美濃侵攻① 稲葉山城乗っ取り
龍興に付き添っていた家臣たちは、龍興を助ける泳ぎで既に体力が尽きており、誠忠も虚しく沼上郷の男たちの槍襖の餌食となってしまう。生き残ったのは一色龍興ただ一人であった。
「何故我を殺さない」
龍興は憎々しげに告げた。身体が小刻みに震えている。
「ふん、貴様にはまだ使い道があるからだ」
(貴様の"存在"以外は何も要らぬ。『命』もな)
利蹊は憫笑で口角を上げながら、冷淡な目で見下しつつ吐き捨てるように告げた。
前田利蹊には此処で龍興の首を刎ねるつもりは毛頭なかった。それは正吉郎から可能な限り龍興を生かして捕らえるように厳命されていたからである。
利蹊の言葉に龍興は一瞬だけ覗いた一条の希望に目を光らせながらも、短い命だと悟ると顔を引き攣らせ、涙を流しながら蹲った。
「おい、此奴を縛れ。正吉郎様をお迎えするぞ」
縛られて喚く龍興を引っ立てると、利蹊は沼上郷に戻っていった。
◇◇◇
近江国・沼上郷。
太陽が中天に昇った午の刻、沼上郷に到着した俺は、捕縛された一色龍興と対面した。
「俺は寺倉掃部助だ。お前が一色治部大輔か?」
「ふん」
一色龍興は不遜な態度を崩さなかった。いつの世も馬鹿な奴はプライドだけは高いな。
「お前の身柄は西美濃勢に引き渡す。だが、その前に一つ、聞いておくことがある」
龍興は訝しげに眉を顰めた。
「何故、竹中半兵衛を美濃の政治から遠ざけた? 自分に美濃を治める器量がないのは、暗愚なお前でも分かっていたであろう。ならば半兵衛の力が必要だと気づいたはずだ」
「お前には関係のないことだ」
龍興は目を逸らした。やはり後ろめたいのだろう。
「自分より優れた才を持つ半兵衛に嫉妬したか」
「……」
龍興は心中を見透かされて目を伏せた。俺はそんな龍興を更に追及する。
「図星のようだな。自分に器量がなければ優れた者に頼ればいい。下らぬ嫉妬から無能な佞臣を重用するなど愚の骨頂だ! 斎藤飛騨守のような佞臣をのさばらせた責任はお前にある。違うか!」
15歳と若い龍興は佞臣どもの甘言に唆され、傲慢な性格に歪められたのだろうが、同情などできるはずもない。
「此度もお前の邪な欲望の所為で大勢の兵が死んだ。お前は亡き左京大夫(義龍)から何を教わってきたのだ?!」
俺が怒りの眼差しで見据えると、龍興は全てを悟ったような表情で息を吐いた。
「……我は殺されるのか?」
「ああ。だが、殺すのは俺ではない。竹中半兵衛の役目だ」
半兵衛は"美濃統治の正当性"を得るため、暗愚な美濃国主を自らの手で討つ必要がある。
「……そうか」
虚ろな目で天上の太陽を見上げた龍興が涙ぐんだ声で短い言葉を紡ぐと、俺は黙って踵を返した。
◇◇◇
午の刻過ぎ(午後1時)、正吉郎は1500の兵を率いて、五僧峠の東で待ち受けていた半兵衛率いる西美濃勢4500と合流した。
「待たせたな、半兵衛。無事、一色軍を殲滅し、治部大輔を捕らえたぞ!」
「さすがは正吉郎だ。どうやって3千もの軍勢を討ち果たしたのか、後で聞かせてもらおう」
「ああ。だが、まずは稲葉山城に向かうのが先だ。急ぎ出立するとしよう」
まだ利用価値がある一色龍興は生かされていた。龍興を戸板に縛りつけると、6千の軍勢は東へ進軍を始めた。
一方、鎌刃城で待機する大倉久秀は、正吉郎が西美濃勢と合流したとの連絡を志能便から受けると、未の刻(午後2時)に寺倉軍の主力部隊5千を率いて鎌刃城を出立した。同盟関係にある西美濃では戦闘もなく、寺倉軍は整然と東山道を東へと行軍していった。
この寺倉軍侵攻の情報はすぐさま東山道を伝って中美濃に伝わった。稲葉山城周辺に居残っていた中美濃勢は、「寺倉軍を迎え討て」との留守居役の斎藤飛騨守の命令に従い、夕方には東山道の揖斐川東岸に向かい、寺倉軍を待ち受けた。
だが、これは寺倉軍の主力部隊が囮となって中美濃勢を引き寄せ、稲葉山城の守りを薄くするという正吉郎と半兵衛が考えた計略だった。
中美濃勢が東山道の揖斐川東岸に集結しようとする頃、西美濃勢と寺倉軍の別働隊は東山道よりも15km南の下流で密かに揖斐川と長良川を渡ると、稲葉山城へ直進したのである。
◇◇◇
美濃国・井ノ口。
日没する頃、正吉郎と半兵衛の率いる6千の軍勢は井ノ口に到着した。
「……治部大輔様。お命、頂戴いたす。お覚悟なされよ!」
「ぐっ!」
半兵衛は"主殺し"の汚名を覚悟し、一色龍興の脇腹を刀で刺し貫いた。辛うじてまだ息はあるが、あと一刻(2時間)もすれば出血により死ぬのは間違いない。
今頃は中美濃勢は揖斐川に誘き寄せられているはずだった。その間に龍興にまだ息がある内に稲葉山城に入り、落城させなければならない。ここからは時間との勝負であった。
◇◇◇
美濃国・稲葉山城。
稲葉山城は天下一とも言える堅城だ。留守居役の斎藤飛騨守と僅かな守備兵を残すのみとは言え、籠城されては無駄に多くの兵を失い、下手をすれば織田家が攻め込んでくる恐れもある。私は正吉郎と一計を案じて、稲葉山城を内から落とす策を決行することにした。
「国主様が寺倉との戦で大怪我を負われた! 一刻も早く手当が必要だ。早く門を開けよ!」
「国主様が大怪我とは! し、しばしお待ちを。飛騨守様に聞いて参りまする!」
私は必死に守備兵を急かした。だが、私の背後には6千もの兵がいるため、いくら治部大輔が大怪我をしたとは言え、我らが入城するのは難しいと考えていた。私は守備兵に悩む暇を与えないため、瀕死の治部大輔を指さして守備兵を怒鳴りつける。
「戯け者! 何をしておる! 早く医師に診せねば国主様がお亡くなりになってしまうぞ! もし国主様が亡くなれば、お主ら全員打首だ!」
「ひ、ひぃっ、それだけはご勘弁を! どうぞお入りください」
普段は温厚な私が高圧的な態度で脅すと、打首を恐れた守備兵は城門を開いた。
「直に寺倉軍が追ってくる。我らも城内に入り、寺倉軍に備えるぞ! 皆の者、続け!」
「「「おう!」」」
治部大輔を乗せた戸板に続いて、我らは整然と城内への侵入に成功した。
「掛かれっ!」
二の丸まで入ると、私の号令で西美濃勢が守備兵を攻撃し始めると、僅かしか残っていない守備兵は多勢に無勢で抗うこともできずに降伏していった。
私は氏家常陸介(直元)殿と稲葉伊予守(良通)殿に二の丸と三の丸の制圧を頼むと、義父の安藤伊賀守(守就)殿と共に手勢を率いて本丸へ足を進めた。
本丸御殿に入ると、大広間には顔を青白く染めた斎藤飛騨守が座っていた。
「半兵衛。これはお前の仕業か!」
「そうだ、飛騨守。国主様を誑かして我ら西美濃衆を蔑ろにし、私が女子のようだと愚弄した貴様を断じて許す訳には行かぬ!」
「ふん、女子のような男を揶揄って何が悪い!」
飛騨守は脚を震わせながらも、最後まで悪態を吐いた。どこまでも性根の腐った男だ。
「嘲弄しながら櫓の上から私に小便を掛けた貴様は、武士の誇りに懸けても生かしておく訳には行かぬ!」
当主が代わってから、私は斎藤飛騨守ら治部大輔の寵臣に嘲弄されることが増えていた。それでもどうにか我慢していた私だったが、斎藤飛騨守に嘲笑いながら小便を掛けられた時に、堪忍袋の尾が切れたのを今でも覚えている。
「さて? 身に覚えがないな」
「身に覚えがない、だと? ふっ、やはり貴様は猿よりも頭が悪いようだな。ならば冥土で思い出すがいい。覚悟してもらおう」
飛騨守の顔に激昂の感情が帯びる。しかし、私が刀を掲げると露骨に顔を痙攣らせた。少しずつ距離を詰める。それでも余裕が垣間見えた。“女のような”私が自分を殺すはずがない、どこかでそう確信していたのかもしれない。だとしたら甘い考えだ。私は国主を弑逆した。悪政を蔓延らせる飛騨守一人殺せぬようでは、国主は務まらない。
私は首筋に刃を当てた。飛騨守は脂汗を滲ませ、恐怖の表情で後ずさる。
「ひっ、ひぃぃ」
人を手に掛けるのはこれが最後だと念じながら、私は心の奥底に鬱積した憎悪を吐き出すように刀を振り切った。
「あがっ!!!」
飛騨守の首が刎ね飛ばされて大きく弧を描いて落ちると、胴体からは飛騨守の性根を表すような黒ずんだ血が、勢いよく吹き出した。
こうして、稲葉山城は西美濃勢によって落とされ、後に「稲葉山城乗っ取り」と呼ばれることになるのだった。
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