北伊勢侵攻② 混乱の寺倉軍

7月4日、寺倉軍8000は鈴鹿郡にある関家の本拠・亀山城を包囲していた。


神戸城攻めと同じく、寺倉軍は物資の補給ルートを遮断し、兵糧攻めを行っていた。


兵糧攻めはじわじわと関軍を追い詰めていき、北伊勢の制圧は問題なく成るーーはずだった。



◇◇◇



関盛信は寺倉軍が城を囲み始めて2日、神戸攻めと同じように兵糧攻めで関家を打倒しようとしていることを確信すると、事前に計画を練っていた伊賀衆の素破による夜間の奇襲を敢行した。


盛信の心中でぼうぼうと燃え盛っている感情は、油断や自信といったものではなく、寺倉家に対する「嘲弄」であった。


神戸と同じような攻め方で落とせると思ったら大間違いだ。謀略家の盛信からすれば、二番煎じで一見手を抜いているようにも見える寺倉の戦術に対して、関家の誇りを傷つけられたように感じられたのだ。無論、寺倉にはそんな意図はない。


しかし、盛信は極めて冷静な男で一切油断はなかった。寺倉は小さな国人領主から60万石の大名にまで伸し上がった強敵だ。寺倉にとって関攻めが伊勢制圧の一歩に過ぎず、いくら単調な攻めであろうとも盛信は警戒を一層強めていた。


湿った西風が吹き、西の空に大きな黒雲を目視した盛信は、夜半には雨模様となると確信し、寺倉軍の最大の武器である鉄砲も使えなくなると考え、百地三太夫と藤林長門守に今夜の作戦決行を指示した。寺倉軍に潜むある弱点を突いた奇襲に、寺倉軍は絶体絶命の窮地に追い込まれることとなるのであった。




◇◇◇





寺倉軍・本陣。


朝倉景紀は夕暮れの沈滞した陰鬱な雲を見上げ、正体不明の不快な胸騒ぎを覚えていた。


その正体が何かは景紀自身知る由もないが、長年の経験からそれが何らかの悪い予兆を示しており、こうした不吉な予感は得てして当たるものであることを身を以って学んでいた。そんな違和感に駆られた。


景紀はこの関攻めで一波乱あるのではないかと危惧し、近くに控えていた川並衆の二人を呼んだ。


「小六、将右衛門よ。お主らも感じておるだろうが、不穏な空気が漂っておる。掃部助様も存じていることだろう。最悪の場合に備え、至急鈴鹿川を下るための川船の手配を頼む」


「「はっ。」」


景紀は二人に命じると正吉郎の元へ早足で向かい、周囲を警戒するよう忠言したのだった。




◇◇◇



「奴ら、なかなか鋭い。我らの動きを察知したわけでは無かろうが、なにかを感じ取ったように見受けられる。こうなれば本陣への奇襲は厳しいだろうな」


「ああ、だが中務大輔様がお命じになったように、寺倉軍には弱点がある」


「どうにか寺倉家に取り入ろうと武功を焦る、臣従したばかりの醜い北伊勢の国人どもか。奴らは統率の取れていない烏合の衆だ。味方であるのに互いに牽制し合っておる。あれなら崩すことなど容易いだろうな」


丹波は薄笑いながら、目下の大軍を見下ろしていた。ここ、亀山城は関谷と呼ばれる狭隘な独特の地形に位置している。大軍は一たび足元を崩されれば動きが鈍く、逃げ道が限られるのは「桶狭間の戦い」を見ても明らかである。大軍ゆえの弱点を上手く突くことが、この奇襲の勝機となる。


「長門守よ、ゆめゆめ油断するではないぞ。お主らの行動が漏れでもしたら作戦は失敗だ。中務大輔様に顔向けができんぞ」


「ふふふ、それはお主らもだろう、三太夫よ。必ず寺倉蹊政を討ち取るのだぞ。大将首を持ち帰れば報酬がタンマリといただけるのだからな」


長門守は言い捨てるように告げると、一瞬で姿を消した。上忍三家としてこの作戦を失敗するわけにはいかない。並々ならぬ決意を胸に秘めて、三太夫も奇襲を成功させるべく動き出した。




◇◇◇




「敵襲! 敵襲にございます!!!」


耳をつんざくような叫びによって、本陣の空気は瞬く間に一変した。本陣でも景紀の忠言を受けて警戒を強めており、俺は護衛する慶次の心遣いによって浅い眠りに就いていたが、敵襲を告げる叫び声に冷や水をぶっかけられたかのように、一瞬で意識を取り戻した。


「何者だ!」


「分かりませぬ!北伊勢の国人衆の先陣が襲われており、大混乱に陥っているとのこと。いかがなさいまするか?」


警戒はしていた。順蔵と半蔵にも最大限の警戒を命じており、微塵の隙もあるはずはなかった。そんな警戒をすり抜けられる存在など、一つしかいない。


伊賀忍者。言わずと知れた日ノ本最高峰の忍びの一派である。俺はその暗躍を直感すると同時に、ここ鈴鹿郡のすぐ南が伊賀国であるのを失念していたことを悔やんだ。


「ぐっ...。こうなれば致し方ない。恐らく敵は伊賀の素破で少数による奇襲だ。兵数差で力ずくにでも押し込むのだ!」


しかし、そんな命令は既に遅かった。北伊勢の国人衆の混乱は北伊勢以外の国人にまで波及しており、俺が命令しようとも簡単に動かせる状況ではない。この夜間の混乱に乗じて、関軍も一斉に城から打って出てきたようで、その混乱は更に高まる。北伊勢衆は戦前、互いに牽制し合っていたのが尾を引き、混乱は同士討ちを引き起こし、逃亡する者も多数出た。同士討ちによって阿鼻叫喚の絵図となった戦場の空気は、先陣の混乱を加速させ、辛うじて正気を保ち、状況を冷静に見つめていた本陣付近の兵にも伝播していった。


俺は大軍を動かすことの難しさを初めて実感した。これまで俺が率いたのは総じて2000ほどの軍勢であり、美濃侵攻においても実質的な本隊を率いたのは大倉久秀であった。


俺が脂汗を額ににじませながら、動揺を露わに逡巡している間にも、時間は刻一刻と過ぎ去っていた。その間にも広がった混乱は一層拡大し、既に収拾不可能な状態になりつつあった。どうすればいい、考えろ。何か方法はあるはずだ。どうすれば...。


ここまで追い詰められた状況は俺自身初めてだった。思い返してみると、これまでの戦は殆どが事前に用意周到な策略を施した上での勝ち戦であり、ここまで不利な状況に追い詰められたのは俺自身初めてだった。そして今、俺は過去の幸運を呪った。決して油断した訳ではないが、過度の自信により気づかない内に傲慢となっていた。負けというものを知らなかったからである。ただただ、経験が足りなかった。


「この混乱では徒に兵を失うだけで、もはや陣形を維持できず戦えませぬ! 撤退のご指示を!」


そんな俺を思案から現実に戻したのは、明智光秀の声であった。このまま思案に暮れていても戦況は悪くなるばかりだ。今すぐの撤退が肝心だ。俺は後悔の念を振り払い、混乱に包まれる全軍に告げる。


「全軍、退却だーー!!!!」


俺は自らの浅慮のために兵を危険に晒してしまった後悔で歪んだ表情を隠すこともできずに、情けない顔を晒していた。


しかしそんな俺を一喝したのは、滝川慶次であった。


「正吉郎様、悔むのは後になさいませ。今何よりも大切なのは、正吉郎様ご自身の御命にございますれば、兵を見捨ててでも退却すべきかと存じまする」


「大将が尻尾を巻いて逃げ出すなど、出来るはずなかろう!」


俺は目に悔し涙を浮かべながら抗弁するが、慶次は全く動じなかった。


「正吉郎様、時には逃げることも必要なのです。今、正吉郎様が兵を見捨てて退却したところで、それを責める者などおりませぬ。皆、正吉郎様の御命を守るために戦っているのですぞ」


「後世で卑怯者と罵られるかもしれぬ」


我ながらみみっちい言い訳だと思う。しかし、感情で抵抗するには言葉が足りなかった。


「正吉郎様、ここでもし正吉郎様が御命を落とされれば、北伊勢どころか、西美濃までもが寺倉家の恩恵を失い、民の暮らしが以前の貧しい生活に逆戻りするやもしれませぬ。それだけでなく、寺倉家は三好に付け込まれて未曾有の危機に直面するやもしれませぬ。正吉郎様はそれほど大きな存在なのですぞ。その自覚をお持ち下され。民のため、君臣豊楽を願うならば、ここは誰よりも先にご退却を!」


民のために。俺は慶次の言葉に心動かされた。自分の存在はいつの間にか想像以上に大きなものになっていた。ここで俺が命を落とせば、四家が協力して天下泰平を目指すと約束した「蓮華の誓い」も雲散霧消してしまう。それでは民を裏切ることにも繋がる。為政者として絶対に民を苦しませる訳にはいかない。


後世の評価など気にしなければいい。今はただ逃げるのみ。信長や秀吉、家康でさえ手痛い敗北を幾度となく経験している。負けたことのない武将などいないのだ。


俺は慶次の言葉に目が覚めて、慶次と蹊祐ら僅かな側近と共に鈴鹿川に控える川並衆の元に向かうべく、退却したのだった。










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