関家征伐と百地臣従

収穫期を迎えた寺倉領は、軒並み豊作となった。例のごとく検地と戸籍の作成への協力を条件に、正条植えと塩水選の手法を西美濃の領民にも伝授すると、隣国であった近江の豊作の噂は西美濃にも当然届いており、皆喜んで協力を申し出た。


そして米の収穫が終わり、万全の体制を整えると、寺倉家は北伊勢への再侵攻のために出陣した。その数5000。ただし、今回は北伊勢の国人衆は前回の戦で兵を大きく損耗していたのを考慮したのと、関盛信や伊賀衆の奇襲を警戒して、寺倉家の譜代家臣が率いる部隊のみで軍勢を編成した。寺倉軍は北伊勢に残る関家と周辺の僅かな国人を攻め滅ぼすべく、鈴鹿郡に進軍を始めた。


寺倉軍5000の再侵攻の報せを受けた関盛信は、7月に乾坤一擲の夜襲による寺倉蹊政の暗殺に失敗したため、同じ手が寺倉軍に二度も通用するとは考えてはいなかった。


だが、今さら降伏して命乞いしたところで認められるとも思えず、家臣や家族、そして何よりも自身の命を守るため、最後の最後まで寺倉軍に抗い続ける覚悟だった。そして、前回の戦で伊賀衆に多額の報酬を支払ったために蓄えが残りわずかとなり、今回は伊賀衆を雇うこともできず、やむを得ず籠城戦に臨んだ。


だが、関盛信は前回の敗戦は必ず寺倉軍の将兵の心の奥底に一抹の恐怖心となって残っているはずであり、そこを突いてしぶとく地の利を活かした持久戦に持ち込めば、幸い収穫後で兵糧には余裕があるため、敵の兵糧切れまで何とか持ち応えられるはずだと目算を立てていた。




◇◇◇




関谷に着くと、7月の戦と同じく、寺倉軍は亀山城を包囲するように布陣した。今回は本隊よりも先に服部半蔵ら伊賀衆を関谷に送り込み、藤林家の援護がないかどうか徹底的に調べさせ、もし藤林家の援護があるようならば関家を上回る報酬を藤林長門守に提示して寺倉に寝返りを働きかけ、それがだめならば長門守を殺せと指示していた。


そして、関谷に到着すると半蔵からは藤林の援護はないと報告があり、ひと安心したのだが、それでも亀山城の守備兵は寺倉の5000の大軍を目の前にしているというのに、前回の戦勝の自信からか士気は非常に高い。関家も兵糧の備蓄は潤沢にあるはずで、こちらの兵糧切れまで徹底抗戦する構えのようだ。本当に一筋縄ではいかない厄介な敵だと感じる。


だが、今回の北伊勢再侵攻に当たって、俺は前回の敗北を糧として事前に策を練ってきた。もう二度とあのような目に遭って市を悲しませたくないからな。


だから今回は奴と同じ土俵に立って悠長に兵糧攻めをすることなどはしない。短期決戦でケリをつけるつもりだ。だからと言って、正面からの力攻めでは徒に兵を損耗してしまう。


そこで、俺は「火攻め」を用いることにした。これまで俺は敵であってもできるだけ人死にが少ない戦い方を選んできた。だが、今回だけは別だ。今後、俺が戦国大名として日ノ本を平定するためには、綺麗事ばかり言っていては済まされない。


ここは心を鬼にしてでも亀山城を火攻めで落とし、この戦いを固唾を飲んで見守っているはずの藤林や北畠に恐怖心を植え付ける。それが結果的に人死にを少なくすることに繋がるはずだと俺は腹を括った。


亀山城を包囲した翌日、雲一つない晴天である。今は11月だ。冬の気配が近づき、空気も乾燥している。俺は全軍に火攻めの号令を下した。


亀山城を包囲する全軍から一斉に油壺が城内に打ち込まれると、すぐに火矢が放たれた。敵の守備兵は懸命に消火しようとするが、焼け石に水だ。瞬く間に火は亀山城全域に広がっていく。関盛信を弔う盛大な送り火、俺の目にはそのように映った。


すると、間もなく城門が開かれ、関軍1500の城兵が決死の覚悟で打って出てきた。城を枕に焼け死ぬくらいならば、一人でも多くの寺倉兵を道連れにしようと考えるのは、当然の判断だろう。


もちろん城門の前には大倉久秀、藤堂虎高、前田利蹊、本多忠勝、朝倉景紀ら武闘派の重臣連中が前回の雪辱を晴らすべく手ぐすねを引いて待ち構えており、打って出てきた関軍を我先にと討ち取っていく。多勢に無勢の一方的な虐殺だ。


一刻の後、離れた場所の本陣にいた俺は戦の結果報告を受けた。関盛信や一族郎党は城内で切腹して果て、女子供も後を追ったそうだ。


こうして関家は滅亡した。俺を絶体絶命の窮地にまで追い詰めた男がこれほど呆気なく死んだことに、俺はどこか遣る瀬なさを感じていた。





◇◇◇




関家と周辺の国人を討ち滅ぼし、寺倉家は鈴鹿郡5万石を得た。そして長島の願証寺率いる一向門徒が治める桑名郡を除き、北伊勢を完全に平定した寺倉軍は、関家を滅ぼした勢いをそのままに伊賀国へと攻め入った。


伊賀に残る上忍三家最後の一人、藤林長門守正保は、近江の甲賀郡と国境を接する湯舟郷を本拠としていたが、服部が寺倉に臣従し、百地三太夫が討死したことにより実質的な伊賀国の国主、伊賀流素破の頭目としての地位を得た。


寺倉軍は百地三太夫の本拠であった東部の喰代郷に侵攻すると、ほとんどの砦はほぼ無人で易々と攻め落とし、本城の百地城を包囲した。既に百地家の一族郎党は7月の戦の襲撃で手練れの男たちをほとんど失っており、城の主の百地三太夫の遺児、百地新太を守るのは戦傷や年老いて戦えない者ばかりであった。


俺は百地新太と顔見知りという服部半蔵を使者として百地城に送った。新太も勝てないのは悟っていたのだろう。半刻後に服部半蔵に連れられて俺の前にやって来た新太は、まだ8歳の子供で、年齢から考えると将来の百地丹波ではないかと思われた。こんな子供が一族の長として戦わなければならないこの乱世の苛酷さを俺は呪いたくなる。


「お主が百地新太か」


「はい。左様にございます」


「俺はお主の父、三太夫を殺めた男だ。俺が憎いか?」


「いいえ。父は仕事を請け負い、寺倉伊賀守様に一騎打ちを挑んだ結果、敗れたとのこと。やむを得ないことと存じます」


俺は新太の口上を聞いて、これが8歳の子供の言うことかと驚いた。父親を殺されてここまで真っ直ぐな眼差しで仇の目を見据えることができるというのは、普通できることではない。俺であれば真っ先に強い怨讐をぶつけ、口汚く罵ってしまうことであろう。


8歳という歳となればまだ親に甘えたい年頃であり、親の死に耐えられず潰れてしまっても何らおかしくはない。俺はそんな新太の真摯な姿に胸を打たれると、静かに頭を下げた。


「そうか。俺も自分の命を守るためには三太夫と戦い、討ち倒すしかなかったのだ。許してくれ」


「いいえ。寺倉伊賀守様が頭を下げる必要はございませぬし、恨んでもおりませぬ」


と言う新太の顔を見ると、目に涙を浮かべていた。仇の俺に頭を下げられたことで、父を巡る因縁を無理矢理に断ち切ったのか、その顔は涙に濡れながらもどこか晴れ晴れとしていた。口では恨んでいないと言っても、心の底では拭い切れないわだかまりに似た感情が去来していたのだろう。


「そうか。お主の言上、百地家の当主として誠に天晴れであるぞ。俺はお主ら一族を半蔵の配下として召し抱えようと思うておるが、どうだ?」


「はい。ありがたき幸せにございます」


「うむ。では、百地家一党のこれからの働きに期待しておるぞ。半蔵、新太たち百地一族をよろしく頼むぞ」


「はっ。畏まりましてございまする」


こうして百地一族を降伏、臣従させると、俺は藤林長門守の居城、藤林城がある湯舟郷へと兵を進めた。






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