大河内城の戦い①

5月末、寺倉軍は北畠家の本拠・霧山城を呆気なく落とした。というのも、北畠具教が霧山城での籠城を避け、城を捨てて脱出したため当然の結果であった。霧山城には具教が寺倉軍の兵を少しでも損耗させるために残した守備兵100のみが残っていた。


その守備兵は初めは寺倉軍の攻勢に抵抗する構えを見せていたものの、城を包囲する1万以上の大軍を見ると、すぐに戦意を喪失させた。


守備兵たちは北畠家の重臣からの命令で「我らは寺倉軍の攻勢に迎撃するべく打って出る。貴殿らには留守となる霧山城を死守する役目を託したい」と、留守居役という重要な役目を任されていた。


しかし、目の前の寺倉の大軍には傷を負った者などほとんど見られない。迎撃したはずの北畠家と交戦すれば、多少なりとも手傷を負うはずなのに、だ。


この時初めて守備兵を率いる家臣は、自分たちが北畠家に信頼されて霧山城の留守居役を任されたのではなく、本隊を逃がすための捨て駒として、騙されて城に残されたのだと理解した。名誉な殿の役目を命じられたのではなく、騙されたことに憤慨した城兵たちはすぐさま降伏し、霧山城を明け渡したのであった。


たとえ100の兵しか残っていない城であっても、天然の要害たる霧山城を落とすには、寺倉軍は多少の犠牲を覚悟しなければならなかった。それが無血での開城に至ったことはまさに僥倖であると言えた。


正吉郎は降伏した守備兵との入れ替えに「長野の戦い」で負傷した兵100を霧山城に残すと、合流した寺倉軍1万1千の兵は、北畠父子が逃げ込み、全兵力を集結させた大河内城へと、伊勢本街道を東に進軍し始めたのであった。




◇◇◇





6月に入り、梅雨の晴れ間に紫陽花の葉が溜まった雨の粒を滴らせる。青や紫の花の水滴が早朝の太陽の光を反射して、色鮮やかに輝いていた。


大河内城に集結した北畠軍の兵は総勢5000。具教は伊勢国司である北畠家の名の下、領内の分家、家臣、国人たちに大河内城への参陣を命じ、北畠家もまた全力を以って兵を掻き集めていた。


「遺憾ながら我らは、父祖伝来の伊勢の地を寺倉の兵どもに踏み荒らされようとしておる。だが、それもここまでだ。寺倉の軟弱な兵どもに、この難攻不落の大河内城は決して落とせぬ。寺倉は長野家に送った我が幼き息子、具藤を殺め、それどころか愚弟の木造具政までも誑かした。皆の者、この恨みを倍にして返すのだ! 屈強なる北畠のつわものよ! 寺倉を完膚なきまでに打ちのめすのだ!!」


「「「えいッ!えいッ!応ッッッーーー!!!!」」」


大河内城の全城兵を前にした具教の檄は、城兵の心を強く鼓舞した。さすがは剣聖・塚原卜伝に師事を受けた剣豪である。表情は威厳に満ちており、身体からはオーラのような威圧感が発散され、天に掲げた刀は早朝の陽光によって眩く光り輝いて見えた。


兵たちの本心は北畠への忠誠心だけではなく、家族を養うため、はたまた自らの野心のためなど様々であったが、具教のカリスマとも言うべき強烈な檄に半ば洗脳されたかのように、一斉に拳を天に突き上げ、雄叫びを上げると、今まさに一致団結したのであった。


具房は城兵たちが具教の檄に応えて獣の咆哮のような喚声を上げる様子を恨めしそうに陰から睨みつけていた。「曲がりなりにも北畠家の当主は私だ。間違っても父上ではない」そんな矜持が具房の胸の内を占めていた。


そんな父親に対する嫉妬心を隠し、具房はその大きな腹を揺らしながら具教の横に並ぶと、隣に立つだけで圧倒されるような威圧感を発する具教とは対照的に、偽りの笑みを浮かべて城兵に頷いて見せた。


「具房よ。兵を鼓舞する檄とはこのようにするのだ。よく覚えておくがよい」


具教は隣の具房を一瞥もせずに告げた。この北畠家の実質的な当主は紛れもなく父・具教である。具房自身それは疑いようもない事実だと認めていた。


寺倉との戦の前に父子の諍いによって肝心な城兵の士気を落とす訳にはいかない。具房も北畠家当主としてそのくらいの思慮分別は持ち合わせていた。この場は父上に従うのが北畠家を救うための最善の道である。城内に轟く喚声に具房は歯を食いしばりながらも、自らの気持ちを抑え続けたのであった。





◇◇◇





小雨がぱらつく伊勢本街道を寺倉軍は整然と東に進軍し、大河内城の手前に着陣した。


大河内城は伊勢国で最高峰の防御機能を誇る天然の要害とも言うべき山城である。北畠庶流の「北畠三御所」の筆頭であり、北畠宗家が途絶えた時に継ぐ立場にあった大河内家の居城であった。


北畠が籠城の方針を固め、寺倉軍が近づこうとも全く打って出ようとはしない様子を見て取った正吉郎は、「どれだけ挑発しても北畠は梃子でも動かないだろう」と戦わずして降伏させることは無理だと早々に諦め、北畠の籠城に対して長期戦覚悟で攻勢を強めることを決めた。


寺倉軍が大河内城に攻撃を仕掛けたのは、着陣して2日後のことであった。


非常に守備の堅い城であることに加え、本格的に梅雨入りして毎日のように長雨が降り続くようになり、寺倉軍の最大の武器である鉄砲が封じられてしまった。これでは、関家の亀山城を落とした時のような「火攻め」も使えない。


そのため、寺倉軍は大河内城を包囲し、物資の補給が一切できないようにしたものの、城攻めには非常に難儀する事態となった。


全くと言っていいほど戦況は変わらず、ただ時間が過ぎるだけの日々が続く。長雨も相まって陰鬱な空気が充満する寺倉軍は、兵の士気を徐々に下げていった。それとは反対に、大河内城内の兵は戦意を上げていった。


正吉郎は少しずつ焦りを覚えていた。大将の焦りは将兵に伝播する。寺倉軍は焦るがままに意味のない攻撃を繰り返し、兵を無駄に損耗していった。


そうした戦況に変化が起こったのは、籠城戦が始まってから半月が経過した6月下旬であった。



◇◇◇




長雨が続いていた大河内城に、どんよりと厚く垂れ込めた灰色の雲の間から一条の光が差し込んだ。城の周りはまだ雨がしとしとと降っていたが、その光は紛れもなく久々に見る太陽の光であった。


少しの間だけ明るくなった外の景色に、物見櫓に立っていた父上はほくそ笑んだ。


(ふふふ、やはり天は我らに味方してくださった。天を味方につけた北畠に、もはや敗北などない)


一見、今の状況に陶酔しているようにも見える父上だったが、その目は冷静で一切の油断は存在しなかった。


少し離れて横に立っていた私は、その父上の目を見てぞくっと身を震わせた。


そして実感する。「あぁ、父上はやはり武の神様に愛された存在だったのだ」と。

それと同時に怖くなった。「父上を失ったら北畠家はどうなってしまうのだろう」と。


悔しいが、非才な自分では父上のように北畠を支えることはできない。その辛い現実は己の心に影を差し、私は顔を俯かせた。


その瞬間であった。


「具房!!!!!!」


耳をつんざくような叫び声と同時に、少し離れて立っていたはずの父上が突然、私に覆い被さってきた。一瞬またいつものように私の不甲斐なさを怒鳴りつけられたのかと錯覚したが、そうではなかった。いや、その方が100倍も良かったと思わせるに至ったのは、目の前の父上の首筋からは鮮やかな血飛沫が迸っていたからだった。


父上は力なく私の上に倒れ込んできた。


「ふふ、儂もまだまだ甘いのう。自分よりも息子を庇って死ぬとは。これもまた運命というべきか」


父上は力なく笑った。私の前ではいつも自信満々だった父上が自嘲したような笑顔を見せるのは初めてのことだった。その間も父上の首から噴き出す血は、布で抑えようとも一向に止まる気配はなく、父上を支える私の身体も鮮血を浴びて真っ赤に濡れていた。


「おい! 何をしている!! 早く医者を連れてこい!!!」


私たちの光景を見て固まっていた兵たちに怒鳴りつけた。いつもは頼りない様子の私が大声を上げたのがそんなに意外だったのか、兵たちは目を丸くしながら一斉に駆け出して行った。


「なにゆえ……なにゆえ某を庇ったのですか! 某がいなくとも北畠はやっていけまする。ですが、父上がいなくてはこの北畠は滅びまする! 自らの立場をお考えくだされ! もうじき医者が参りまする。そのまま動かないでくだされ! 」


父上の首に矢は刺さっていなかったが、不運なことに鏃は抉るように父上の首筋の血脈を深く切り裂き、矢は背後の壁に刺さっていた。弱々しく口角を緩ませる父上に、私は遣る瀬ない気持ちで爪が掌に食い込むほどに拳を強く握り締めていた。


「某は……何もできぬ愚鈍な男にございますれば、某のことを疎ましく思う父上のお気持ちは分かっており申した。なのに、某は……!」


その後の言葉は続けられなかった。悔しげに目線を逸らす私に、父上は血塗れの手で優しく私の手を握った。


「儂はお前の親ゆえ、息子のお前を守るのは当然であろう。最期に言うておくが、お前は決して愚鈍などではない。だからこそ儂はお前を一人前に育てようと日頃から厳しく接し、お前のことをずっと見守ってきたのだ。儂がいなくなろうとも、お前ならば北畠を盛り立てられる。欲を言えば太平の世を、繁栄を謳歌する伊勢の地を、お前と共にこの目で見たかったものよ。そんな世であれば、お前は儂よりも立派な当主となれたであろう。だが儂の命はもう尽きる。これからの北畠はお前に託すゆえ、任せたぞ」


武の神様に愛された父上らしからぬ優しい言葉だった。父上は戦乱の世の大名としてあるべき姿を、私に示し導いていただけであった。決して好き好んで私に厳しく接していた訳ではなかったのだ。父上も同じく天祐様(晴具)という偉大な祖父を持った。それ故に北畠家当主として強くあらざるを得ず、剣の腕を磨いたのだろう。それなのに、私は父上に何一つ教えを請おうともせず、ただ父上に反発するだけで、北畠家当主という立場に甘えていただけの童にすぎなかったのだ。


そんな当たり前のことに初めて考えが至ると、私の目からは大粒の涙が零れ落ちて、視界がぼやけてきた。それと同時に、一筋の光を見せていたはずの梅雨空は再びどす黒く染まり、私の心境を表すかのように土砂降りの雨を降らせ始めた。


ふと父上に目を戻すと、いつの間にかその瞼は力なく閉じており、一目見ただけで息絶えていることが分かった。


「ち、父上ぇーーーーー!!!!!」


医者が駆けつけてくるのが目の隅に映ったが、そんなことはどうでも良かった。私は父上の身体を抱きしめて、童のように延々と号泣していたのであった。

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