沼上郷の戦い②
近江国・沼上郷。
日付が5月22日に変わった丑の刻過ぎ(午前3時)、一色軍に見つかり辛い深夜の時間帯に、沼上郷の男たちは一色軍を迎撃するための配置に着いた。
前田利蹊は沼上郷の男たち1千を2隊に分けた。1隊は源三が率いて街道の両側の山中に伏せ、水流に溺れ死なずに命辛々岸に上がってきた一色兵を投石や弓、槍で殲滅する役目だ。
もう1隊は利蹊が率い、街道を通って美濃へ敗走しようとする一色兵を五僧峠で迎え撃つ役割の隊であった。利蹊は一色兵は一人も生かして帰すなという正吉郎の指令を受け、今こそ"槍の又左"の腕の見せ所だと気合いを入れていた。
街道と並行に流れ、沼上郷の水源にもなっている川は、嵐の前の静けさのような穏やかな流れを保っていた。今は下部の堰堤に設けられた排水口が開いているためである。しかし、排水口が閉じれば、沼上郷の前で川の水は堰き止められることになる。
一色軍は五僧峠の東の麓で野営しており、今朝の巳の刻(午前10時)前には沼上郷に到着する見込みだった。沼上郷の男たちは山中で息を潜め、上流で貯められた水が一気に放出されるのをただ静かに待つのであった。
◇◇◇
翌5月22日の早朝、一色軍3千は五僧峠を越えると右に折れ、南から北に向かって流れる川沿いに北へ進み、沼上郷の手前に築かれた堰堤を目の前にして着陣した。
(なんだ? 妙に静かすぎる。この不気味な静けさは何だ?)
着陣してからすぐに一色龍興の胸中に違和感が宿った。一色軍の兵が立てる物音の他には風の音と川の流れる音以外、何の音も聞こえてこなかったからである。それは動物としての本能とも言うべき龍興の危険察知力によるものであった。
(それにこの石垣。城壁にしては余りにも高すぎる上、石の間は灰色の土のようなもので固められておるな。これは一体……?)
龍興は堰堤を見上げながら疑念を抱いた。コンクリートを使った堰堤である。龍興が見たことがないのも当然であった。
「おい。この城壁の向こうは見られぬのか?」
「はっ、谷間は石垣によって完全に塞がれており、凹凸が少なく垂直に近いため、よじ登るのは難しいかと存じます。街道の先に人が通るための小さな門がございますが、堅く閉じられております。また、川の水を通している水門は小さく、人は通れませぬ」
龍興の問いに、近くに控える側近が慌てて返答する。
「そうか。では、その小さな門を壊すか、石壁を崩す以外に無いということだな」
龍興はすぐに門の方に視線を移し、内心で「面倒だな」と小さく溜息を吐く。
「堅い石壁を崩すよりは門を壊すべきだな。では、太い丸太で破城槌を作り、門を壊すのだ。急げ!」
「「ははっ」」
龍興は諸将に命じると、つまらなそうに東の稜線上に現れた太陽に目をやった。そして、日光の眩しさを遮るように掌を掲げながら、兵たちが太い木を切り倒そうとする動きを眺めていた。
――カーン、カーン、カーン
――ドッ、ドドッ、ドドドドーーッ、……
数分が経ち、静寂に包まれた谷間に斧の音が響き出すと同時に、遠くから何かが迫り来るような、下腹に重く響いてくるような振動音が龍興の耳を鳴らした。
「て、敵襲か?!」
龍興はあからさまに動揺して声を震わせると、背後から近づいてくる音の原因を確かめるために振り返った。
「ひっ! り、龍っ!!!」
敵襲の方がまだ幸せだったかもしれない。龍興の目には天から降りてきた龍が咢を広げて自分に襲い掛かってくる幻が映っていたのであった。
しかし、実際は龍などではなく、怒涛の勢いの激流が水飛沫を上げながら南の上流から押し寄せてきていたのである。龍興は脳の理解が追いつかず、尻餅をついて口を開けて固まったままで呆然としていた。
「治部大輔様! 治部大輔様!!」
しかし、側近の呼び掛けにようやくハッと意識を取り戻すと、すぐさま龍興は怒鳴り声を上げる。
「あれから我を救え! 我を救い出した者には褒美をたんまり授けるぞ! 何をしておるか。は、早く何とかするのじゃ!!」
まさか山奥とも言える場所で水攻めに遭うなど想像するはずもない。そして、龍興が生まれ育った美濃には尾張のような海も近江のような湖もない。したがって龍興は完全な金槌だったのだ。
龍興の心は絶望感に支配されて半ば発狂したかのようにパニック状態に陥っていたが、それでも死ぬ気など毛頭なかった。側近をいくら死なせようとも、当主である自分だけは絶対に助かろうと、龍興は自己中心的な考えで馬の首にしがみ付くと、目前に迫り来る激流に備える。
その10数秒後、押し寄せてきた激流は無情にも、堰堤の手前に固まっていた一色軍の将兵たちを一気に飲み込んで押し流した。
「ぐわぁぁ、ぐほっ!冷てえ!溺れる!」
「げほっげほっ、俺は泳げないんだ。救けてくれぇ!」
水流はみるみる内に水嵩を増していく。既に堰堤の水門は龍興の知らない内に厚い青銅板によって閉じられており、大量の水は完全に塞き止められ、堰堤の南側にダム湖を形作っていった。
両側を急斜面の山に囲まれ、前は石壁、背後からは今も激流が押し寄せるため、泳いで渡るには厳しく、正に四面楚歌の状態であった。20kg以上ある重い鎧兜を身に纏った武士ほどその重さに耐えられずに、次々と冷たい雪解け水の底に沈んでいった。
しかし、一色軍の兵数は3千。重い鎧兜を身に着けていない身軽な足軽の中には、泳ぎに長けた者も当然存在していた。彼らは軽々と両側の山の斜面に辿り着くと、我先にと山を登って逃走しようとする。
しかし、びしょ濡れで這い上がってくる一色兵を一人も逃すまいと、伏せていた沼上源三が率いる500の隊が一斉に立ち上がると、源三の号令が飛んだ。
「やれ! 一人も生きて帰すな!」
バラバラに逃げようとする一色兵は、沼上郷の男たちにとっては児戯にも等しい投石や弓矢の絶好の的となる。一色兵は投石や弓矢で狙い撃ちにされた挙句、運良く潜り抜けた兵も長槍の餌食となり、命を奪われていった。
一色軍3千はこの水攻めによって8割方の将兵が溺れ死に、山の斜面に辿り着いた兵もことごとく源三の隊に討ち取られていく。その光景は正に阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
この戦いは後世に「沼上の山津波」と伝えられ、戦国史に残る戦いとなる。
◇◇◇
一方、龍興はと言うと、30kg以上の重い鎧兜を身に纏った龍興の腕と足を、鎧を脱ぎ捨てた側近4人が抱えながら、必死の遠泳により南の上流の岸へと辿り着き、命辛々陸へと上がっていた。
「ふぅぅ、命拾いしたとは正にこのことだな。とにかく一刻も早く此の場から去り、美濃へ戻るぞ!」
「「はっ」」
お荷物たる龍興を運ぶために、途中で多くの側近が力尽きて湖の底に沈んでいったが、龍興は全く気に留めることもなく、生き残った10名ほどの僅かな家臣と共に、ほうほうの体で五僧峠の坂道を徒歩で東に登っていく。
しかし、五僧峠の中央で龍興らを今や遅しと待ち受けていたのは、前田利蹊が率いる500の隊であった。
「ふっ、ようやく来たか。貴様が一色治部大輔龍興、だな」
隊の中央で槍を構える利蹊の声に、龍興はどうにか生き延びたと思い込んだ矢先の絶望に、精根尽き果てて膝を地に付いてしまう。
「くっ、そうではない、と言っても意味はなかろうな。我は結局、お前たちの策にまんまと嵌ったという訳か」
しっかりとした歩みで近づいてくる利蹊たちの足音を聴きながら、もはや観念した龍興は悔しそうな顔を浮かべて、ただ俯くしかなかった。
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