北伊勢侵攻③ 関谷の退き口

一方、少し時を遡り、北近江・統麟城。


昨年元服し、美濃侵攻で初陣を済ませていた正吉郎の弟・寺倉嵯治郎惟蹊であったが、美濃侵攻では岐阜城の守備をしただけで、実際には戦闘は経験しておらず、嵯治郎は今回の北伊勢侵攻での出陣を希望するも、正吉郎から留守居役に命じられていた。


不満ながらも渋々留守居役を仰せつかった嵯治郎であったが、5月中旬の出陣以来、長く続く北伊勢侵攻に思いを馳せていた。


そんな嵯治郎以上に正吉郎を心配していたのが、正吉郎の妻の市だった。長男・蔵秀丸の世話をしている時以外は、長い間正吉郎の顔を見ていない寂しさか、それとも不安感からか、心ここに在らずといった表情で、日がな一日ぼーっと外の景色を見つめていることが多かった。


統麟城から見える景色は、夏の琵琶湖の穏やかな波と湖面に浮かぶ船が描き出す長閑な情景と、城下や松原湊を行き交う人々の喧噪によって、寺倉領の繁栄が色濃く映し出されていた。


その平穏な城外の景色を目にしても、市の表情は晴れることはなく、今日も寂しそうな表情で嘆息を吐いていた。


そんな市だったが、日が西の湖面を赤く染めた暮色蒼然の頃、徐に口を開いた。


「嫌な胸騒ぎがします」


それはたった一言、半ば独り言のような小さな声であったが、それは妙に響いて嵯治郎の耳に届いた。


「嫌な胸騒ぎ、とは?」


「正吉郎様の身に何か災いが、とんでもなく悪いことが降りかかりそうな、とても不吉な予感がするのです」


嵯治郎が恐る恐る市の顔を覗き込むと、その目には光が灯っておらず、市の懸念する事態が本当に起きようとしていると信じさせるほどであった。


ぶるっと身震いした嵯治郎は、「兄上、何卒ご無事でいてくだされ」と心中で兄の無事を祈ったのであった。




◇◇◇




小雨が降る中、正吉郎は慶次ら僅かな側近を引き連れ、景紀配下の蜂須賀小六ら川並衆が待つ鈴鹿川に向かっていた。


しかし、鈴鹿川に通じる道は一つ。百地三太夫は川並衆が鈴鹿川に川船を手配していたことは探知済みで、正吉郎たちがこの道を通ると予測して待ち伏せていた。


つまりは、正吉郎は三太夫の仕掛けた罠にまんまと誘い込まれたのである。


北伊勢の国人衆を奇襲したのは藤林長門守だった。そして、少数部隊だった長門守は、警戒が厳重で手練れが多い寺倉の本陣を急襲することは避けた。であるからして、三太夫の部隊に先回りさせて、退却する大将を襲撃させた方が成功しやすいと考えた訳なのだ。


百地三太夫は馬で駆ける正吉郎を捕捉した。駆けるといっても、山道と呼んでもいい山合いの狭い道で石や段差も多く、いくら日本の馬が山向きといえ、駆ける速度は人が走る速さと大差はない。


正吉郎の周りは慶次ら馬廻りが囲み、横からの攻撃を受けないように万全の態勢を敷いていた。草木の陰に隠れて待ち伏せていた三太夫は正吉郎ら一行が近づくと、手持ちの手裏剣を正吉郎の馬を目掛けて投じたのであった。




◇◇◇




突然、馬がわなないて二本脚立ちし、手綱から手が離れて俺の身体が宙に浮いた。不思議な感覚だ。真下にあるのは地面のはずだが、夜間であり、月明りが差し込まない場所である。その地面は奈落の底の如く、永遠に終わることのない暗闇のようにも思えた。


空中に浮いている間は、周りの動きがスローモーションになったように感じ、俺自身もゆっくりと落下していくのを感じた。慶次が目を見開いて驚く表情が目に焼きつく。さっき俺を説教した時には表情一つ変えなかったのにな。詰めが甘いぞ。そんな益体もないことを思うほどに時間が長く感じた。


そう思った直後に、俺の身体は背中から地面に打ち付けられた。不思議と痛みは感じられない。いや、感じてはいるが、おそらく頭が痛みを拒絶しているのだろう。


あいにくと下り坂だったため、俺の身体は落下した勢いで地面を転がり始めた。身体に力が入らないため、抵抗できずにそのまま転がり落ちていくだけで、手足を動かしてどうにかして止まろうという気力さえ起きなかった。



そして、俺は次第に意識が遠のいていくと、慶次の泣き叫ぶ声を子守唄にして、意識を手放したのだった。




◇◇◇




ーー......郎。...吉郎。正吉郎。



夢を見ていた。俺の顔を覗き込むのは、見慣れていたはずだが、どこか懐かしい顔であった。最初、誰だか分からなかった。久しぶりに顔を見たからということもあるだろうが、俺が父上の死を受け入れ、ただ前を向き始めていたからだろう。


周りは一面の花畑だ。こんな光景が見られるのは冥府だけだろう。そして、亡き父上が目の前にいるということが、自分は死んだのだと認識させる。


しかし、目の前にいるのは紛れもなく父・政秀であった。


「ここは?」


俺は思わず父上に訊ねた。その言葉に父上はしばらく躊躇った後、徐に口を開いた。


「ここは極楽浄土の手前の、死者が必ず通る場所だ」


そう言って、父上は向こうに目をやる。


ああ、やっぱり俺は死んだのか。父上の言葉に改めて自覚する。今度の人生も前世と同じくらい短かったな。


父上が目をやった方に見えるのは、たしかに冥府への入り口とも思えるような枯れ果てた焦土であり、俺の周りだけは極楽浄土とも言えそうな壮麗な花畑の景色が目に映っていた。


そして俺は直感した。善人の象徴たる父上は、極楽浄土に導かれた。だが、俺は自分の身を守り、天下泰平の世を追い求めるためとはいえ、多くの敵対する者を殺め、数々の業を犯してきた。だからきっと俺はあの焦土の先にある地獄へと導かれる。そんな風に邪推した。


幻覚かと思った。俺は目を擦る。しかし景色は全く変わることはない。


「やはり、そうなのですね。はは」


乾いた笑いで現実を逃避するように目をそらす。


俺は冥府に導かれているのだろう。自然にそう思った。俺は父上に促されることもなく、自然と枯れ果てた焦土の方へと足を進めた。一歩ずつ、極楽浄土の土を踏みしめながら。


しかし、強く腕を掴まれた。人生では一度も握ったことのなかった、父親の手。握ったことがなかったはずなのに、どこか懐かしさを覚える。冥府の手前であろうと、しっかりとした感触を感じられた。


「正吉郎、まだやり残したことがあるのではないか?良く思いかえしてみよ。ここで“あちら側”に行ってしまってはこれまで積み上げてきた全てが無駄になってしまうのではないか?」


現実を知らない父上の言葉には深い意味は無かったのだろう。いや、逆に天から全てを見下ろしており、俺の様子をずっと見守ってくれていたのかもしれない。どちらにせよ、父上の言葉は俺の心のど真ん中を射貫いていた。


やり残したこと。多すぎるくらい頭に浮かんでくる。そして次々と心に舞い戻ってくる記憶。それは俺をこれまで支えてきてくれた、数多の重臣の顔であった。このまま冥府へと足を踏み入れれば、この全員の期待を裏切り、悲しませてしまうことになる。そして、市と蔵秀丸。それこそがその最たる存在だろう。


そう思うと、まだ死ぬわけにはいかない。沸々と湧き上がってくるのは、間違いなく俺自身が持つ生命力であった。そして市が与えてくれた勇気、希望。これを無為にするわけにはいかない。


「ありがとうございます、父上。私を支えてきてくれた者の為にも、父上を見習い励みまする」


「儂を見習わずとも良い。お前はお前自身の道を歩め。いや、もう歩んでいるだろう。お前は儂の何倍も優秀な自慢の息子だ。自信と誇りを持て。その自信と誇りをこれからのお前自身の糧とするのだ。さあ、もうじきお前の身体の心の臓が止まってしまう。早く戻るがよい。達者でな」


父上は慈愛という言葉そのままの表情で、俺の頰を撫でるようにして優しく触れた。


俺は一度目を瞑り、父上の指先の感触を噛み締めた後、踵を返し現実へと舞い戻ったのであった。





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