朝倉の動向と花見

越前国・一乗谷城。


3月も中旬に差し掛かり、積雪する日はめっきり見られなくなった。雪解けは間近であるため、朝倉家当主・朝倉義景は浅井に占領された敦賀の奪還、更には本拠地の小谷城への侵攻を目論み、出陣の準備を進めていた。


「おのれ、浅井め。恩を仇で返しおって!六角の仇、ここでまとめて討たせてもらう。覚悟しておくがよい!」


怒気を声に含ませながらも、その口角は自然と吊り上がっていた。憎き浅井を討てるからだということもあるが、主な理由は戦力に分があるのが明らかに朝倉だったからである。


朝倉家は敦賀郡2万石を失ったとはいえ、依然越前国の大部分を治めており、50万石近い勢力を維持している。対する浅井は若狭侵攻により三方郡、遠敷郡と越前の敦賀郡を得たものの、寺倉の援軍の代償として半分の坂田郡北部4万石を失っており、現状では26万石の勢力である。


倍近くの規模を持つ朝倉からすれば、有利だと思うのは至極当然と言えるだろう。


しかし、義景が出陣の準備を進めていたその時、義景にとって最悪とも言える報せが耳に入ってきた。



ーー加賀一向一揆が越前への侵攻を画策している。


これを聞いた義景は露骨に顔を歪ませた。朝倉家はこの加賀一向一揆に幾度となく煮え汁を飲まされてきたからである。


宗教、すなわち信仰の力というものは時に狂気と化す。本来ならば烏合の衆である農民たちを、信仰の力によって一体化させ、高度な軍事行動を取るまでに結集させる。一向宗に限らず、世界の歴史を見てもキリスト教やイスラム教を始め、宗教によって引き起こされた戦争は枚挙に遑がない。加賀一向一揆が加賀守護の富樫氏を滅ぼし、 100年もの間統治できたのは、この一向宗という宗教が根底に存在したからだということは言うまでもない。


朝倉宗滴が存命であった頃までは良かった。1555年には長尾景虎と呼応して加賀に侵攻し、宗滴の策略により一揆衆を打ち破っている。しかし、この出陣で無理がたたったのか、当時79歳の宗滴は陣中で病に伏し、静養と治療も虚しく帰らぬ人となってしまった。


その宗滴が亡くなったことで朝倉家は自国を守りきることが精一杯の状態になり、近江への進出も泡沫の夢と化してしまった。


現状の朝倉家の力では加賀一向一揆を滅ぼすどころか、守り切れるかも怪しい状態だ。そんな時に敦賀奪還は不可能に近い。義景は無念のうちに敦賀奪還を諦め、加賀一向一揆への対応を余儀なくされたのであった。




◇◇◇




三好長慶の次弟、三好実休が戦死した。四弟の十河一存に次いで三好を支えていた両者が亡くなったことに、世間は驚きと今後への不安を露わにしていた。近江国でもその話題で持ちきりとなっていたが、俺はと言えば久米田の戦いは史実と同じ結果になることも予想にあったため、比較的落ち着いていた。三好が大きく衰退し始めたことに興奮を隠せない家臣らを、俺は半ば冷めた目で見つめていた。


六角が滅亡し、三好は志賀郡まで勢力を伸ばしていた。この影響により、久米田の戦いの結果が変わってもなんらおかしくないと考えていたのだが、それは杞憂に終わることになった。


比叡山の焼き討ちによる怨嗟を受けて心を病んだ長慶が、自らの手で父の仇である細川晴元を、残虐な手段で亡き者にしてしまったことが大きかっただろう。縁戚である足利義輝の腹心・細川藤孝を怒らせることになったのだ。三好に都を支配されていた幕府は、これに便乗し三好を討つよう極秘裏に畠山へと命じた。


長慶は史実のように京の都を失うことはなかったものの、和泉・河内国を失う大打撃を受ける結果になってしまった。


久米田で三好軍を打ち破った畠山軍は、勢いのままに三好家の本拠である飯盛山城を目指し、周辺の諸城の攻略を開始したという。しかし三好家の本拠地たる飯盛山城は非常に堅固な城であり、落とすのは難しいだろう。


各地で戦が勃発する中、寺倉家では家臣らを集め、佐和山で花見を開くことにした。冬の間は浅井への援軍もあり、新たに領地となった地域の掌握や、分国法の試用など、様々な仕事があったために家臣たちには休む暇もなかった。


1、2ヶ月後には美濃の一色が攻め込んでくると予想されているため、ここで一度息抜きを挟み、皆の英気を養おうと考えたわけである。


この時代、花見は一般的ではなかった。古くは平安時代から皇族や貴族の間では親しまれていたものの、鎌倉・室町時代になってからは、貴族の花見の風習が地方の武士階級にも広がって花見の宴が催されるようになり、豊臣政権では豊臣秀吉は政治的な催事として数千人が参加した大規模な花見を開いている。その後花見が庶民へと広まって、春の風物詩となったのは、天下泰平となった江戸時代になってからだと言われている。もっとも現代のソメイヨシノは江戸時代末期に生まれた品種であり、この時代は桜といえば山桜であったが。


三月に入ってから増築された佐和山城は、寺倉家の本拠である物生山城と連結され、自他共に認める日ノ本有数の堅城が完成した。


佐和山城は物生山城から尾根伝いに繋がっており、繋げることで規模を拡大させたわけである。特に防御機能は非常に高く改築しており、光秀には数万の兵で包囲されても落ちない城と言わしめた。


連結された佐和山城を一目見ようと訪れた際に、壮麗な無数の山桜が7分咲き程に咲いていたのを見て、この花見を計画したのだ。


俺はこの花見を家臣への労いとして開催した。いつもとは逆の奉仕する立場として花見に参加したのである。そのため、俺は初めて自分の手で料理を作った。もちろん量が量のため料理番の手を借りたが、唐揚げやコロッケなど、俺が思いつく限り調理した。後で家臣たちが俺の手料理だと知って涙を流して感激していたのには苦笑したが。


結果、家臣らは琵琶や笛の音色を聞きながら桜の美しさに感動し、美味しい料理を食べて酒を飲み、春の訪れを楽しんだことで、花見の素晴らしさが身に染みたようだ。やはり日本人の桜を愛する心はどの時代でも遺伝子に刷り込まれているのだろうと感じた。


いつもならその小さな口に頬張るほど食べる市が、なぜか遠慮してあまり食べていなかったことが少々気になったが、花見は概ね大成功であった。


この花見をこれからも毎年開催できるよう、頑張らなければならないな。










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