氷菓子と北伊勢の調略
「今日は一段と暑いな」
俺は思わず独り言を漏らす。7月下旬になって、ようやくまとまった休みの時間が取れた。しかし、暑いのは身に堪える。酷暑が続く現代の夏と比べたら小氷河期のこの時代は幾分マシとはいえ、湿度によって不快な暑さを感じさせる日本の夏の気候にはやはり慣れることはない。
山城である物生山城は、虫が非常に多く出る。夜の間は蚊帳である程度は凌げるとはいえ、ずっとその中も籠っているわけにもいかない。虫が周りを飛び交っているのは、俺個人でも耐えかねる鬱陶しさなのだ。妊婦である市にも大きなストレスになっているのは間違いない。
武家の娘だからと文句を言わないよう躾けられて育ってきた市は、もちろんそんな不満は口にしない。最近は俺に対し適度に甘えるようになってきたが、それも些細なことにおいてのみである。市は俺の邪魔をしたり、負担をかけることを極端に嫌う。少しでも手間が掛かるようであれば口を噤んでしまうのだ。
市以外にお腹の胎児にもストレスを与えるのは良くない。エアコンも扇風機もないこの時代、暑さを凌ぐ方法は多くないが、一時的に身体を冷やすこともストレスの軽減に繋がるだろう。
火薬の原料である硝石。硝石丘法によって極秘に領内で安定した生産が見込めるようになった硝石だが、これを使うことで氷が作れる。氷はこれまで真冬の時期に奥琵琶の余呉湖や伊吹山から天然の氷を採って氷室に保存しておく以外にはなく、当然ながら今の夏の時期にはかなり融けてしまい、貴重品であった。しかし、硝石を使えば人工的に氷が作れるのである。
水に大量の硝石を投入することで、溶解による吸熱反応を起こして周囲の温度を急激に下げることができる。これを使えば身体を冷やすことも容易になるだろう。
現在のヨーロッパには既に氷菓子は広まりつつあるようだが、史実で日本にこの技術が伝わるのは明治に入ってからである。
俺は休日を利用して製氷し、簡易な冷凍庫を作ることに成功した。果汁を絞って容器に移し、氷菓子を試作した。牛乳が必要なアイスクリームは難しいため、今回は果汁と蜂蜜のみを使ったシャーベットだ。
これを市に食べさせると大層喜んだ。妊娠中の上、夏の暑さに当てられて食欲は減退しているものの、冷たいシャーベットは別だったようだ。懐妊前の市のように頬張って食べては、頭をポンポンと叩いていた。市が美味しい物を見ると、急いで食べてしまう癖があるのは俺にとって市のチャームポイントだ。これが無いと市じゃない、そんなことを思うくらいである。
硝石を使った冷蔵技術の発明により、肉類や卵などの保存技術が格段に上がった。物生山城ではこれをきっかけに氷菓子が流行っていくことになる。
◇◇◇
8月に入り、朝倉家の全戦力とも言える軍勢を大軍で討ち破った加賀一向一揆が、越前北部の九頭竜川以北の坂井郡を制圧した。朝倉の衰退が顕著になってきた今、志能便が内乱の気配があることを報せてきた。元々権力に固執し、より高い地位を目指している大野郡司・朝倉景鏡が、朝倉宗家の朝倉義景に謀反を起こそうと画策しているというのである。加賀一向一揆に敗れ、勢力を減退させた義景の失態を、景鏡が見逃すはずもない。この失態を突き、謀反を起こすつもりなのだという。
そしてその朝倉が加賀一向一揆との戦で敗れ、勢力を大きく減退させたその隙を突くように、浅井も若狭二郡の国人領主を臣従させつつ、越前侵攻の準備を進めているそうだ。
竹中は東美濃の恵那郡の遠山に使者を送り、臣従を催促しているようだ。だが、遠山は武田と領地を接しており、これまでも織田と武田に両属していた。兵を差し向けて降伏させることも必要になってくるかもしれない。
織田も遠江への圧力を強めている。武田が完全に駿河へと狙いを定めたことで、武田とは刃を交えない方向で事を進めている。岐阜会談でも話をしたが、信長は美濃獲りの野心は捨てたという。竹中が一色を滅ぼし同盟国となったことで、実質的に妻の帰蝶、義理の父である斎藤道三への義理は果たしており、今は三河までも手中に収めている。俺の差し金もあり、信長の興味は完全に遠江、もとい東国へと移った。信長は我が道を行く、自分本位で冷酷な男と思われがちだが、その本質は異なる。信長は理性的で物事を冷徹に判断する男だ。そして功利主義であり、簡単に危険な橋は渡らない。時には周辺の国と同盟を組み、最も確実で最適な解を導き出す男なのだ。
上杉は今秋以降の関東出兵を目論んでいる。武田と同盟を組んだことで、これまでのように背後を脅かされる心配なく兵を動かせるため、その規模は過去最大規模の軍になるということだ。
いずれにせよ、今年のうちは周辺の状況を注視する必要があるだろう。
一方、寺倉家では朝倉家から寺倉家に鞍替えした朝倉景紀の敦賀郡司の経験を買って、俺は西美濃割譲の後に景紀を大垣城の城代に任命した。
それに合わせて西美濃の諸城の存廃について整理し、廃城とした城の材木や石材などを再利用して、存続させる城の修改築を命じ、特に長島一向一揆や北勢四十八家への備えとして、西美濃最南端の伊勢との国境近くにある松山城を大幅に改築することを決めた。
寺倉は来年の伊勢侵攻を目指し、準備を始めている。六角は南近江の他に伊賀三郡と北伊勢を所領としており、100万石近い勢力を有していた。その六角が滅びた今、北伊勢は大名不在の実質的な空白地帯である。だが、寺倉は美濃侵攻では兵の損耗はほとんどなかったが、長期間の出兵により兵糧をかなり消費したため、次回の出陣は秋の収穫を待たねばならない。
ただ、北伊勢にまとまった勢力がないとはいえ、鈴鹿郡の関家や河曲郡の神戸家を始めとした北勢四十八家が団結すれば、北伊勢の制圧は簡単にはいかないだろう。
ふと俺は部屋の入口で警護する滝川慶次郎が目に入ると、あることを思い出した。史実で織田家が北伊勢を調略で攻略したのはたしか滝川一益だったはずだ。俺は慶次郎に声をかけて、近くに呼び寄せた。
「慶次郎。お主の滝川家は元は甲賀の出であったな。北伊勢の国人衆との伝手はあるか?」
「はい。童の頃は甲賀で暮らしておりましたゆえ、薬売りの行商に出る父親によく同行して、北伊勢のほとんどの国人衆は訪ねたことがございまする」
予想通り、慶次には北伊勢の国人衆に顔が効くようだ。慶次が説得すれば何割かの国人衆は臣従を誓ってくるだろう。
「そうか。来年、寺倉が北伊勢への侵攻を計画していることは知っていよう。そこで、北勢四十八家と言われる国人衆の内、寺倉領に近い国人に狙いを絞って、内々に寺倉に降るよう調略を掛けることはできないか?」
「なるほど。それでしたら幾つか心当たりの国人がございますゆえ、条件次第では上手くいくかと存じまする」
「そうか。条件は今年の内に臣従を誓えば、今と同等の待遇を保証しよう。だが、戦の直前や戦の後に降伏した場合は厳しい条件となると伝えよ。もちろん内密でな」
目賀田の戦いの時のように、戦の前に降伏勧告を受け入れ臣従を誓った国人と、戦に敗れて臣従した国人には明確に差をつけることで、臣従を考えていなかった諸国人衆の心を揺さぶる。負けた時のことを考えて、泣く泣く臣従してくれば儲けものだ。
「承知しました。某も甲賀の出でありますゆえ、少しは忍びの心得もございまする。ご安心召されよ。ただ……」
慶次は目を泳がせながら言い澱む。俺はその意味深な様子に眉を顰めた。
「ただ、何だ? 申してみよ」
「員弁郡に梅戸家という八風街道を領地に持つ国人がおります。昨年、先代の当主が亡くなって嫡男に代替わりしたばかりなのですが、その先代は六角家からの養子でして、定頼公の弟でございました。今の当主も父親の実家を滅ぼした近江三家を仇だと憎んでいるはずですので、調略はまず無理だと存じまする」
六角と血縁関係があった家は想像以上に多い。六角も厄介な障害を残してくれたものだ。一介の国人ならばそう問題にはならないが、八風街道は北伊勢から南近江を繋ぐ重要な地域である。だからこそ六角も梅戸に養子を送り込んだのであろう。ここを早めに押さえてなければ、寺倉にとって厄介なことになるかもしれない。寺倉の命とも言える商業において積荷を荒らされたり、通行を妨げたりと邪魔をされては堪ったものではない。
「分かった。八風街道はぜひとも直轄地にしておきたい要地でもあるゆえ、梅戸は武力で攻め滅ぼし、日和見する他の国人衆への見せしめとしよう」
それに員弁郡は垂井や五僧峠、鞍掛峠からの街道も通るし、たしかまだ発見されていない銀山もあったはずだな。
灰吹法の代替収入源にできる可能性が高い。員弁郡を制圧したら、兵を派遣して銀山を見つけるように命じよう。
「それと、某が長期に不在となりますと、その間の正吉郎様の護衛はいかがいたしましょうか?」
「それならば心配無用だ。五郎左衛門入道に護衛を頼むつもりだ」
「左様ですか。お師匠様でしたら安心でございまするな」
慶次は納得したように腕を組みながら満足げに二度頷いた。慶次は勢源との長きに渡る修行により、非常に大きな信頼を置くようになった人物である。
慶次はなんとしても俺を守らなければ!と躍起になっている。そのため、俺の側を離れることになれば、慶次も認める人間を俺の近くに付かせなければ納得しない。
そこで白羽の矢が立ったのが勢源だ。勢源も目が不自由とはいえ、善光寺の目薬のおかげで以前よりかは幾分は視力が回復し、元々殺気を察知する力にも優れているので、護衛につけるには十二分である。
慶次郎も俺の直臣になってからはまだ大きな武功を挙げていないから、本来の槍働きではないが、この北伊勢の調略で功を挙げてもらいたいものだ。
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