生滅流転と試練

義信事件

「御屋形様、真に今川を攻めるおつもりですか!私は断固として反対致しまする!」


武田家本拠、躑躅ヶ崎館。その大広間に怒号にも似た叫び声が響き渡った。その声の主は、武田義信。武田信玄と正室・三条の方の間に生まれた嫡男であり、紛れも無い武田家の後継という立場である。元服の際には足利義輝(当時は義藤)から偏諱を受けるなど、武田家の次代を担うべき存在で将来を嘱望されていた。初陣の佐久郡の知久攻めでは知久軍の反乱を鎮圧し、小諸城を落とす。そして内山城の兵を率いて三百の兵を討ち取るなど、華々しい勲功を挙げた、武田の将に名を連ねるに相応しい武将だ。


しかし、その義信は故・今川義元の娘を正室としており、おしどり夫婦と言われるほど夫婦仲は良かった。そんな今川に攻め込もうという信玄の言葉に、どうしても納得できずにいたのだ。


上杉に敗北し同盟を結んだ今、信玄の目は今川にしか向いていなかったのである。海がある今川の駿河は、信玄にとって恰好の的でしかない。たとえ婚姻同盟を結んでいる今川家であっても、織田に敗れたことで力を大きく失い、駿河一国の主にまで閉塞した今川は、すでに弱者とも言うべき存在だ。弱肉強食のこの乱世においては必要とあらば斬って捨てることも厭わないのだ。それに、信玄は上杉に敗れてからどこか箍が外れたように戦への関心を深めている。義信からすれば、その姿はさながら狂戦士という他なかった。


「くどいぞ、太郎。俺は貴様をかような甘い人間に育てた覚えはないのだがな。たとえ肉親であっても時には斬って捨てることも必要、そう教えたではないか」


何度このやり取りを繰り返したことだろう。今年に入ってから、月の初めに行われる評定で必ずと言っていいほど起こる親子の対立。重臣らはただ居心地が悪そうに眉間に皺を寄せながら、そのやり取りから目を背けていた。


「それはただの戯言に過ぎませぬ!今今川を切れば、北条がこちらに牙を向けましょう。それを一番理解しておられるのは御屋形様ではございませんか!」


「北条が牙を向けたとして、それが何だと言う。我らは長尾と同盟を結んだ。奴と手を組むのは癪であったが、これはある意味好機である。長尾はもうじき再び関東に進出する。そんな時に北条にこちらに手を出す余裕はない。それにな。氏康には河東の割譲という餌をちらつかせておってな。氏政に嫁がせた黄梅院もおるゆえ、三国同盟を破った後も甲相同盟は残す腹積もりじゃ。氏康は間違いなくこの話に乗ってくるであろう。ゆえに武田が駿河を攻めても北条は手を出して来ぬのだ。分かったか!」


現在、氏康にとっても弱体化した今川家は、以前ほど重要な存在とは見なされていない。怜悧狡猾な信玄は、その北条の悩みに付け込む形で、氏康に交渉を秘密裏に持ちかけた。


氏康にとっても、嫡男・氏政の妻の出身である武田の存在も今川と同じように大きい。氏康も武田が本気で今川との約定を破ろうと考えていることを察したのか、強く引き止めることはなかった。


「北条は三国同盟を破った武田をはたして信じましょうや? 某にはそうは思えませぬ」


「太郎、貴様はまだ何も分かっておらぬな。人というものは弱い生き物でな。自分に都合の悪いものは信じず、都合の良いものだけを信じようとしてしまうものなのじゃ。ならば尋ねるが、太郎。貴様は武田は駿河以外にどこを目指せというのか?」


信玄はやれやれといった様子で三度首を横に振る。青さの残る義信に、呆れを含んだ声で訊ねる。


「もちろん遠江でございます。遠江は海があり、今は今川の支配から解放された国人どもが割拠し、伊那から攻め入ればすぐに攻め獲れまする」


義信の提言を聞いた信玄は溜息を吐いた。侮蔑とも言えるその態度に義信は眉間に皺を寄せる。そして信玄は義信に問うた。


「たしかに遠江はすぐに攻め獲れよう。……だが、その後はどうなる?」


「えっ? その後とは?」


「遠江は織田も狙っておろう。武田が遠江を奪えば、すぐに織田との戦となろう。今の武田で織田に勝てると思うておるのか?」


「……」


義信は信玄の言葉に黙り込む。織田と戦うことになれば、武田の勝ち目は薄い。義信自身もそれは分かっていたために答えることができなかった。


「答えよ! 太郎!」


視線を逸らし黙り込んだ義信に、信玄が怒鳴りつけるように言い放った。


「分かりませぬ」


「そんなことでは武田の次期当主は務まらぬぞ。負けるとは言わぬが、武田は勝てぬ。今の武田では織田と戦う訳にはいかぬのじゃ。ゆえに駿河なのだ。分かったか、太郎! 飯富兵部! 貴様は太郎に一体何を教えておったのだ!」


「申し訳ございませぬ。御屋形様!」


虎昌の平身低頭な謝罪を横目に、この場にいる他の家臣らは、ただその場を切り抜けるべくじっと座っていた。ここでどちらかに与するのも賢いとは言えない。現当主と次期当主の言い争いに、家臣らが口を挟めばどんなとばっちりを受けるか予想もつかない。事態が好転することは十中八九ない、そう言い切れることが確かなだけだ。


「四郎、お主はどう思う」


そんな中信玄が話を振ったのは、庶子であり信玄が最も寵愛する武田四郎勝頼であった。父の期待を裏切るわけにはいかない、そういった思考を長く刷り込まれてきた勝頼にとって、兄よりも父を取る以外の選択肢はなかった。


「わ、私は...御屋形様の仰る通り、駿河に攻め込むことが、武田が最も利を得る手段かと存じます」


勝頼の言葉に、信玄は露骨に口角を上げる。それに対して義信はさらに目を吊り上げて不満を露わにする。


「聞いたか、太郎よ!貴様の弟の方がよっぽど聡明ではないか!」


義信の耳がピクッと震える。そして、この場にいた全ての人間が悟った。


ーー御屋形様は絶対に言ってはならぬことを口にしてしまった、と。


「御屋形様、それは......」


流石の勝頼もこればかりは反論せざるを得ない。しかし幸か不幸か、その言葉が信玄の耳に届くことはなかった。目の前には、目が憎悪に染まっている義信と、それを睨みつける信玄の姿があった。


ただこの場を切り抜けることのみに執心していた家臣らもその空気に当てられ、二人を止めようと膝を浮かせるものの、実際に行動に移せるものはいなかった。


そして、皆が同じように急激に広間が冷え込んでいくの感じる。それは夏だというのが信じられない程の冷え込みであった。


「太郎、この儂にどうしてそう楯突く。貴様は儂の言葉に従っておれば良いのだ」


「御屋形様、私は本心を述べているのみにございます。今川と事を構えるのは愚策、ただそう申しているに過ぎませぬ」


「ふふふ......どうやらこれ以上言っても無駄のようだな。太郎よ、お前の考えはよく分かった」


「....っ!」


反論しようと口を開こうとした義信であったが、口から言葉が出てくることはない。信玄の顔が怒りと軽蔑、失望に染まっていたからであった。そして義信は直感する。


ーーこの人とは永遠に分かり合えない、と。


その只ならぬ声色に、家臣らは顔を引攣らせる。直後に皆が御屋形様を止めなくては!と思った時にはもう遅かった。


「武田太郎義信、貴様を廃嫡する。東光寺にて蟄居せよ。妻・嶺松院との離縁を命ずる。そして、太郎に代わって四郎勝頼を嫡男とする!」


「......承知致しました」


義信は無表情でそれを受け入れる。「御屋形様、お考え直しくだされ!」という義信の傅役である飯富虎昌の言葉に信玄は耳を貸すことはない。


「どうした、お前はもう嫡男ではない。速やかにこの躑躅ヶ崎館から立ち去るがよい」


それ以上言葉を交わすことなく、最後の挨拶とでも言うように頭を深く垂れた後、信玄に背中を向けて大広間を退出していった。


義信が甲府の東光寺に幽閉されると、離縁された正妻の嶺松院は間もなく駿河へと送り返された。



◇◇◇



7月中旬、俺は史実より早い「義信事件」の勃発を耳にした。周囲に気づかれないよう静かに肩を落とすが、その顔は冷静とは程遠いものだった。


間に合わなかったか。


俺は信玄が義信を廃嫡したことで、駿河侵攻への意思を固めたことを察した。俺は織田と今川が和解し、宿敵から同盟者に移り変わることを期待していたが、それもただの幻となってしまったことを心の中で嘆く。


いくら今川が奮戦しようとも、武田とは既に地力の差が大きすぎる。戦の才には恵まれなかった氏真がどうにかできるとは考えられない。


俺は頭から何かを捻り出そうと思考を加速させるものの、全くと言っていいほど東国の地理を知らない俺にとって、それは無理なことであった。泣く泣く諦めるのにそう時間はかからなかった。


岡部元信や氏真の祖母・寿桂尼の尽力を期待するしかない。ただ、三日三晩俺の心が晴れることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る