大蔵長安と人事異動

3月中旬、統麟城下をにわかに賑わせたものがあった。それは狂言という滑稽な物まねや道化の芝居を披露する猿楽師の一座がこの地を訪れたからである。


統麟城は水運と東山道、北国街道の流通によって未曾有の繁栄を享受しており、人通りも非常に多い。そんな統麟城城下で一風変わった芝居を披露すれば、民衆の目を惹くのは至極当然といえよう。


聞くところによると、その一座を率いる猿楽師は大蔵太夫十郎信安と名乗り、家族と共にこの寺倉領にやってきたという。信安の目的は、ただ民衆の目を惹くというだけではなかった。


信安は身分の低い猿楽師ではあるものの、非常に聡明な人物であった。下層民でも安心して暮らせるという沼上郷を目指してこの寺倉領にやってきたが、安心して暮らせる、という点だけでは信安の心は満たされない。曰く、信安は生粋の狂言の演者であった。


大蔵家は興福寺に奉仕する大和猿楽の一つの金春流を受け継ぎ、特に狂言において優秀な猿楽師を代々輩出してきた家柄であり、信安は播磨国で狂言の大蔵流を独自に創始した。下層民と言えど、その血筋を如実に示すように、信安は滑稽な芝居で人々を楽しませ、魅了してきた。


そして信安の芸は、例に漏れず統麟城下の民の歓心を惹きつけた。


だが、その歓心は一時の流行に過ぎないものであり、娯楽に飢えていた民衆はしばらくすると飽きて興味を失ってしまうことを、信安は嫌というほど良く理解していた。だからこそ、大蔵家は各地を流浪し、その芸を披露しては一時の有名人として名を馳せ、食い扶持を稼いでいた。


そして信安は史実で甲斐国に流れて、かの武田信玄に気に入られ、お抱えの猿楽師となった人物である。信安は史実と同じく大名の目に留まることを期待し、城下で芸を披露しては各地を転々としていたのである。


その理由は安定した生活を求めるとともに、猿楽師を含む芸者の地位向上という大きな目標があったからだ。戦国の世においては、猿楽師のように定住せずに流浪する者を下賤な者と蔑み、見下す者が多く存在し、大蔵家も各地を転々とする中でそうした偏見を持つ者たちに度々迫害を受けていた。


そのため、信安の精神的な疲労も限界にも達しようとしており、寺倉領に来訪しても大名の目に留まることがなければ一座の座長を引退して、下賤な者でも安住できるという沼上郷に身を寄せて、次男の長安に大蔵流の猿楽師を継がせて一座を任せようとも考えていた。


だが、信安の長年の努力が実を結び、運良く大名の目に留まることになる。正確に言えば、城下を歩いていた“傾奇者”の滝川慶次に見出されたからである。


慶次は娯楽の少ない世の中において、正吉郎の精神的疲労を解消するためにも、何か娯楽と呼べるものが必要だと考えた。そこで慶次は城下で俄かに評判となっている猿楽師の大蔵一座を視察に行き、声を掛けたのである。


正吉郎は慶次から猿楽の観劇を提案されると、興味津々で好意的に観劇を受け入れた。狂言を披露するために統麟城の広間にやって来た信安の次男・長安は、自分とほぼ同じ年齢に見える正吉郎の反応を見て不思議に思った。近江三家と呼ばれる大名であるというのに、これまで各地で大蔵一座が向けられてきた“武士の目線”のいずれにも当てはまらなかったからである。


その腹の内に何かを隠しているのではないかと長安は疑ったが、奥方と並んで満面の笑みを崩すことなく、心の底から観劇を楽しんでいる様子が伝わって来ると、長安はもはや疑うことをやめた。そして、同時に直感に似たものを感じた。


ーーこの方こそ、自らが仕えるべきお方だ、と。


「大層面白かったぞ。大蔵信安、お主を寺倉家に召し抱えるゆえ、これからも狂言を演じてはもらえぬか?」


観劇の後、正吉郎は長安の父である信安に、柔和な口調で告げた。


「はっ、ありがたき幸せにございます」


長安は信安に合わせるように深く平伏した。


人に認められて受け入れられるということを、これほど喜びに溢れて感じられたことがこれまであっただろうか、長安は信安の背後で平伏しながら、そんな感慨をしみじみと胸に抱いていた。計算高く物事の裏の裏を読む長安にとって、この安堵感とも呼ぶべき感情は、これまで感じたことのない未知の感情であった。


「信安、お主ら大蔵一座はどこの国の出自だ?」


「拙者は大和国の出にて、大蔵家は大和猿楽の一つの金春流で代々狂言を専門に担う家でございましたが、興福寺の庇護を失い、播磨国に移り住んでおりました。ですが、生活は苦しく、近江国で我らでも安住できるという沼上郷の噂を聞き及んで、この地にやって参りました次第にございます」


「そうか、播磨から遠路はるばるやって来たのか。長旅でさぞかし大変であったろう。後ろの者は信安の息子か? その方、名は何と申す? よい、直答を許す」


長安はまず自分の存在を認識されていたことに胸を躍らせた。しかしだんまりを決め込んでいては失礼にあたる。長安は頰を伝う汗を拭うことなく、顔を上げて名乗った。


「はっ、拙者は大蔵太夫十郎信安の次男・藤十郎長安と申しまする 」


(播磨の猿楽師の息子で長安というと、大久保長安か?)


正吉郎は長安の顔をまじまじと見つめた。


「お主の目はとても利発そうな目をしておるな。実は当家は文官の手が足りておらず、文官の才のある者を求めておってな。長安、どうだ? 読み書きができるならば、文官として当家に仕えてみる気はないか?」


「はっ、はい!私のような下賤な者を文官として召し抱えていただけるなど、末代まで誇れる光栄にございます!」


「長安、当家ではたとえ身分や家柄が低かろうが、能力が高く、成果を上げる者を高く評価する。身分の貴賤による差別は一切せぬゆえ、お主も自分を卑下する必要はない。信安、長安はこう申しておるが、お主は跡継ぎが仕官しても構わぬか?」


「はい。拙者には他にも後を継がせられる息子はおりますゆえ、何も問題はございませぬ。猿楽の演者を継いでその日暮らしの流浪の生活をするよりも、文官として寺倉様にお仕えできるのは望外の喜びにございますれば、どうか藤十郎をよしなにお願いいたします」


こうして史実で徳川幕府の勘定奉行や老中を務めた大久保長安こと、大蔵長安が寺倉家に仕官したのであった。


そして、長安は無類の忠誠心を正吉郎に捧げ、後に「唯一無二の忠臣」として金山や銀山の運営を任されて寺倉家の財政を支える存在となり、「寺倉六奉行」の一人となって名を馳せることとなるのであった。





◇◇◇




3月下旬、春分を迎えて大雪が続いていた近江もようやく雪解けし、田植えのための田起こしが始まろうとしていた。


現代では春は学校の入学・卒業や会社では人事異動の季節だが、寺倉家も西美濃を獲得して領地が更に拡大したことに伴い、領内の統治体制を強化するため、この時期に人員異動を行うことにした。


まずは新しく加わった信虎と氏真だが、信虎はこれまでと同じように京に駐在し、朝廷や幕府、さらには他国との外交を担当する「外事奉行」に任じて、信虎が培った人脈で入手した情報を志能便を通じて俺に適宜伝えるように指示した。


氏真は虎高を補佐する役目として、暫定で民事の訴訟案件を裁定する「公事奉行」に任命した。「寺倉仮名目録」の本家本元である「今川仮名目録」を運用してきた今川家当主である氏真はまさに適任であり、氏真にとっても最も馴染みやすい仕事だろう。


また、文官の本多正信は「公安奉行」に任命して、領内の治安維持と犯罪取締を行う現代の警察と、刑事事件の犯罪者を裁定する役目を与えた。腹黒い正信ならば犯罪者心理を読んで犯罪を暴く仕事はまさに打ってつけの任務だろう。


氏真と正信の二人が民事と刑事の裁定を分担することによって、これまで総務担当官と部隊訓練を兼任して、激務で過労死寸前だった虎高の負担を軽減し、総務担当官としての虎高には重要な訴訟案件や重大犯罪の裁定のみを担当させる役目とした。


さらには、西美濃を得たことにより最前線ではなくなった沼上郷で暫く代官を務めてきた前田利蹊を、新たな最前線となる西美濃の松山城城代へと異動させることにした。前田利蹊の出身地である尾張からほど近い松山城ならば土地勘もあり、上手く治めてくれるだろうと考えたからだ。利蹊の妻女にとっても松山城は山奥の沼上郷よりかは幾分は暖かく、暮らしやすくなるだろう。


利蹊の後任には、沼上郷の副代官だった沼上源三を代官に昇格させ、今後は狼部隊の育成と指揮に注力してもらい、今後の戦では沼上の男衆と狼部隊を率いる将として出陣してもらうことにした。




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