沼上郷の戦い①
近江国・物生山城。
5月に入り、いよいよ田植えも終わりに近づき、一色軍が寺倉領に侵攻する日が迫ってきた。
俺は年明けから諜報体制の整備について考えてきた。諜報活動には大まかに分けると、敵を調べる"外諜"や、味方を調べる"内諜"といった情報収集活動と、敵の諜報を防ぐ"防諜"活動、そして収集した情報を速やかに伝達する情報伝達活動がある。
今のところ寺倉家では"内諜"は不要なため、志能便には"外諜"と"防諜"をメインに動いてもらっているが、今回の一色軍の侵攻をいち早く察知し、即座に行動する上では、領内で情報を早く正確に伝達するための連絡体制の整備が必要だ。
寺倉領は山地が多い。一色軍の侵攻が予想される沼上郷が領内の東端の山奥にあるのに対して、物生山城は西の端にあり、その間は険しい山道を通らなくてはならず、当然ながら人の足では時間が掛かる。
そのため、「異常なし」とか「敵来襲」といった定型文の情報伝達は鐘や煙を使い、山頂に設置した烽火台を経由した連絡体制を既に構築している。だが、夜間に光を使ったモールス信号を使った情報伝達は、望遠鏡がないため見間違いが多く、期待したほど上手く行っていないのが誤算だ。
そこで、次に思いついたのは"伝書鳩"だ。鳩は帰巣本能が強く、太陽や体内時計、地磁気などにより方角を知る能力に優れているため、前世ではドバトから改良された伝書鳩が戦時中は軍事用、戦後には通信用に活用された。遠隔地に連れて行った伝書鳩の足に伝書筒を付けて放つことによって、巣に戻った伝書鳩により情報をいち早く伝えたのだ。
だが、伝書鳩にも意外な落とし穴があった。実はこの時代は意外と猛禽類が多いのだ。伝書鳩は昼は鷹や鳶、夜は梟といった猛禽類の縄張りに入ると、半分くらいが餌食となってしまうのだ。伝書鳩を育てるにも時間とコストが掛かる。飛ばす度に半分が死んでしまうようでは一度に数多く飛ばすしかなく、緊急時以外には使えない。
ならば、犬や猫も帰巣本能が強いので、狼部隊の従順な狼を使うかとも考えたが、遠くから狼が走って来れば、目印の赤い布を付けても猟師に誤って撃ち殺されかねない。
そこで次善の策として、俺は馬による駅伝方式、要するに"伝馬制"を導入することにした。平野部は東山道の宿場町に、山間部は鎌刃城や桃原城、男鬼入谷城などを中継地として物生山城まで伝馬を乗り継いで情報を伝達する体制を整備することにした。
領内各地に馬を2頭ずつ配置するだけでもかなりのコストが掛かるが、死命を制するほど情報は重要だ。情報一つで大勢の人の命を助けられることを考えれば、金には代えられない。
5月上旬には伝馬制の運用も軌道に乗り、俺は一色軍の侵攻を速やかに知ることのできる情報伝達体制を整えた。
◇◇◇
5月21日の辰の刻(朝8時)。美濃国主・一色龍興は3千の兵を率いて稲葉山城を出陣し、西の近江へと進軍を開始した。
ただし、この軍勢には西美濃の兵は一人も含まれておらず、中美濃と東美濃の兵だけで占められていた。東山道を通れば、寺倉家と婚姻同盟を組む竹中家や、その竹中家と婚姻関係のある安藤家の他、西美濃勢が手を組んで反旗を翻す可能性があるためだ。
一色軍はさらに、東山道の関ヶ原を越えて近江に侵攻すれば、西美濃勢に背後を突かれて挟撃される恐れが考えられるため、なるべく西美濃の中心部を通らないように大垣で東山道から外れて南の養老に迂回し、沼上郷のある五僧峠に向けて兵を進めていた。
「治部大輔様。沼上郷は何やら石垣のような城壁を築いているようにございまする」
龍興は亡き父・義龍に教わったとおり物見を先に送り、状況を逐一報告させていた。しかし、沼上郷は堅固な城壁で守られている上、中の様子を窺い知ることは難しいという報告を受ける。
もちろん物見や龍興がコンクリートなど知るはずもない。龍興は一瞬顔を歪ませるが、すぐにいつもの全てを見下すような賤しい目つきで前を見据えた。
「ふん。いくら城壁で堅く守ろうとも、この兵数で攻め立てればすぐに崩れるであろう。少しくらい骨がある方が手応えがあって面白かろう。ワッハッハ」
龍興は物見の報告に大して気に留めることもなく、高笑いで笑い飛ばす。
自軍の勝利を信じて疑わず、油断で目を曇らせ驕り高ぶる龍興の姿は、味方の将の目にも決して好ましくは映らず、重臣たちは内心で溜息を吐いていた。
寺倉家は元は小さな国人領主だとは言え、今は"近江三家"の一角を占める大名である。くれぐれも油断は禁物なのだが、それを諫言するような忠臣は龍興の傍には一人もいなかった。
そして、その夕方。ついに一色軍は西に五僧峠が見える烏帽子岳の山裾に到着し、今日はここで野営する準備が始められた。
「皆の者、憎き寺倉の領地は目の前だ! この一色治部大輔がおる限り、我らは負けぬ! ワッハッハ」
龍興は声高々に目前の将兵たちに告げると、笑い声を響き渡らせた。
◇◇◇
近江国・物生山城。
5月21日の昼過ぎ、俺は一色軍3千が朝に稲葉山城を出陣するようだと、早速伝馬を使って情報を伝達した志能便から知らされた。
既にいつでも出陣できる態勢を整えていた俺は、すぐさま兵1500を率いて物生山城を出陣し、沼上郷へと向かった。1500の兵数は一色軍の半分だ。正面から真面にぶつかれば勝機は薄い。
しかし、今回の一色軍の侵攻に対して、俺は2年前から対策を練ってきた。沼上郷には川が流れている。利蹊や源三に指示してその上流にダムを作らせ、川の水と雪解け水を長い時間掛けて少しずつ貯めてきた。
俺は沼上郷で一色軍を壊滅させた後、鎌刃城で待機している大倉久秀率いる主力部隊5千に指示を送り、半兵衛や西美濃勢と協力して返す刀で美濃侵攻を画策している。その作戦も全ては沼上郷の民の働き如何に掛かっている。
利蹊、源三。頑張ってくれ。頼んだぞ!
◇◇◇
近江国・沼上郷。
「皆の者! 明日は寺倉家の存亡を賭けた戦だ! 命を賭けてこの沼上郷を守る覚悟のある者だけがここに残れ! たとえこの場から逃げても責めはせぬ」
5月21日の夕方。沼上郷代官の前田利蹊は明朝にも迫り来る一色軍との戦いを目前にして、寺倉郷の男たちを全員広場に集めると、声を張り上げて鼓舞していた。
「又左衛門様! そんなこたぁ、今更言うまでもありませんぜ。掃部助様は我らのような虐げられた者のために、誰からも迫害されずに安心して暮らすことのできる場所と十分な食い物を与えてくださったんだ。今こそ我ら沼上の民が命を懸けてご恩返ししなければ、一体何時できましょうや? 野郎ども、そうは思わねぇか!」
「「「おぉ、そのとおりだ!」」」
沼上郷の副代官を務める沼上源三が、利蹊が感激で身を震わせるほどの寺倉家への篤い忠誠心を目に宿しながら、強い口調で利蹊に訴えかける。
すると、源三の野太い声に触発されたように、寺倉郷の男たちも口々に「そうだ、そうだ」と言い出し、利蹊の言葉を聞いて広場を立ち去る者など一人もいなかった。
誰もが寺倉家への強い恩義を抱いており、それはまた利蹊も同じ思いであった。出自は違えども自分と同じ気持ちなのだと実感し、利蹊は目を潤ませながら徐に自らの嘘偽りのない心中を打ち明ける。
「お前らの熱い気持ちは良く分かった。ではその命、俺に預けよ! 我らが安住の地を脅かす一色を、我ら自身の手で討ち滅ぼすのだ! 皆の者、我に続けぇぇーーぃ!」
「「「おおォォーー!!」」」
利蹊の檄に呼応するように、沼上郷の男たちが一斉に握り拳を天に突き上げて力一杯吠えた。
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