混迷の天下惑乱
将軍の死①
京・近衛屋敷。
9月12日夜。関白・近衛前久は将軍・足利義輝の死を聞いて悲嘆に暮れていた。
なぜ前久が義輝の死を嘆いているのか。それは、前久は義輝と同い年の従兄弟の関係であり、さらには前久の姉が義輝の正妻であったため、義理の弟でもあったからに他ならない。
そして、実は義輝が死んだのはこの前久のせいと言っても過言ではないためだった。
というのも、征夷大将軍は朝廷に任命される官職であるため、三好三人衆が将軍殺害の罪により朝敵に認定されるのを警戒し、近衛前久に義輝の殺害を認めさせることで朝敵認定を回避しようと、「永禄の変」の直前に前久に接触してきたのだ。
三好家は畿内の支配者である。三好三人衆が義輝を殺す決意を翻意するつもりがないと悟った前久は、我が身可愛さから反対することが出来ず、自分の姉の助命救出を唯一の条件として要求し、三好三人衆の暴挙を黙認するしかなかったのだった。
しかし、前久が従兄弟である義輝を見殺しにするはずもない。前久は密かに義輝に手紙を送り、三好三人衆による殺害計画を伝えていたのである。
「なぜ……なぜ、逃げなかったのだ……!」
「永禄の変」の直後、三好三人衆は前久の頼みを守り、姉を助命して近衛家の屋敷に丁重に送り届けてきた。前久は無事であった姉の姿を見てほっと安堵したのも束の間、姉から夫・義輝の死を聞いて茫然自失となってしまったのである。
事前に襲撃を通報したことで前久は義輝は逃げたとばかり思っていた。ところが、義輝は二条御所から動くことはなく、わずかな側近たちと共に孤軍奮闘の末に亡くなったという。
それを聞いた前久は一瞬、「自分が義輝に信用されてなかったのか」と邪推してしまった。確かに義輝の立場からすれば、騙して二条御所の外に誘い出そうとしている罠だと思っても仕方がない。
しかし、実際にはそんなことはなかった。姉によれば義輝は前久からの手紙の「絶対に逃げるように」という忠告を感謝していたという。
だが、一旦は二条御所から出て避難しようとしたものの、幕臣たちに説得されて二条御所に戻り、将軍としての自分の立場を鑑みて二条御所と共に身を任せる決意を固めたのだという。
「そんな、ばかな……。死んで花実が咲くものか」
義輝の心中は断腸の想いだったに違いない。珍しく「武」に長けた将軍であり、肝が座っている人柄はよく知ってはいた。
しかし、だからと言って、死ぬと分かっていながら二条御所に残るのは、並大抵の精神力では考えられず、武士ではない前久にとっては到底理解できず、受け入れがたい行動でもあった。
前久は、頭上の欠け始めの月を見上げながら、最後まで「将軍」としての責務を全うした義輝の冥福を祈ったのであった。
◇◇◇
「……公方様が亡くなった、か」
9月16日。植田順蔵からの報告を聞いた俺はさして驚きを顔に出すことはなく、小さく息を吐いた後しばらく感傷に浸っていた。
そもそも、三好長慶の死後に三好三人衆が暴走するのは、俺の予想の範囲内にもあったことだ。史実でも「永禄の変」は近い時期に起こっており、それが三好三人衆の仕業だということも当然知っていた。
そして俺自身、義輝に対しては面従腹背に近いものがあり、「永禄の変」を阻止しようとも考えず、ほとんど名前だけの御部屋衆ではあった。
だが、それがいざ実際に起きてみると、俺は義輝と対面したことがあり、和田惟政の話によれば義輝も俺のことをよく気にしていたと聞くと、俺だって血も涙もない人間ではない。多少なりとも思うところはあったのである。
そして、義輝に加えて覚慶と周暠も亡くなった。覚慶の暗殺は興福寺に1年以上も前から潜り込んでいた甚八が何事もなく成功させたようだ。
だが、覚慶の死は監禁していた三好の仕業だということになっている。無関係と言っていい寺倉の仕業だと考える者など誰もいないだろう。
「甚八。1年以上の長きに亘る大事な役目であったが、よくぞ見事に成し遂げたな。褒めてつかわすぞ」
「はっ、ありがたき幸せにございます」
「甚八の生まれ育った村の名は何というのだ?」
「はっ、信濃国小県郡の根津村と申しますが?」
「そうか。では褒美にお主に名を授けよう。これからは『根津甚八郎』と名乗るが良いぞ。そして養成所で初めて会った時に約束したとおり、今後は順蔵の下で将来の幹部候補としての教育を受けさせてやろう」
「ははっ。誠にかたじけなく存じます」
「甚八よ、良かったな。だが、これからの修行は長く厳しいぞ。心して務めるのだぞ」
「はいっ、承知仕りました」
甚八は先ほどから平伏したままだ。それにしても根津甚八か。てっきり「真田十勇士」は創作だと思っていたが、まさか実在のモデルがいたのか。すると猿飛佐助や霧隠才蔵なんかもモデルがいるのかもな。
「正吉郎様。もしよろしければ此度の件を命じられた意図をお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
順蔵が恐縮しながら訊ねてきた。そりゃあ、覚慶を暗殺した理由は気になるよな。全部は無理だが、半分くらいならまあ、いいか。
「ふむ。無事に成功したこと故、いいだろう。では、順蔵。まず訊ねるが、応仁の乱以降、京の都が荒れ続けている理由が何なのか、分かるか?」
「……そうですな。天下の権力を得ようと有力大名が相争っているからではないかと存じまする」
「それは間違ってはいないが、少々考えが浅いぞ、順蔵。では、なぜ将軍がいるのに有力大名が相争うのだ?」
「なるほど。それは幕府に力がないため、ですな?」
「うむ、そのとおりだ。では、なぜ幕府に力がないのだ? 力がないのになぜ将軍なのだ?」
「う、むぅ、……申し訳ございませぬ。某には分かりませぬ」
「そうか。単なる偶然を除いて、大抵の出来事にはすべて理由がある。それを考えるようにせよ。幕府に力がないのはな、自前の武力、すなわち軍を持っていないからよ。足利幕府も昔は自前の軍を持っていたはずだが、いつの頃か知らぬが、幕府が軍を失ってからは、将軍になるためにも畿内周辺で強大な武力を持つ有力大名を後ろ盾にせざるを得なかったのだ」
「確かに、六角や細川、三好などですな」
「そうだ。だがな。足利の悪いところは鎌倉の世の宮将軍のように、現実を受け入れて傀儡の将軍にはなりきれないところなのだ。自分を支えた有力大名であろうと、幕府の権威の妨げになれば、他の大名をけしかけて弱体化させようとする。そうしたところで自前の軍を持たない将軍家が強くなる訳ではないのだがな。それゆえに戦乱は収まらず、京の都は荒れ続けたままなのだ」
「なるほど合点が行きましてございまする。では覚慶様は?」
「うむ。覚慶も義輝の弟だ。足利幕府再興の夢を追い求めて、義輝と同じ過ちを繰り返すだろうと考えたのだ。義輝は三好と敵対したが、覚慶ならばどこと敵対すると思うか?」
「まさか、寺倉家と敵対すると?」
「そうだ。これから近い内に寺倉は畿内に進出する。覚慶が生きていたら、兄の仇の三好を敵視し、必ずや寺倉に将軍に就くための支援を求めてくるであろう。そして、寺倉が三好を倒して、覚慶が将軍の座に就いた暁には……」
「今度は寺倉が邪魔になると……」
「そういうことだ。もちろん今となっては、覚慶がどういう行動を取ったか分かるはずもないが、俺にはこれが寺倉家にとって最善の策だと感じたのだ。恐れがあるという理由だけで暗殺しようとする俺は冷酷非道な男か?」
「いえ。決してそのようなことはございませぬ。今の話で某には十分得心が行きましてございまする。まさに神算鬼謀とはこのことですな。誠に恐れ入りましてございまする」
寺倉家は今や100万石の大大名だ。義輝や周暠はともかく覚慶、つまり義昭を生かしておけば、必ずや将軍家の復権を狙って寺倉に刃を向けてくる。史実を知らなければ根拠が弱いのだが、寺倉家のためを思えば絶対に必要な策だったのだ。
ただ、史実とは異なり、覚慶が死んだとなると、三好の動きが予想できない。だが、三好三人衆が「永禄の変」で悪名を高め、結果的に松永久秀の権勢を強めてしまうのは間違いないだろう。そうなると、三好三人衆は三好義興を担ぎ上げて、打倒松永久秀を掲げて内乱を起こすはずだ。
そして久秀も三好三人衆との争いに手一杯となり、寺倉領に侵攻する余力はなくなるはずである。これは寺倉家にとっては大きな隙となる。
依然として160万石の国力を有する三好とは、正面から戦えば勝てる可能性は低いが、それはあくまでも三好が一枚岩だった場合だ。
だが、戦に勝つためには「天の時」を選ぶのが吉だ。三好家中に内乱が起きる時、この好機を逃す訳にはいかない。まさに「漁夫の利」を狙って三好を打ち破るのだ。
それともう一つ。将軍・足利義輝を討ったのは三好三人衆である。したがって、幕府の御部屋衆たる寺倉家には三好家を討つ大義名分があるのだ。
それに、三好家中で内乱が起きたとなれば河内の畠山が参戦してくるかもしれない。
さらに、蒲生も物生山会談で取り決めた領地である志賀郡を三好家に奪われており、三好に内乱が起こったとなれば、あの蒲生宗智のことだ。間違いなく志賀郡を奪取するため攻め込もうと考えるはずだ。
そうなれば三好が寺倉家の侵攻に割ける戦力も限られたものになるに違いない。その時が寺倉家にとって絶好の好機となるだろう。その時に備えて戦力を整えておかなければならないな。
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