諏訪原会談と伊賀守

8月18日、織田軍は遠江国を制圧した。武田、織田共に新たな国を得たが、それが原因で国境付近でいざこざが発生する。


武田信玄はこれをきっかけに攻め込まれてはひとたまりもなく、義信を廃嫡した面目も保てなくなると危惧したため、早々に織田側に使者を送り、今後暫くの不戦協定を結ぼうと考えた。織田家としても遠江に遠征し制圧したものの、まだ不安定な部分も多く、武田と新たな戦をする余裕はなかったため、信長はこの申し入れを受けることにした。


信玄は申し入れた側として遠江国の駿河国との国境を警備する諏訪原城での会談を受け入れた。こうして両者同意のもと、当主同士が顔を合わせることとなる。


諏訪原城では最大限の警戒体制のもと、間違いがあってはならないと両者無腰の状態で上座を設ける事なく対峙した。


「織田家当主・織田上総介信長と申す」


「武田家当主・武田徳栄軒信玄である」


両者は威厳に包まれた佇まいであり、互いに睨み合っていた。その空気は二人きりの部屋の外にまでひしひしと伝わっており、刀がなくとも何かが起こるのではないかというような一触即発とも言える異様な緊張感があった。


「さて、信玄殿は不戦の約定を結びたいと申すようだが、それに間違いはないな?我らにとっては異存ないが、貴殿とはこれまで面識がなく、如何なる人物かよく判らぬゆえ、その真意と誠意をお聞かせ願いたい」


「フハハ、有り体に儂を疑っていると言ったらどうだ?」


信玄の挑発するような一言。信長のこめかみはピクピクと動いていた。しかし、怒りを顔に出すことはなく、逆に口の端を上げて笑みを漏らすと、「それでは遠慮なく」と口を開いた。


「盟友であるはずの今川家を裏切った武田を、我らは単刀直入に言って“疑っている”。不戦協定などと言って結んだ直後に油断した隙を狙って攻め込んで来られては堪ったものではない」


「上総介殿、貴殿の仰る通りだ。そう思われることは承知の上で参った。だが、我らとしても織田と一戦交えても勝ち目は薄いのでな。駿河を平定した今、織田と渡り合う力は残っていない。それは織田も同じであろう?」


「.......」


信長は信玄の目を見据えたまま無言を貫く。その真意を見抜こうとその一挙一動に睨みを利かせていた。


「それでも信用できないというのも仕方がない。儂が織田の立場であっても、武田を信用することなど到底できぬからな。だから此度は土産を持参した。誠意の証として受け取ってもらいたい」


「ほう。それは一体何かな?」


「貴殿の嫡男・奇妙丸殿に娘の菊を嫁がせよう。菊はまだ6歳だが、婚儀を行うまでは織田で預かってもらって構わぬ。どうじゃ?」


菊姫は史実で上杉景勝に嫁いだ武田家の姫である。その菊姫を信長の嫡男に嫁がせようというのだ。


「奇妙はまだ9歳の童だが、6歳の幼い娘を人質に出すつもりか?」


意外にも誠実で他人の事を気遣う性格を持つ信長は、信玄の容赦ない提案に眉根を寄せて露骨に不快感を露わにした。


「ふん。戦国の世の習いじゃ。どうじゃ?」


信玄は義信の廃嫡の時のように、否応もなく身内であっても切り捨てる人間だ。だからこそ、菊姫であっても自らの手札として使えるのであれば躊躇なく使うのだろう。


「人質がいようが、婚姻を結ぼうが、今川との手切れを見れば、さほど意味はないようにも思えるが、是非もない。よかろう」


こうして、武田信玄の娘・菊姫と織田家嫡男・奇妙丸が婚約し、婚儀までの数年間を人質として織田家に預けられることとなり、織田と武田との間で不戦協定が結ばれたのであった。だが、この不戦協定は年限の定めがない協定であり、近い将来の開戦が予想される内容であったが、果たしてそれは現実のこととなるのであった。




◇◇◇




8月下旬、朝廷の財政の最高責任者である山科言継が突然、統麟城を訪ねて来た。要件は朝廷への献金の要請である。


山科言継は内蔵頭として朝廷の逼迫した財政の建て直しを図るため、諸大名から献金を獲得するために全国各地を奔走した人物である。


俺は掃部助を叙任された後も、朝廷には年末に最高級の羽毛布団を献上したり、継続的に献金を行っていたが、今回は山科言継からの売官営業活動、簡単に言えば官位の押し売りであった。


「掃部助殿、伊賀守の官職をお受けにならぬか?」


「伊賀守? 伊賀国は下国ですので、伊賀守は従六位下に相当するのではございませぬか? 某は従六位上でございますれば、わざわざ伊賀守を叙任される必要は存じませぬが?」


「左様。伊賀守は従六位下に相当するでおじゃる。じゃが、位階と官職が不一致なのはよくあることでな。掃部助殿は今や60万石の大名でおじゃる。位階も従六位上ではなく、正六位上あたりが相応しかろう。

無論、官職は掃部助のままでも良いのじゃが、伊賀守は伊賀国の国司を表す官職じゃ。掃部助殿は近い内に伊賀国を攻めるつもりではおじゃらぬか? もしそうならば、伊賀国を治めるに当たって伊賀守の官職があると何かと都合が良いのではないかと思うぞよ。よって「正六位上・伊賀守」の叙任を受けてはいかがでおじゃるかな?」


なるほど、そういうことか。確かに伊賀国を接収すれば、初めて一国を統治する国持ち大名になる。捕らぬ狸の皮算用ではないが、伊賀守の官位があれば伊賀国統治の正当性を主張できるな。山科言継も下位の官職の伊賀守を少しでも高く売りつけようと考えて、俺のところにやって来たのだろう。まさに営業マンの鑑だな。


「なるほど。そういうことであれば承知いたしました。ぜひとも伊賀守の叙任をお願いしたく存じまする。では、いかほど献金をすればよろしいのでしょうか?」


「ほほほ、まこと単刀直入でおじゃるな。その物言いは嫌いではないぞよ」


その後で山科言継が要求した金額は、臆面もなく相場よりも5割増しの額であった。俺にとっては「伊賀守」の価値は高く、内心では「この野郎、人の足元を見やがって」と思ったが、顔には出さずに値切り交渉を行った。


いつかは史実の信長のように朝廷の方から官位をもらってくれと頼みに来させてやると心に誓うと、山科言継が酒好きだと聞いたことがあったので、試作したばかりの芋焼酎を味見させて、「相場の献金額に収めてくれれば、この酒を山科言継個人に贈ってもいい」と鼻薬を利かせた。


さすがの山科言継も初めて飲んだ酒精の高い酒に目が眩み、最後には「そちの尊王の志に主上もお喜びになるでおじゃろう」と言って妥協してくれた。どうやら芋焼酎の味は酒好きにも合格点をもらえたようだ。これなら将来は大きな収入源になりそうだな。


そして北伊勢再侵攻の出陣直前の10月上旬、朝廷の使者から正式に「正六位上・伊賀守」の叙任が通達されたのであった。





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