武田信虎との会見

氏真一行は、中でも年配の寿桂尼は予想通り疲れが溜まっている様子で、歓迎の宴を催すことなく休んでもらった。


翌日、俺は改めて氏真と対面した。昨日会った時には微かに目についた隈も無くなっており、精神的な疲労も取れたようだ。


「彦五郎殿、昨日はよく眠れたか?」


「羽毛布団のお陰で良く眠れ申した。正吉郎様、私は正吉郎様の家臣となったのですから、殿をつけるのはおやめくだされ」


「はは、そうであったな。しかし、彦五郎は年長で、元々私より遥かに格上の家柄だ。さすがに開口一番に呼び捨てするのは憚られたのだ。それに彦五郎に謙った物言いをされるとむず痒い。せめて二人きりのときくらいは以前のように友として接してくれぬか?」


「わかった。では二人きりの時はこの口調で話させてもらおう」


やけに素直だと思ったが、氏真自身も俺と主従の関係になったとはいえ、元々は逆の立場に近かったのだからしっくりきていなかったのだろう。俺としてもこちらの方が気を遣わなくて済むから有難い。


「さて、ここに来てもらったのは、彦五郎に渡したいものがあるからなのだ」


「渡したい物?私は既に十分すぎる程の待遇を受けているが......」


「そういった類の物ではない。これは彦五郎にとってとても重要な物だ」


「重要な物......」


氏真はこめかみに人差し指を当てて考え込む。俺は蹊祐を呼んで、件の物を持ってこさせた。


「これは....!」


氏真の目の前に置いたそれは、一振りの太刀だった。それを見た途端、氏真は目を見開く。


「ああ、これは彦五郎の父君である義元公の佩刀であった宗三左文字だ」


俺の顔と刀を交互に見る氏真。その刀を手に取ると、その瞳から一線の涙が頬を伝った。


「父上の......これをどうして?」


「ああ、彦五郎は寺倉と織田が婚姻同盟を結んでいることは当然知っているだろう。桶狭間で織田が勝利した後に贈ってきたのだ」


「なぜ織田がわざわざ正吉郎に贈ったんだ?」


「これを贈ることで、三郎殿は俺に今川との決別を促そうとしたのだろう。今川は俺が倒した、今川との関係は断ち切れ、とな」


「......そういうことか」


その意図は理解したが、彦五郎との関係を断つことなど考えもしなかった。わざと気づいていない振りをして大切に保管していたのだ。当時は父君の遺品である宗三左文字を氏真に見せれば、あらぬ誤解を招きかねないと考えて、いつか機会があれば彦五郎に返そうと手元に置いていたのだ。


実際は俺が信長に助言紛いのことをしたことへの礼でもあったのだが、それは口が裂けても言えない。


「正吉郎、かたじけない。この宗三左文字は元は今川に亡命された祖父の武田信虎殿から譲られ、父上がとても大切にしていた刀だったのだ。父上から自分の死後は私に譲ると言われていた。正吉郎の厚情、誠にかたじけない」


「武田信虎殿か……。たしか彦五郎の母上は武田信虎殿の娘であったな。信虎殿はもうかなり年を召されているはずだが、まだご健在なのか? ならば今はどうされておられるのか? よもや武田信玄が20年も昔に追放した実父を今さら弑するとは思えないが」


「信虎殿は駿河に来られてから出家されて無人斎道有と名を改められ、数年前より京の今川屋敷に滞在されて、畿内の情報収集や朝廷や幕府との外交を担っていただいていたのだ」


そういえば、信玄に追放された信虎は娘婿の今川義元を頼って、駿河で隠居生活をしたと聞いたことがあるが、すでに60歳は超えているはずだ。今川が畿内の情報に富んでいたのはそういうことだったか。


「そうか。そうなると、今川が滅んだ今となっては収入も途絶えて困っていよう。彦五郎、信虎殿、いや無人斎道有殿をこの物生山城に呼んではもらえぬか? 一度会って話をしてみたい」


信虎は今川家からの仕送りによって畿内での生活費と活動資金を得ていたのだろう。その今川が滅びた今となっては、信虎は収入が全くない状況に陥り、途方に暮れているはずだ。


「それは構わないが、会ってどうするつもりなんだ?」


「無人斎道有殿が信頼に値する人物で、道有殿が了承するならば、家臣に召し抱えてこれまでどおり、京にて畿内の情報収集と朝廷や幕府との外交を担ってもらいたいと考えているのだ」


寺倉領は京から程近く、志能便により畿内の情報もすぐに入ってくるが、京における朝廷や公家とのコネクションは殆ど皆無だ。幕府とは秘密の協力者である和田惟政から情報も入ってくるとはいえ、現在の将軍家の力では情報入手も限られ、不十分であると言わざるを得ない。したがって、信虎の人脈による情報収集はかなり貴重であるし、朝廷や幕府との外交についても俺は疎くて全然分からないため、信虎が代行してくれれば助かるのだ。


「なるほど。それは良い考えだ。では早速道有殿に遣いを送ろう」


「うむ、よろしく頼む」





◇◇◇




数日後、信虎はこの物生山城に登城し、俺は氏真と藤堂虎高を同席させて、信虎、改め無人斎道有と面会した。


「お初にお目にかかりまする。拙僧は無人斎道有と申しまする」


俺の前に座る人物は一見ごく普通の老僧に見えるが、眼光は獲物を狙う鷹の目のように鋭く、さすがは武田信玄の父だと思わせる威厳を備えていた。


「うむ。よくぞ参られた。私は寺倉掃部助蹊政と申す。今日来てもらったのは、ここにいる今川治部大輔が縁あって当家に仕えることになり、これまで今川家の客分として京に滞在されていた道有殿の処遇について相談を受けてな。一度会ってみたいと思い、呼んでもらったのだ」


「お久しぶりです。御祖父様。息災でいらっしゃいましたか?」


氏真が嬉しそうに声をかける。


「おお、彦五郎殿。ほんに久しぶりよのう。お陰様で病気一つせずに過ごしておるぞ。今川が滅んだのは口惜しいが……、それにしてもよくぞ無事で近江まで来られたのう」


「すべては某の至らなさによるものにて。恥ずかしながら寺倉掃部助様を頼って落ち延びて参りました」


氏真は目を逸らしながら、若干小さくなった声量で恥ずかしそうに告げる。信虎は二度強く頷きながらも、深く追求しようとはしなかった。


「信虎様、いや無人斎道有様。藤堂虎高にございまする。お懐かしうございまする」


虎高も昔の主君との再会できて喜んでいるようだ。虎高は若くして故郷の近江を離れ、信虎に寵愛され「虎」の偏諱を受けたことでも知られる。特に虎高は感激を隠せないようで、昔を懐かしむように斜め上を見つめて涙をこらえていた。


「おお、虎高か。生きて再び逢えるとは思うておらなんだぞ。拙僧が甲斐を離れた後に、虎高も武田を出奔して近江に戻ったと風の便りに聞いておったが、寺倉家に仕えておったのか。息災で何よりじゃ」


信虎も満面の笑みを浮かべながら再会を喜ぶ。元主従の篤い信頼は見ただけで感じられるほどだった。


「道有様もご壮健で何よりでございまする」


「さて、挨拶もひと通り済んだところで、道有殿。私は貴殿さえ良ければ、寺倉家に仕えてもらい、京でこれまで通りの役目を務めてもらいたいと考えておる。……だが、その前に一つ聞いておきたいことがある。貴殿は甲斐武田家を、武田信玄をどう見ておる? 腹蔵ない考えを聞いておきたい」


俺は道有が自分を追放した信玄をどのように見ているのか、どうしても確認しておきたかったのだ。


「ははっ、かような年老いた愚僧に過分なご配慮をいただきまして、誠にありがたき幸せにございますれば、喜んで寺倉家にお仕えさせていただきまする。……愚息の太郎は拙僧の血を受け継いだのか、童の頃から気性が激しく、目的のためには手段を選ばない苛烈な男にございまする。それでも戦に勝っておる内は恐怖心で家中は治まりまするが、一旦戦に負け始めると、人心が離れていくのは必定にございまする。愚息もそれが分かっているからでございましょう。川中島で上杉家に大敗を喫した後だけに、なりふり構ってはおられずに三国同盟を破り、嫡男を廃嫡してまで駿河を攻め、今川を滅ぼしたのでございましょうな」


「なるほど。さすがは父親だな。息子の性格と考えをよく見抜いておるな。では信玄は信用に値する男か?」


「いいえ、愚息は誰も信用しない男ゆえ、信用するだけ無駄にございまする。因果応報の言葉どおりにて、人を信じず、裏切り続けた者は誰からも信頼されず、必ず報いを受けまする」


信虎が父親として最も信玄の人間性を理解しているということが、言葉の端々から感じ取れた。信玄をそのような男に育ててしまった自らの責とでも言いたげに遠い目をしながら。


「そうか。あい分かった。では、無人斎道有。貴殿を寺倉家にて召し抱え、「外事奉行」に任じよう。精々長生きして寺倉のために働いてくれ。期待しておるぞ」


こうして信虎は寺倉家の家臣に新たに加わることになった。


信虎は「寺倉六奉行」の一人として史実よりも長生きし、精力的に活動していくのであった。


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