服部半蔵の仕官と焼酎
2月下旬、北伊勢の調略を命じていた滝川慶次郎が統麟城へと帰還した。調略対象とした北伊勢の弱小国人は概ね寺倉への臣従を約束したようで、期待以上の成果だったようだ。慶次に任せたのは成功であったな。ただ、懸念していた関家や神戸家を始めとした北伊勢の有力国人や八風街道を押さえる梅戸家は、予想どおり元主家の六角家を滅ぼした仇である寺倉家に対して、敵対姿勢を露わにしており、調略できる可能性は全くないという。
ただ先ほどから気になっていたのは、慶次の後ろで黒装束に身を包み、跪いて顔を伏せている男の存在だった。その体躯は左程大きく見えないが、得体の知れない威圧感を発しているように感じられた。とは言えど、敵意や殺意といったものは微塵も感じられない。
慶次も俺の怪訝そうな視線に気づいたようで、その男を俺の前に一歩近づけさせると、男を紹介した。
「此奴は服部半蔵正成と申しまして、某が甲賀に暮らしていた頃の昔の知り合いでございます。北伊勢を旅している道中で再会し、いろいろとお互いの近況を話している内にどうしても寺倉家に仕官したいと言いだしまして、連れて参った次第にございまする」
服部半蔵正成は、その威圧感とは対照的に風貌や声はまだ若く、まだ20歳くらいであろうか。
「服部という名は、もしや伊賀の上忍三家の服部家の者か?よい、直答を許す」
「はっ。仰いますとおり、拙者は伊賀国の国人・服部保長の嫡男・半蔵正成と申しまする。この度は幼馴染の慶次郎殿から寺倉掃部助様の話を伺い、拙者もぜひ寺倉掃部助様の家臣の末席に加えていただきたく思い、参上いたしました」
史実で徳川家に代々仕えて江戸城の半蔵門の由来となり、現代で伊賀忍者として最も有名な服部半蔵は、この正成である。父の服部保長は初代服部半蔵で、12代将軍の足利義晴や松平清康に仕えたことで知られている。
そんな半蔵が寺倉家に支えてくれるのならばまさに百人力だ。
「やはりそうであったか。寺倉家中では素破は下賤な者だと見下したり、虐げたりは一切せぬ。能力が高く、指示に従い、成果を上げさえすれば、正当に評価する。だが、お主を召し抱えることには何も異存はないが、お主は服部家の嫡男であろう? 父君の許しは得たのか?」
「いえ。伊賀は当家と百地・藤林の上忍三家が治めておりますが、山に囲まれた狭い土地故、米があまり採れない大変貧しい国にて、この乱世の時代になって以降は多くの民は他国の大名家で銭雇いの素破稼業をして食い扶持を稼いでおります。父・保長は以前は三河国の松平宗家に仕えて禄をいただいておりましたが、松平が滅んだ今は伊賀に戻り、田畑を耕して細々と暮らしておりまする。拙者はかような伊賀の将来に希望が持てず、伊賀を捨てる所存で参った次第にございまする」
たしか服部正成の父・保長は、徳川家康の祖父・松平清康に仕えていたが、「森山崩れ」で清康が死んでから松平は一時衰退したのだったな。
「森山崩れ」とは、陣中で馬離れの騒ぎが起こり、家臣である阿部正豊が、父を清康に誅殺されたと勘違いしたことによって、本陣にいた清康を背後から惨殺した事件である。
これによって松平は分家の反乱を招いて大きく衰退し、今川の圧迫により服部家も肩身が狭い思いをする羽目になった。そして、その松平も桶狭間の戦いの後に俺の策謀によって滅びたため、服部家は三河での居場所を失って、故郷である伊賀まで戻ってきた訳だが、それによって正成が伊賀を捨てて寺倉に仕官しようとするとは、俺が服部家の運命を大きく変えてしまったことになる。
「そうか。だが、お主一人では何もできぬであろう? もし父君が了承するならば、寺倉で服部家の一族郎党を家臣に召し抱えて、領地を与えるつもりだが、どうだ? 一族郎党はどのくらいいるのだ?」
しかし、伊賀国は4郡合わせても僅か10万石の土地でしかなく、非常に貧しい国である。山間部が多く、農作向きの土地が少ないこともあり、将来に希望が持てないのも当然と言えるであろう。伊賀忍者の服部一族は徳川家で重用されたことからも分かるとおり、諜報活動において非常に有用な一族である。その服部一族を丸ごと受け入れられれば、有能な諜報部隊が手に入り、一族からは感謝されて恩も売れる。
半蔵は半ば即決とも言える俺の判断に目を丸くしながらも、満面の笑みと感激の表情を浮かべ、勢いよく俺に平伏した。
「ありがたき幸せにございまする! 服部の一族郎党の男はおよそ百人ほどおり、さらにその下には女子供や百姓をしている者も大勢おりまする」
「無論、年老いた者の中には生まれ育った伊賀の地から離れたくないという者もいよう。無理にとは言わぬ。近江に移住し、寺倉に忠誠を誓える一族郎党のみ引き連れて近江に参るがよい。知っていようが、近江は伊賀よりも豊かな土地で米もよく採れる。伊賀の石高以上の領地を与えて、服部一族を召し抱えよう。父君を説得するためにお主を家臣に取り立てるとの書状を記そう。それを持って伊賀に戻るが良い」
「はっ。この半蔵正成、粉骨砕身、掃部助様にお仕え致す所存にございまする」
その後、伊賀に戻った正成は俺の書いた書状を以って父・保長を説得し、この機に保長が隠居して正成が服部家の家督を継ぐことになり、ごく一部の年老いた頑固者が伊賀に残った以外は、女子供を含めた一族郎党の大半を引き連れて近江にやって来た。
こうして伊賀衆の服部一族が寺倉の配下に加わり、服部正成は「寺倉十六将星」の一人として、志能便衆の植田順蔵と共に寺倉家の諜報活動を裏から支える大黒柱となるのであった。
◇◇◇
蒸留酒。
これは醸造酒を蒸留して作った、アルコール度数の非常に高い酒のことである。俺が前世で飲んだことがあるものでも一桁の度数の酒だが、アルコールを蒸留することでそれよりも遥かに高い酒を作ることができる。この時代の酒は、米、米麹、水を発酵させ、もろみを濾さずに作る、白く濁ったどぶろくが主流で、さらにそれを水で薄めたものが市販されるため、酒精の強い原酒が飲まれることは滅多になかった。
現代と同じように、度数の高い酒を好む者は一定数いるため、酒好きの呑兵衛に対しては大きな需要があると考えたわけである。焼酎といえばサツマイモを使った芋焼酎や米焼酎、麦焼酎がほとんどだが、糖分がある作物であれば味を度外視すれば、醸造酒自体はアルコール発酵させれば作ることができるので、ジャガイモでも現代のアクアビットのような立派な酒ができるはずだ。
最初は失敗するかもしれないが、まずはどぶろくで蒸留酒作りを試してから、ようやく領内で収穫量が増加して安定確保できるようになったジャガイモをアルコール発酵させた酒で、ジャガイモの芋焼酎の製作に取り掛かってみたい。
蒸留酒の歴史は紀元前から始まるほど古く、水とアルコールの気化する温度の違いを利用する蒸留器の構造はとても簡単で、この時代でも技術的に全く問題なく作ることができる。
まずは銅でできた釜の上部に煙突状の蒸気が通る管をしつらえて、ある程度の上で管を「へ」の字に曲げて、下までに下りた管の先に器を用意するだけである。
そして、釜に醸造酒を入れて熱して、アルコールだけが気化する温度を維持すると、アルコールの蒸気が管が「へ」の字に曲がったところで温度が下がって再び液化し、それが管を伝って下の器に滴り落ちて溜まるのである。
無論、水分もある程度は蒸発するが、これだけの工程で醸造酒よりもアルコール度数の強い立派な蒸留酒が出来上がる。さらにこの工程を何度か繰り返せば、もっと酒精を強くすることもできるはずだ。
ただ、蒸留しただけでは酒の味わいや風味が足りないため、酒樽に入れて熟成させることにした。
どんな味の焼酎ができるのか、とても楽しみではあるが、しばらくは焼酎は実験に近い少量生産に留めるつもりである。当面は正月の宴席に出したり、酒が三度の飯より好きな家臣には褒賞として与えたりする程度で、商業的に領地外に売り出すのは早くても来年以降となるだろう。
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