教興寺の戦い
室町幕府の"三管領"の名門である畠山金吾家の当主で有数の名将である畠山高政と、同じく"三管領"の細川京兆家に仕える陪臣の身分から、下剋上によって『日本の副王』と呼ばれる天下人にまで成り上がった三好長慶。
両家の対立は単なる有力大名同士の権力争いではなく、正に室町幕府の旧体制と新興勢力との畿内、すなわち天下の覇権を懸けた激突であった。
畠山高政は3月の「久米田の戦い」で勝利した勢いのまま、4月に2度に渡る総攻撃を敢行するも、畠山家を上回る国力を有する三好家は畠山軍を撃退し、三好家の本城である河内の飯盛山城を落とすことはできなかった。
5月上旬、畠山軍が飯盛山城の攻略に手を焼いている間に、三好家は「久米田の戦い」で敗走した讃岐衆、阿波衆、淡路衆らの増援を求めた。四国からの援軍が飯盛山城の救援に向かうと、5月中旬、畠山軍は飯盛山城の包囲を解き、撤退を余儀なくされた。
2ヶ月間の総力戦の末に三好家は辛くも飯盛山城を守り切ったが、三好長慶は四弟・十河一存と次弟の三好実休の2人を相次いで失い、失意のどん底にあった。しかし、それでも『日本の副王』たる威信に懸けて、ここで屈する訳には行かなかった。
摂津や丹波の国人に参集を呼び掛け、再び畠山軍と干戈を交える準備が出来ると、三好軍は四国勢と合流して態勢を整えた。兵数は三好家の全力とも言える6万もの大軍であった。
そして、5月16日。三好軍はついに動き出す。長慶の嫡男・三好義興、長慶の三弟の安宅冬康、腹心の松永久秀、一門衆の三好康長、三好政勝、三好長逸、という錚々たる顔ぶれの諸将が勢揃いして出陣したのである。
「皆の者! 畠山に奪われた高屋城と岸和田城を奪還するのだ!」
「「「オオオオーー!!」」」
三好長慶は飯盛山城に集結した6万の軍勢を前にして河内の高屋城と和泉の岸和田城の奪回を掲げて檄を飛ばすと、一路南へと進軍を開始した。
一方、飯盛山城から一旦退却した畠山軍は高屋城ですぐさま態勢を整えると、4万の兵で再び出陣した。高屋城から北上し、恩智城の北の教興寺に布陣し、南下する三好軍を待ち構えたのである。
5月17日の夕方、両者は教興寺畷付近で対陣し、「教興寺の戦い」の幕が上がることとなる。「教興寺の戦い」は三好軍6万と畠山軍4万の合わせて10万もの軍勢が激突した、戦国時代における畿内最大の合戦である。
翌5月18日、三好軍は謀将・松永久秀が畠山軍の将の謀反の流言を流すなどの策謀を仕掛けるが、畠山軍の1.5倍の兵数にも関わらず、三好軍は動こうとはしなかった。
それと言うのも「久米田の戦い」で根来衆の鉄砲により次弟の三好実休を失ったことから、三好長慶は畠山軍にいる雑賀衆と根来衆を警戒し、雨が降るのを待っていたのである。
そして、その日の夜半過ぎから雷を伴う強い雨が断続的に降り始め、5月19日早朝の教興寺畷には靄が掛かっていた。待ち望んだ雨天にほくそ笑んだ長慶が総攻撃の号令を掛けようとした時、本陣に急報が届く。
「修理大夫様、申し上げます! 石山本願寺の僧兵数千の軍勢が此方へ向かっておりまする!」
「何だと! 一向宗の糞坊主どもめ、またもや我らに仇為すつもりか!」
一向門徒は三好長慶の父・元長の仇であった。権力に反抗的な寺社を憎んだ長慶は比叡山と日吉大社、坂本の町を焼き払った挙句に、一向門徒が治める堅田の町をも奪った。これにより一向宗本山の石山本願寺は三好家を仏敵とし、両者の確執はより深まっていた。
「くっ、已むを得ぬ。前後から挟撃される訳には行かぬ故、儂と孫次郎(義興)の1万の兵で坊主どもを叩き潰す! 他の者たちは雨で鉄砲が使えぬ間に畠山を討ち滅ぼすのだ。神太郎(安宅冬康)、後は頼んだぞ!」
一向門徒への憎悪から精神的に不安定だった長慶は、怨恨と怒りのまま本陣の兵1万を反転して僧兵へ向ける決断をしたのであった。
一方、三好軍より30分ほど遅れて、畠山軍の本陣にも石山本願寺の僧兵が向かっているとの一報が届いた。
「何? 三好の援軍か?」
予期せぬ事態に驚いた畠山高政だったが、すぐに脳裏に過ぎった最悪な状況を振り払った。
「いや、それだけは絶対にあり得ぬな。堅田の町を奪った三好は一向宗の敵。一向門徒も三好の親の仇だ。互いに憎み合う両者が手を結ぶはずがない」
「はい。僧兵からは『我らと手を組めば勝利は確実だ。畠山家に手を貸そう』との由にございまする」
石山本願寺は三好家に比叡山焼討ちと堅田を奪われたことへの報復として、畠山家との戦に横槍を入れようというつもりなのだ。
高政はしばし黙考した後、すぐに決断を下す。
「……ふん、敵の敵は味方、という訳か。だが、奴らは何をしでかすか分からぬ狂人どもだ。勝った後に我らにも刃を向けるやも知れぬ。奴らは自らを仏の代弁者と称し、三好を仏敵と誹っておるが、畠山家は奴らの救けを借りるほど落ちぶれてはおらぬわ!」
しかし、しばらくして長慶率いる本陣の1万の軍勢が南下する数千の僧兵たちを迎え撃つため離れると、三好軍に潜り込んだ畠山家の素破たちが、背後から石山本願寺の僧兵が押し寄せているという噂を流し始める。
「どうやら石山本願寺から僧兵の大軍がこちらに向かっているそうだぞ」
「え? 我らを背後から襲うつもりか? それじゃあ、挟み撃ちじゃないか!」
やがて三好軍の兵たちに動揺が伝播すると、士気が低下するのは明らかであった。その結果、三好軍は目前に対峙する畠山軍に対する闘争心が薄れることになった。
「……ふふっ、どうやら天は我らに味方したようだな」
一方、兵数に劣る畠山高政は千載一遇の好機とも言える三好軍のその隙を見逃さなかった。
「皆の者! 三好が動揺しておる今こそ、三好を討ち果たす時だ! 全軍、突撃だ! 掛かれぇぇぃーー!!」
総大将の長慶が離脱した三好軍は、後を託された安宅冬康が長慶に代わって指揮を執っていた。しかし、予期せぬ石山本願寺の介入により三好軍は諸将の各部隊にまで混乱が広がり、統率が取れなくなっていった。
三好軍は大軍であるが故に、各部隊の諸将は総大将の指示を受けずとも対応せざるを得ない。しかし、混乱した各部隊が別々の思惑で兵を動かしたことにより、未だ畠山軍を上回る兵数を保ちながら連携が取れなくなり、兵数の優位性は失われてしまう。
一方、畠山軍も4万の大軍であったが、三好軍とは対照的に目の前の敵に一気呵成に突撃することで士気を押し上げ、畠山軍にとって混乱する三好軍の兵は恰好の獲物であった。
そのため、両者が激突した時には既に大勢は決していた。士気の高い畠山軍は次々と三好軍の兵を減らしていき、ついに一部隊を壊走させた。三好長慶の叔父である三好康長が討死したのである。
「三好山城守を討ち取ったりぃーー!!」
三好康長を討ち取ったとの雄叫びが戦場に響き渡ると、その報せは他の三好家一門衆にも重圧を掛け、次第に三好軍は砂上の楼閣のように崩れていった。この機を逃すまいと畠山軍が一気に攻勢を強めると、安宅冬康はこれ以上戦えば壊滅すると判断し、已むなく全軍の退却を命じる。
石山本願寺の僧兵たちは畠山軍の勝利を知ると、三好長慶の軍勢と戦うことなく、すぐさま反転して石山へ引き揚げていった。
こうして「教興寺の戦い」は予期せぬ石山本願寺の介入により、3時間ほどの戦いで畠山軍の大勝利という史実とは真逆の結果に終わった。
一方、畠山家は僧兵たちと協力することはなかったが、陽動とも言える僧兵たちの動きが無ければ敗色濃厚だった戦であり、結果的に見れば石山本願寺に助けられたも同然だ。畠山高政の複雑な心中には深い靄がしばらく立ち込めたままであった。
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