久米田の戦い
「六郎殿」
どれくらい寝ていただろうか。私はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡す。周りには何もなく、ただ少し湿ったような腐りかけた畳の匂いが寂しく鼻をくすぐるだけである。管領としての権力を失い、細川の傘下で力を蓄えていた三好長慶の反乱によって、この薄暗く重たく湿った空気が充満した城内で幽閉されていた私は、既に目から光を失いつつあった。
「六郎殿」
幻聴が聞こえる。私の名前を呼ぶ声が耳に響く。いや、これは幻聴ではない。現実だ。正気を取り戻した私は、その声の元へ振り返る。
「なんだ、お主か。私に何か用でもあるのか」
私はそう言って目の前に立つ長慶の顔を覗き込む。だがその顔を見た瞬間、私は条件反射のように顔を歪ませた。
その顔がこれ以上ない程の憎悪に染まっていたからである。
思い出してみると、私を呼んだ声は震えていた。そして刀の柄に手を添えて小刻みに震える長慶を見て、私は悟ってしまった。
ああ、此奴は私を殺しに来たのだな、と。
◇◇◇
長慶の向ける恐ろしいまでの殺意に対し、晴元は驚きも戸惑いも感じることはなかった。むしろ自らがしてきた行いを考えれば至極当然というものである。
「......お命、頂戴致す」
震える右手を左手で添えて押さえつつ、長慶は刀を抜いた。長慶の刀は一直線に晴元の腹部を捉え、一気に心の臓を貫通し、その後思い切り引き抜いた。
即死であった。
長慶は先程までの震えが嘘のように、冷徹な目つきをしていた。そして何を思ったのか、腹を刀で切り開いた後、刀を部屋の奥にまで投げ捨て、倒れた晴元の目の前で膝をつく。長慶は晴元の臓物を顔の目の前に運び、握りつぶして天井へと投げつけた。その行動は誰が見ても狂気の沙汰であり、その悍ましい様子を見た小姓の唇は青白く染まっていた。
修理大夫様は比叡山を焼き仏敵という誹りを受けたことで、悪魔に心を取り憑かれなさった。
その噂が領内を駆け抜けるのにはそう時間はかからなかったという。
長慶は弟を亡くし、自らの手で比叡山を焼き払ったことにより、精神的に追い詰められていた。それが大きく影響し、自身の心を制御できなくなったためにこのような凶行に走ってしまったのだ。
狂気の淵に落ちた長慶を止められる者はこの三好家にはいない。三好家はこの事件を境に、砂の城の如くゆっくりと崩壊へと進み始めたのである。
◇◇◇
1562年2月下旬。
将軍・足利義輝の仲介により元管領の細川晴元と和睦し、普門寺城に身柄を幽閉していた三好長慶が、元主君である晴元をその手で殺した。志能便の報告によると、それはただ単に晴元の謀略によって殺された長慶の父・三好元長の仇討ちというだけではなく、父の壮絶な死を再現するように、長慶は晴元の腹をかっ捌き、中から取り出した臓物を全て天井に投げつけたのだという。聞いただけで身がよだつような所業に、俺は半ば悟った。
ーー長慶は精神を病んでしまったのだ、と。
俺はその事実に心を大きく動かされながらも、努めて冷静を貫いた。長慶ほどの人物でも強い恨みには勝てないのだ。俺もかつては恨みに突き動かされ、六角に逆らい、浅井に兵を向けた。そしてついに仇である六角を討ち滅ぼした。そんな俺の心は空虚感に苛まれるが、市によって救われた。そして恨みを忘れ、前を向くことができたのである。
心の支えというのは大切だ。それを俺は実感した。三好家には長慶を止めようという者はいない。松永久秀など、むしろそれを歓迎するほどである。それが件の暴走、凶行を生んでしまった。こうなれば長慶はもう止まらない、いや、止まれない。三好の天下は今音を立てて崩れ始めたのである。
史実では六角という後ろ盾があった畠山も、細川晴元が幽閉されているという状況を指を咥えて見ているしかなかった。史実においては昨年の7月に六角と結託し反三好の兵を起こしているが、その晴元が三好の手によって殺害されたことにより、幕府の中枢を担う幕臣であり、晴元の縁戚であった細川藤孝が激怒し、義輝に極秘の三好討伐令を出すよう進言したのである。
義輝は河内守護・畠山高政に文を送り、打倒三好の兵を挙げるよう命じた。これに呼応し、畠山高政は挙兵し、畠山軍は岸和田城を包囲した。これに対し、三好長慶は次弟の三好実休ら河内衆を筆頭に、淡路衆や阿波衆を加えた7000余の軍勢を、畠山軍に包囲される岸和田城へと差し向けた。三好実休は包囲される岸和田城から少し離れた久米田寺周辺に布陣し、貝吹山城に本陣を置いた。
そして3月5日、日付が変わったばかりの深夜に、畠山軍が魚鱗の陣を敷き、三好本陣へと攻撃を仕掛けた。
これを予想していた三好軍はすぐさま反撃を仕掛け、春木川で両軍は激突した。畠山軍10000の怒涛の攻勢に崩されながらも、善戦を繰り広げる。
不意をつく形で緒戦は優位に立っていた畠山軍だったが、やがて戦況が三好側に傾き始め、前衛の篠原長房によって第一陣の安見宗房は潰走寸前にまで追い込まれてしまった。そして勢いのままに遊佐信教率いる第二陣を切り崩すが、篠原長房は勢い余って本陣との距離を離し過ぎてしまう。その隙を狙い、湯川直光率いる第三陣は篠原勢の背後をつくように回り込もうと兵を動かした。
これに対応させようと、実休は本陣以外の兵力を篠原の前衛部隊の救援に差し向けた。これが大きな隙となり、総大将の実休の周辺が馬廻りや旗本のみの100騎程と守りが手薄になってしまったのである。
この手薄な本陣を狙い、畠山軍は一気に突撃した。実休は自らの武を以って奮戦を繰り広げるが、本陣背後から根来衆・根来右京に鉄砲で撃たれてしまう。
これが長慶の片腕にして次弟である、三好実休の最期であった。
「草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず」
三好実休は、父・元長の死後に三好家の人間が阿波へと逃れた際に、庇護した阿波守護の細川持隆を見姓寺で殺めたのである。これには複雑な事情があり、持隆は細川家の一門としての勢力の回復を目指していた。これが長慶ら三好家の障害となっており、衝突を引き起こすことになったのである。結果、実休には主家殺しという手段しか残されておらず、恩人を手にかける結果になってしまったのだ。
実休はこれを生涯気にかけ、後悔の念が晴れなかったことから、この辞世の句にて「報い」と表現したのである。
三好軍は大将を失ったことにより総崩れになり、岸和田城の三弟・安宅冬康もが城を捨てて淡路国に逃亡し、高屋城の城兵も城を捨てた。これによって畠山家は以前の所領であった高屋城を回復し、岸和田城の和泉国までも手にしたのである。
優れた弟を相次いで失った三好長慶は心の病を更に悪化させ、統治力を大きく損なうことになる。
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