躍進と動乱の幕開け

帰還と雪辱の決意

「兄上、ご無事で何よりにございます」


退却中も近江国に入るまでは気を抜けなかったこともあり、2ヶ月の遠征からようやく我が家に帰って来られた安堵感に包まれ、全身の痛みに加えて溜まっていた疲れが重く圧し掛かってきた。


無論、寺倉家当主としてそれを顔に出すことはない。敗軍の将と言えども新たに北伊勢15万石の領地を獲得したのだ。弟の前ではまるで勝ち戦であったかのように毅然とした態度で接していた。


嵯治郎は落ち着きがあり思慮深く、時には秘めたる豪胆な面が顔を出すこともある。鉄砲を持っている時など良い例だ。完全に自分の世界に没入し、普段とは性格が変わったように豪快な立ち姿で兵を魅了する。


優柔不断で繊細な俺とは大きな違いだ。此度の戦でそれは浮き彫りになっただろう。


しかし、そんな冷静な嵯治郎でも、俺が「関谷の退き口」で命の危機に瀕したと聞くと、顔から血の気が引いて真っ青に染まってしまった。


一時は瀕死の状態で臨死に陥ったのだから、こうして生きて話をしているのは本当に奇跡とも言えるだろう。さすがに極楽浄土の手前で父上に会ったことは話していないし、話しても信じてもらえるとも思えないが、蹊祐や慶次の言葉添えもあり、絶体絶命の窮地を潜り抜けてきた戦のリアルな描写は、嵯治郎の心に強烈に突き刺さったようだ。


市には心配させたくないと思い、詳しい描写は極力省き、簡単な戦の経過のみを話すつもりだったが、嵯治郎によると俺のことを最も心配していたのは市だという。


俺が不在の間、市は心ここにあらずぼーっとした感じで、俺の身に起こった危機も察知したらしく、突然“嫌な胸騒ぎがする”と言って食事も喉を通らずに心配していたらしい。


そんな市の様子を聞いてしまっては、市に隠し事などできるはずもなく、俺は極楽浄土の話さえも包み隠さず正直に伝えることにした。


市は俺の胸に顔を埋めると、


「本当にご無事にお帰りくださり、嬉しうございます。本当に心配で、心配で……胸が張り裂けそうな毎日でした」


と涙ながらに俺に訴えて大泣きしてしまい、これには流石に申し訳ない気持ちで一杯になる。やはりこの世で俺のことを一番思ってくれているのは市だ、とあらためて痛感し、市の背中を優しく撫でてやりながら安心させて、市が泣き疲れて眠りについたのは夜遅くになってからだった。




◇◇◇




退却戦と帰還の長旅で溜まった疲労を加味し、統麟城に帰還してから2日後、俺は統麟城に留まっていた重臣を召集して今後の方針を話し合うための臨時評定を開いた。


「幸いなことに、我らは誰も命を落とすことなく帰還することができた。天は我らにお味方されておる。今年中に北伊勢に再侵攻を行う!」


重臣たちは揃って首肯する。反対はないようだ。


「ただ、今すぐに出陣という訳には参りませぬぞ。此度の戦は大軍を以っての出陣、さらには兵糧攻めの策で2ヶ月に亘る長期遠征となった分、兵糧に懸念がありまする。しからば、ここは秋の収穫を待ってから出陣するのが賢明かと存じまする」


財政担当官である堀秀基が鋭く提言する。秀基の言うとおり、今すぐに出陣しても、兵糧の調達で苦労することが容易に予想できる。俺も再侵攻が秋以降になることに異存はなく、首肯した。


「北伊勢の国人には一部怪しい動きを見せる者もおりましたが、正吉郎様が生きていると知るや否や、慌てて掌を返してその動きを揉み消したとのことにございます。北伊勢の国人は先の戦で奇襲を受けたことにより同士討ちなどもあったようで、大分痛手を被っております。功を競わせ戦意の向上を促すつもりが完全に裏目に出た形ですな」


光秀が言うには、今回の北伊勢侵攻で寺倉軍は手痛い敗北を喫したものの、俺が生きていると知り、神戸家も含めて臣従した北伊勢の国人は一人も離反せず、退却中の寺倉軍を襲おうなどという痴れ者も現れなかったということだ。


「残るは関と伊賀の藤林か」


「そうなりまするな」


現在北伊勢に残る主な敵対勢力は、関家とそれに従う僅かな国人だけだ。


俺は退却戦の一騎打ちで百地三太夫を討ち取った。顔は見なかったが、関盛信の命令を受けて亀山城を包囲する寺倉軍を奇襲したのは十中八九、藤林長門守である。百地三太夫がいたならば、藤林長門守がいないはずがない。そして、服部と百地が伊賀にいない今、伊賀国の実質的な長はこの藤林長門守だ。三好に掠め取られる前に藤林を下して、北伊勢再侵攻と共に伊賀国10万石を接収しておきたい。


「では北伊勢への再侵攻は秋の収穫後に行い、同時に伊賀にも侵攻して此度の戦の雪辱を期す。皆、軍の再編成と物資の準備を進めておけ」


「「「「「「はっ」」」」」」


こうして、北伊勢再侵攻と伊賀侵攻の方針が決まった。まずは新たに臣従した北伊勢の河曲郡以北の領民を慰撫して人心の安定を図り、策謀家の関盛信の調略で北伊勢の国人が寝返らないよう、万全の態勢を整えなければならない。




◇◇◇




寺倉家が北伊勢に侵攻していた頃と同時期に、竹中と浅井も各々の侵攻目標へと兵を差し向けていた。竹中は飛騨国、そして浅井は加賀一向一揆がいなくなった越前国である。


飛騨国を治めるのは姉小路嗣頼という。順蔵によると、嗣頼は元の名を三木良頼と言い、三木家は飛騨南部の下呂を支配していた京極氏の家臣だったが、父・直頼が益田郡を拠点に飛騨南部に勢力を伸ばした。嗣頼は飛騨国司だった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取って戦国大名となり、飛騨支配の正統性を得るために強引に姉小路の名跡を継承したのだという。


見事なまでに斎藤道三の下剋上に似た手口で笑えるな。嗣頼は南の美濃との安全保障のために、その斎藤道三の娘を嫡男・頼綱の妻に迎え入れているから、おそらく道三から国盗りのコツでも教わったのだろう。


西の加賀一向一揆と北の越中の上杉を警戒したい嗣頼と、北の飛騨を安全圏にしたい道三の思惑が一致した婚姻だったのだろうが、史実では無警戒だった東から武田が険しい山道を越えて飛騨東部に侵攻してくるのだから、この戦国乱世は何が起きるか分からないな。


道三の娘と言えば、嗣頼は帰蝶を妻に持つ信長とは縁戚の関係にあったが、道三が死に、美濃一色家も滅んだ今となってはもはや何の意味もなく、信長は竹中の飛騨侵攻には何も口を出すつもりもないようだ。


竹中軍4000はあっという間に下呂の桜洞城を攻め落とすと一路、姉小路家の本拠・天神山城へと進軍した。


美濃一色家と婚姻関係を結んで敵対を回避し、険しい山地が大半を占め、3郡の狭い山間部を合わせても4万石にも満たない貧しい土地である飛騨国を治める嗣頼にとって、新たに美濃国主となった竹中が4000もの大軍で侵攻するのに対抗する術など持ち合わせておらず、御家存亡の危機だったはずだ。


だが、嗣頼にも飛騨国主としての矜持があり、大軍に攻め込まれて簡単に降伏するなど弱腰な態度を見せる訳にはいかず、後先を考える余裕などあるはずもなく命懸けだったようだ。


嗣頼は竹中の進軍を知ると、南部の小城は放棄し、本拠の天神山城に兵の身分を問わず集まるだけ集め、兵力を集結させた。その数1500。文字通り姉小路家の全戦力である。


そして、ありったけの兵糧を領内から掻き集めると、ただ嵐が過ぎ去るのをジッと待つ籠城戦に懸けた。


対する竹中軍4000は城攻めに必要な3倍の兵という基準はクリアしておらず、その上堅城の天神山城を力攻めで落とすのは厳しく、できたとしても兵の損耗が大きい。


かと言って兵糧攻めは、城内には多くの兵糧が備蓄されており、城を落とす前に竹中軍の兵糧が底を突いてしまうため不可能である。


そう判断した半兵衛は一計を案じ、干殺しとも乾渇攻めとも呼ばれる水断ちの策を採ることにし、素破に命じて天神山城の水源をことごとく破壊させていった。いくら米があろうとも水が無ければ人間は生きていけないという本質を突いた半兵衛の策に対して、水源を断たれた姉小路軍はもはや籠城を続けることができず、城を出て野戦に打って出た。


そうなれば、兵数で数倍勝る竹中軍に姉小路軍が野戦で太刀打ちできるはずもなく、あっという間に姉小路軍は瓦解し、嗣頼は討死して姉小路家は滅亡した。


こうして天神山城を攻め落とした竹中軍は、吉城郡の江馬家や白川郷の内ヶ島家など独立勢力の有力国人の臣従を受け入れる形で飛騨国制圧を成し遂げたのである。飛騨国は石高は低いが、国内屈指の鉱山である神岡鉱山や金山がある国だ。半兵衛も鉱山が手に入って、これからは財政的に随分と楽になるだろう。




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