長野の戦い

中伊勢・長野城。


この城は伊賀国境と目と鼻の先の位置に構える山城であり、中伊勢と伊賀を結ぶ伊賀街道を眼下に見下ろす長野家の本拠である。


5月、寺倉軍は田植え後直ぐに出陣すると、統麟城から真直ぐ南下し、甲賀郡から伊賀国を経由して伊勢国境へと進軍した。昨年末に蒲生家が甲賀郡を制圧したことで進軍可能となった経路を通って迅速な行軍をしたことにより、伊賀街道から伊勢国に侵入した寺倉軍は、出陣から僅か7日という短期間で長野軍と対峙することになった。


長野家の当主はまだ数え13歳の長野具藤である。6年前に北畠家と長野家が和睦した際に、僅か7歳で養嗣子として長野家に送り込まれ、10歳で元服して家督を継ぎ、長野家当主となった。


現代ならばまだ小学生の具藤は、当然のことながら領地経営など右も左も分からず、実家である北畠家からの指示や具藤の補佐役としてつけられた側近たちの言いなりで動くしかなかった。


だが、補佐役の側近たちも能力的には心許ない者たちばかりであり、5年前に父・具教に従って長野軍を指揮した赤堀家、関家攻めでは、側近の力不足によりいずれも敗北に終わっていた。


そんな長野家は、今回の寺倉の侵攻に対しても十分な備えを整えることはできなかった。


その理由としては、寺倉軍の進軍が予想以上の速さだったこともあるが、最も大きな理由は当主である具藤の行動原理が原因である。具藤は長野家に送り込まれる際に父・具教から命令には全て素直に従い、勝手な行動は厳に慎むように言い渡されており、今でも父のその言いつけを愚直なまでに守っていた。


そして、今回の寺倉家の侵攻に対して、主家であり実家である北畠家は長野家に援軍を送ることはなく、「長野家一党で応戦せよ」という命令が届いただけであった。


その命令を受けた具藤は、やはり愚直に従おうとしたが、長野家の家臣は半分が元からの長野家家臣で面従腹背の半ば敵であり、具藤を積極的に支えようという者は北畠から送り込まれた残り半数の家臣のみに限られた。


その北畠側の家臣も北畠家中で派閥争いに敗れたり、能力的に見限られて左遷されたような者たちばかりであり、具藤は支えと言えるものを何一つ持っておらず、言うなれば見殺しも同然の状態だ。


具藤の父である北畠具教からしても、息子の具藤が可愛くないはずはなく、見捨てるのは苦渋の決断ではあったが、戦力の逐次投入は戦術的に愚策である上に、寝返る恐れのある長野の分家と背中を預け合うリスクを加味しての判断でもあった。そして、実際に具教の判断は間違っていなかった。


さらに、寺倉家は雪解け直後から伊賀街道を荷止めし、中伊勢との流通を遮断していた。


その影響をモロに受けたのが、伊賀との国境を守る長野城を本拠とする長野家であった。伊賀街道を通る畿内からの流通に物資の調達の大半を頼っていた長野家にとって、この荷止めは致命的だったのである。


北畠家も伊賀街道や伊勢街道を止められた被害は受けていたものの、いち早く海路や紀伊との街道による物資調達に変更していたため、荷止めの影響は最小限に抑えられていた。


とは言えそれは北畠家に限った話であり、いずれ霧山城での籠城戦も覚悟していた具教にとっては、当主が息子だとは言え従属下の国人領主に過ぎない長野家に物資を割くほどの温情は持ち合わせていなかった。


その結果、長野家は兵糧を始めとする物資の不足に喘いでいたのである。兵糧が足りない状況での籠城戦など勝ち目があるどころか自殺行為だ。したがって長野軍は、早々に野戦での迎撃を決めたのであった。




◇◇◇




五月晴れの太陽が中天に昇る頃、長野軍は分家の分部家・雲林院家・細野家と合わせて総数2500の兵を率いて、伊賀との国境近くの伊賀街道を封鎖するように陣を構えた。


一方の寺倉軍5000も伊賀街道の伊勢国境を東に抜け、長野軍2500と正面から対峙した。


寺倉軍の総兵数は北畠との決戦も見据え、1万の大台を優に超えていたが、狭い山道の街道を1万以上の軍勢が長い隊列で進軍するのは、横合いからの奇襲を受けるリスクが大きく、中伊勢を制圧するには多すぎる兵力でもあったため、伊賀で軍勢を2つに分け、半数の5500は北畠家の居城である霧山城に向けて南に進軍し、残り半数の5000が伊賀街道を進軍していた。半数の兵力とは言え、それでも長野家からすれば倍する兵数の敵であった。


しかし、長野城の周辺は深い山間部であり、大軍では戦い難い場所であった。兵数では不利の長野家ではあったが、地の利を活かせば何とか互角以上の戦いができるはずだと目論んでいたのである。


長野家のその目論みは決して的外れな期待ではなく、実際に緒戦は大軍では戦い難い地の利を活かして、横合いの斜面からの奇襲を用いることで戦局を優位に進めていたかに見えた。


だが、半刻も経たない内に、このまま寺倉軍を撃退できると考えた長野軍の将兵の淡い期待は脆くも消えることとなり、長野軍の優位は劣勢に転じることになる。


周りを山に囲まれているためであろうか。山彦のように谷間に響き渡り、戦場にいる者たち全員の耳に伝わったその音は、寺倉軍の陣太鼓が打たれる音であった。


陣太鼓の音は一定のリズムで打ち鳴らされ、何かの合図のようにも感じられた。


いや、実際に合図であった。陣太鼓の音が響き渡ると同時に、長野軍に従軍していた雲林院・細野・分部の分家衆合わせて800が、味方であるはずの長野軍に突然攻撃を仕掛けてきたのである。


昼下がりの和らぎつつあった太陽の日差しは、陣太鼓の音と共に灼熱の日差しへと姿を変え、長野軍の兵に降り注いだ。


長野軍はまさかの分家の寝返りに対処できるはずもなく、戦意を大きく削がれ、混乱の渦に巻き込まれることとなった。分家の三家の兵は北畠と和睦してからこれまでの鬱憤を晴らすかのように、鮮やかな血の花びらを戦場に吹き荒れさせた。


それからは戦場は一方的な殺戮の場と化した。面従腹背だった元からの長野家家臣は勝手に戦場から退却し、北畠から送り込まれた家臣が率いる残りの長野軍の兵は完全に戦意を失い、狂気的なまでの恨みを帯びた分家の攻勢に怯えさえ覚えていた。


その中に身を置いていた13歳の長野具藤も同様であった。具藤はつい先程まで生きていたはずの兵の死体と血の海を目の前にして、こみ上げる吐き気と闘いながら涙を堪えていた。


しかし、外から見える具藤の表情は一見冷静なそれであった。ただ、これは北畠家の教育の賜物であり、男子たるもの戦場では毅然とあるべしと父から薫陶を受けた具藤は、その教えを忠実に守っていたにすぎなかった。


具藤は未だ小学6年生程度の子供だ。血に塗れた戦場の景色と臭いに恐怖を感じないはずがない。むしろこの状況において正気を保てていたならば、それは子供の姿をした“何か”だろう。


だが、大将らしく毅然と目の前の戦況を見つめる具藤の目の奥には、確かな鬼胎を抱き、馬に跨る具藤の足は細かく震えていた。次々と命を散らしていく味方の兵を見て、具藤は打ちひしがれたような思いに駆られ、精神的にも追いつめられていく。時間は無情にも刻一刻と過ぎ去っていき、自軍の劣勢を食い止められないまま、本陣の具藤はやがて分家衆の攻撃に飲み込まれていったのだった。




◇◇◇




長野軍は壊滅した。戦場が狭い谷間であったことが災いし、ほぼ全滅に近い惨憺たる結果であった。大将の長野具藤は細野家の兵によって討ち取られたという。


寺倉軍は戦場からほど近くにある長野城に攻め寄せると、戦場から退却した元からの長野家家臣らがすぐさま降伏し、瞬く間に長野城を開城させた。


雲林院・細野・分部の分家三家は改めて寺倉家への忠誠を誓い、このまま南伊勢侵攻に従軍することとなった。


その後、寺倉軍は伊賀街道を東進すると、北畠家の分家である安濃郡の藤方家はすぐに南に逃走したため、ほとんど戦わずして中伊勢の奄芸郡、安濃郡10万石を制圧したのであった。






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