を持ってしても。頼廉は頼照が顕如に惜しまれつつ亡くなったという事実が欲しかっただけだ。


頼照の加賀派遣を提案したのは顕如であったが、その提案に同意して頼照を死地へと送り込んだのは自分だ。その後悔の念から頼廉の握った拳には自然と力が篭る。


「もはや越中や能登は捨てるしかなかろう。勝興寺と瑞泉寺の門徒では浅井には太刀打ちできまい。我らに残っているのは伊勢長島の願証寺、そしてここ、石山だけだな」


「他にも西国では備後と安芸にも門徒がおりまするし、それと三河の本證寺も残ってございますれば、浅井と同盟を結ぶ織田や寺倉に一泡吹かせることもできようかと」


「なるほどの。長島と三河を同時に蜂起させれば、面白いの」


未だ越中西部にも勝興寺と瑞泉寺という本願寺の一大拠点があり、越中・能登・飛騨にも一向宗の勢力は残していたが、数万もの動員力を誇った加賀と比べると、戦力的に脆弱で比にならない。浅井に制圧されるのも時間の問題だった。


だが長島一向一揆は違う。


伊勢長島は合流して枝分かれした木曽川と長良川の水流によってできた陸の孤島とも言える輪中地帯であり、願証寺は難攻不落の自然の要害に建てられていた。


そのうえ、一向門徒が支配する桑名という商業都市を抱えているため、長期に亘って戦を継続できるだけの経済基盤も申し分なく、並の大名では太刀打ちできないほどの勢力を築いている。


ゆえに、織田信長は史実であそこまで苦戦を強いられ、最後には焼き討ちと根切りという選択肢を選ばざるを得なかったのだ。


さらに、西三河の本證寺も史実で三河一向一揆を起こして、今川から独立したばかりの徳川家康を苦しめた。


この伊勢長島と三河で同時に一向一揆を起こせば、特に織田は大混乱に陥るはずなのだ。


そして、石山本願寺は言わずと知れた本願寺の本山であり、北で淀川と大和川が合流する上町台地の北端の丘に非常に堅固な要塞を築いている。


後に豊臣秀吉によって大坂城が築かれたことからも分かるように、それはもはや寺ではなく、「摂州一の名城」と言われるほどの立派な城と言えるものだったのだ。


「では……今後も?」


顕如自身、加賀と頼照を失って意気消沈したものの、それでも三好家を始めとする仏敵に対して、絶対に降伏などしないという不撓不屈の精神をその身に宿していた。そして、顕如に負けるつもりなど毛頭なかった。


「無論のことよ。親鸞上人の血を引く本願寺法主たる私こそが御仏の代弁者である。それに、公方様や同じ仏門にあった弟御も三好の手によって弑せられた。もはや我ら一向宗だけでなく、将軍家にも敵対する仏敵・三好には容赦なく仏罰を下さん!」


そう言うと、顕如は厳かに部屋を後にする。一人残った頼廉は、顕如の人間とは思えない、闘志とも狂気とも取れる目を見て、身震いを隠せなかった。


すっかり日が傾いた晩夏の曇り空の隙間からは、一条の赤い光が山の傾斜を照らしていたが、これからの畿内を暗示するかのような強い風が吹き始めていた。

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