内政と南伊勢の情勢

2月に入ると、俺は内政施策として領内の庶民の暮らしを少しでも楽にするために、「手押しポンプ」の開発を行った。


手押しポンプを作ろうと考えたのは、単純に水汲みが負担の大きい仕事だったからだ。この時代の飲料水や洗濯の水汲みは女性や子供の仕事であり、深い井戸に桶を下しては何度も水を汲み上げる作業は、非力な女性や子供にとってはかなりの重労働である。現代ならば水道の蛇口を捻れば簡単に水を得ることができるが、この時代はそうではない。水を得ることも大変な作業なのである。


手押しポンプは非常に簡単な構造だ。ハンドルに連結されたピストンが本体内部を真空状態にすることで、大気圧によって水がシリンダー内部に吸い上げられる。ハンドルを押してピストンでシリンダー内の水を追い上げ、吐出口から吐出する仕組みである。深い井戸の場合は難しいが、水面が7m程度までの井戸ならば汲み上げができる。

ハンドルは梃子の原理で動くため、非力な女性や老人、子供でも簡単に水汲みができるようになるため、庶民にとっては水汲みに多大な労力を費やすことがなくなり、大きな恩恵を受けることになるだろう。


手押しポンプの構造は簡易なため、絵図面を鋳物師に見せれば少々の試行錯誤で作ることができるはずだ。領内で大量に余っている青銅を本体に充て、パイプ部分は竹の節をくり抜いて繋げば問題ないだろう。


まずは領内での普及を最優先とし、領内のすべての村に手押しポンプが普及次第、同盟国から順次、他国へと売り込んでいくつもりだ。無論、他国に対する値段は寺倉領内の数倍に設定する。奢侈品や消費財ではなく、日常生活の向上に直接寄与する耐久財なので、手押しポンプを一度使ってみて、その便利さを実感したならば、幾ら金を出しても手に入れたいと思うはずだ。


俺は早速絵図面を書くと、熟練の鋳物師を呼んで構造を説明しつつ、手押しポンプの製作を指示したのであった。




◇◇◇





寺倉領は近江や西美濃、伊賀など山間部が多く、少しでも耕作面積を増やして石高を増やすために、俺は灌漑用の「揚水機」を作ることにした。


これまで農業用水は寺倉郷や沼上郷のダムや溜池などで水不足の対策を図っていたが、税率が低く、善政を敷いている寺倉領への他国からの人口流入は沼上郷だけではなく、寺倉領は人口増加の一途を辿っている。


もちろん塩水選や正条植えによる収穫増加の効果もあって、米不足の状況に陥っている訳ではないが、今後は戦の頻度が上がって兵糧がますます必要になることが予想されるため、少しでも石高を増やす策を講じておきたいと、堀秀基や浅井巖應からも相談を受けている状況だ。


そこで揚水機を使って、これまで開墾できなかった土地を灌漑して開墾し、耕作面積を増やすことを考えたのだ。


揚水機の中でも最も有効だと考えたのは足踏み式の揚水車だ。別名「踏車」と呼ばれるもので、史実の日本では江戸時代後半に普及したものである。


川辺に取り付けた踏車の羽根の上に人が乗り、羽根の角から角へと踏車の上を渡り歩くことにより、人力で回転する踏車の羽根が川の水を高い位置に汲み上げる仕組みとなっている。


既に水車自体は粉挽き用などに存在しており、それを改良するだけで、それほど複雑な構造ではないので、絵図面を書いて渡せば木工職人が作ってくれるだろう。


史実では踏車の前に中国で発明された「竜骨車」という、水樋の中で数多くの板を取り付けた無限軌道を回転させ、樋内の用水を掻き上げる仕組みの装置が江戸時代初期に伝来したが、構造が複雑で破損しやすい上に、操作に2人必要なことから普及しなかったようだ。


その欠点を改良したのが足踏み式揚水機の踏車である。これならば操作は1人で事足りる上、構造も複雑でないので故障も起きにくいために、全国に広く普及したのだ。


この踏車が寺倉領内に普及すれば、従来は人力で桶などで田んぼに汲み上げていた重労働が楽にできるようになるだけでなく、川の水位よりもかなり高い位置にあって開墾を諦めていたような土地でも開墾できるようになるはずだ。さらには踏車を何回か使うことにより、山の緩い斜面に棚田や段々畑を作ることさえ可能となるだろう。


俺は手押しポンプと踏車の二つを領内に普及させるべく、構造や作り方を細かく記したものを家臣に渡して、早急に作らせるように命じたのであった。



◇◇◇



伊勢国・霧山城



「長野の分家を監視していた素破が姿を眩ました、か」


3月初旬、北畠家前当主・北畠具教は居城の霧山城の評定の間にて、宿老の鳥屋尾満栄からの報告に頰杖を突いて面倒臭そうに嘆息した。


元々長野家の血を引く雲林院、細野、分部の三家に対しては、具教は長野家との抗争以来、厳しい目を向けていた。長野家との和睦の条件として自らの次男・具藤を養子として送り込んで家督を継がせ、半ば乗っ取りの状態とした。


分家の人間はおそらく、長野家を自由にさせぬべく目を光らせていた先代・先々代の当主を北畠が毒殺したことは既に掴んでいるだろう。


具教は長野親子をまとめて暗殺したことに若干の後悔を覚えていた。長野家を乗っ取ったとはいえ、実家や本家の身内を殺したことで分家から憎悪の目が北畠家や具藤に向けられ、分家の統制に苦労する羽目となっては元も子もないからだ。


とは言え、あのまま放置していれば、逆に具藤の方が暗殺されていた恐れが大きかった。「やられる前にやる」のがこの乱世の鉄則だ。やられた後でいくら泣き喚こうが、負け犬の遠吠えにすぎないと、父・晴具とも相談して決めたことに間違いはなかったはずだ。具教は心中で何度目か覚えていない同じ堂々巡りに陥っていた。


だが、そうなれば長野本家の正統な血筋を引いている分家の連中が黙っているはずがない。必ずや何らかの敵対行動に動くはずだと考え、北畠の素破を監視役として置いていたのだ。


その分家の反乱を未然に防ぐために放ったのが素破である。具教は定期的に分家の全ての行動について報告させていた。しかし、その素破が忽然と姿を消し、行方知れずだという。北畠の素破の待遇は、わざわざ自ら食い扶持を捨てるほど悪くはないはずである。


となれば、その素破は分家の連中に存在を気づかれて亡き者にされたか、他家に懐柔されて引き抜かれたか、その二つ以外に理由は考えにくい。


だが、長野本家の主家たる北畠家が長野の分家に監視役を置いていたことをこちらから認めて、監視役をどうしたのかと問い質す訳にもいかない。


この数年間で急速に勢力を拡大している寺倉家は、既に桑名郡を除く北伊勢と伊賀を制圧し、次は間違いなくこの南伊勢へ攻め込んでくるだろう。


ここで長野の分家の連中にあらぬ懐疑をかけてしまえば、却って寺倉への寝返りを促しかねない。貴重な戦力をここで失っては対寺倉への戦線に影響が及んでしまう。それだけではなく、周辺の弱小国人にも北畠に対する疑念が波及し、寺倉に尻尾を振る可能性も十分ある。


寺倉伊賀守は75万石の大大名だ。伊勢国司とはいえ寺倉の半分以下の国力の北畠家では、戦力的にも不利なのは火を見るよりも明らかである。そんな中でわざわざ敵を利するような火種を撒く訳にはいかない。

具教は靄がかかったような心中を無理矢理振り払うように、首を左右に振り払うと思い切り自らの太腿を叩いた。


海に程近く、南からの潮風が吹く伊勢国では、2月末には山間部でも積もった雪が瞬く間に融け出し、残雪が固まって街道の端々に固く凍りついているだけで、雪の残る部分も殆ど見られなくなっていた。霧山城から見えるそんな風景の変化が、春の到来を告げようとしていた。


もうじき寺倉が戦の支度を始める頃だろう。そろそろ北畠も迎え撃つ態勢を整えなければならないが、はたしてこの霧山城で寺倉軍を撃退できるのであろうか。


具教はそんな難問に悩む素振りなど欠片も見せずに、塚原卜伝から奥義である"一の太刀"を伝授された剣豪の名に相応しく、伊勢国司として毅然とした立ち振る舞いを見せつつ、力強く畳を踏みしめて評定の間を出ていったのであった。

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