近時丸の元服と婚姻同盟の締結

永禄5年1月1日。


この日の物生山城は大勢の人で溢れていた。理由は一つ。寺倉家の当主・寺倉蹊政の弟が元服と婚礼を迎えることになっているからだ。数え13ということで、この新年最初の日に元服の儀が行われることとなった。


寺倉家は26万石の大名となり、「近江三家」の一つとしての地位を確立している。そのため、周辺の大名や国人領主から多くの使者が集っており、それがこの喧騒を生んでいた。自ら登城する国人領主も多く、初めて登城した者の殆どが物生山城の大きさと美しさに見惚れていた。城下町の繁栄も同様である。


元服の儀は物生山城で最も大きい部屋である評定の間で行われた。俺が上座に座り、下座には身分の高い順に並んでいる。例に倣って理髪が行われ、近時丸が俺の前へと進み出た。


「うむ、立派になったな。近時丸、お主にはこの鳥帽子を授ける。これからは寺倉家の一門衆であるという自覚を持って励め」


「はっ。ありがたき幸せにございまする」


「お主には寺倉嵯治郎惟蹊これみちという名を授ける」


「謹んで頂戴致します」


俺は近時丸、否、嵯治郎に国友村で最も腕の良い技師に作らせた鉄砲を授けた。嵯治郎は以前より鉄砲に興味を示しており、3年ほど前から射撃訓練にもよく参加していた。飲み込みも非常に良く、寺倉家でも随一の腕前と言っても過言ではないほどにまで成長を遂げていた。将来は鉄砲隊を率いて貰いたいものである。


こうして元服の儀は終わり、続いて予定していた婚儀へと移ることになった。




◇◇◇




「嵯治郎、緊張するか?」


「い、いえ。そのようなことは」


竹中家との婚礼の時が近づくにつれ、嵯治郎は次第に顔を強張らせていく。虚勢を張っているが、どう見てもガチガチになっている。俺も市と結婚した時にはこんな感じだったのだろうか。信長に情けない姿を見せるわけにはいかない!と強がっていたのも覚えている。


「信じられないだろうが、俺だって市との婚儀ではお前以上に緊張していたんだぞ?」


「あ、兄上が?」


期待通り、嵯治郎は信じられないという表情をする。俺は弟や妹の前では毅然とした態度を貫いており、一度として弱みを見せたことなどない。弟や妹を不安にさせない、それが兄としての役目だと思っているからだ。兄は心細くとも強がらなければならないと、俺は肝に刻銘している。


俺は父上が討たれたと聞いた時、心に穴が空くほどの虚無感に襲われ、周囲を憚る事なく大泣きした。しかし、弟と妹の前では涙を流すことはなかった。近時丸と阿幸が泣き続けるのを見つめていたことで涙腺が崩壊しかけていたが、それでもなんとか堪えたのだ。


「市なんて不安すぎて逃げ出してしまったくらいなのだからな」


わっはっは!とその場を和ませるように大きく笑う。


「も、もう!正吉郎さまはいじわるです!」


市は顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。機嫌を損ねてしまったか?


だが、嵯治郎の緊張は幾分解れたようで一安心だ。


竹中家の志波姫は、元服を済ませた後暫く経ってから物生山城へと登城した。俺の時と似ているが、そこに至るまでに大きな違いがある。明らかに規模が違うのだ。西美濃の国人とはいえ、「近江三家」と呼ばれ、近江では名を挙げつつあった大名家の婚儀だ。大名家の次男が婚儀を挙げるとなれば、生半可なものであってはならない。


婚儀には浅井長政と蒲生忠秀、今川氏真、そして織田信長に加えて長尾景虎が使者を遣わし、祝いの言葉と品を頂戴した。


婚儀は二日間に渡り、つつがなく進行する。俺は充実した時を過ごした。嵯治郎も最初の蒼白な表情はどこへやら、満面の笑みを溢し穏和な空気の中心となっていた。




◇◇◇





「半兵衛、昨年は予想通り一色義龍が病死して龍興が後を継いだが、森部の戦いでは何とか織田軍を退けたようだな」


正吉郎は宴で盛り上がる評定の間から半兵衛を自室に呼び、志能便に周辺の人払いと監視を命じた上で今後の戦略方針についての重要な会談を始めた。


「しかし此度の戦で一色は宿老2人を討ち取られた。だから実際は敗戦と言っても過言ではないだろう。織田も1000の兵しか出しておらず、初めから一色の戦力を削るのが目的だったのは明らかであった。実際には織田の戦略的勝利と言わざるを得ないな」


正吉郎は小さく二度頷く。


「そうだな、その点は俺も同感だ。ただ、織田家は夏以降は三州錯乱の東三河にかかりきりで、今年は群雄割拠となった遠江を狙う可能性が高いから、しばらくは美濃に手を出す暇はないだろう。そうなると、暗愚な龍興は脆弱な政権基盤を固めるため、家中に武威を誇示して森部の敗戦を挽回しようと考え、今年の田植え後にでも西美濃か北近江を狙って戦に打って出るはずだ」


織田は三州錯乱の東三河に手を出しており、北の美濃に狙う余裕はない。そして遠江は今川の支配から脱却し、国人領主の群雄割拠の状態が続いている。美濃を攻めるよりもこちらを最優先にすることは間違いない。武田が手を出してくることになれば尚更美濃に手を出す余裕はなくなる。


「ああ、まず間違いないだろう。既に西美濃勢は政治から遠ざけられ、特に寺倉家と婚姻同盟を結んだ我が竹中は龍興や斎藤飛騨守に目の敵にされているからな」


半兵衛は少し遠い目を見せる。いくら暗愚な国主とはいえ、美濃の斎藤・一色に仕えてきた身としては後ろめたい気持ちもあるのだ。


「やはりそうか。だが、仮に一色が西美濃を攻めるとなると、寺倉も後方から西美濃を支援して長期の内乱状態になり、寝た子の織田家の介入を招きかねない。そう考えると、必然的に一色の攻撃目標は我が寺倉となり、侵攻経路も竹中領を通過する東山道ではなく、養老から五僧峠を越えて侵攻してくるのは間違いないだろう」


織田に美濃に手を出す余裕がないと言っても、内乱となれば話は別である。むしろ好機と捉えて遠江よりも優先して攻め込んでくる可能性も低くはない。一色は一応建前上では臣従している西美濃に攻撃を加えるよりも、領土を接する敵国の寺倉を狙う方がリスクは低い。となると反乱の可能性がないとは言い切れない西美濃の領地を通り抜けるのは危険が孕んでくるため、侵入経路も養老から五僧峠を越えるルート以外にない。五僧峠を越えればすなわち沼上である。


「そうだな。その場合の一色軍だが、西美濃勢は裏切るかもしれないとの不安から、おそらく参陣の命令はなく、龍興に従う中美濃勢と東美濃勢だけの軍勢になるだろうな。そうなると山道では大軍の行軍は不向きだと考えると、兵数は精々2500から3000ほどだろう」


半兵衛も正吉郎の考えに賛意を示し、その内容に鋭く斬り込む。龍興ら中美濃・東美濃衆は西美濃衆を敵視しているのだから、当然その不満があることも理解している。そのため西美濃衆の兵を参陣させることは考えにくい。山道が大軍の行軍には不向きであることを考えれば、半兵衛の予想は非常に的を射ている。


「うむ。さすが半兵衛の読みは鋭いな。実は俺は既に五僧峠で策を用いて一色軍を撃退するための準備を進めている。上手く策が嵌れば一色軍を壊滅させて、撃退できると考えている」


「なんと! そんな策が可能なのか!? どんな策なのか興味津々ではあるが、今は尋ねるのは止めて、戦勝後の宴で聞くのを楽しみにしよう。だが、正吉郎の策が成功して龍興ら一色軍の生き残りが五僧峠から退却してきたら、龍興を討ち取る千載一遇の好機だな」


半兵衛は大きく目を見開いた。撃退方法まで考えて既に準備を進めているとは、と驚きを隠せなかったからである。


「そのとおりだ。だが、一色龍興を討ち取るだけでなく、その機を逃さずさらには一色派の中美濃勢と東美濃勢を下して、西美濃勢で美濃を奪い取るべきだ」


正吉郎は一色軍を撃退した後の美濃国盗りの話に話題を移した。


(まさか美濃国盗りの話になるとは……。だが、正吉郎の言うとおりこの機を逃せば、西美濃勢は一色に磨り潰されるのを待つだけだろう。ここは正吉郎の案に乗るべきだな)


半兵衛は相槌を打ちながら答えた。


「ふむ、『座して死を待つよりは、出でて活路を見出さん』か。失敗すれば御家断絶ではあるが、動かずとも一色に滅ぼされるのは時間の問題だろうな。ならば、ここは御家存続を懸けて美濃を奪う覚悟を決めるしかあるまいな」


諸葛孔明の名言だ。後世で「今孔明」と呼ばれる天才軍師らしい言葉である。


「我が寺倉は昨年末の若狭侵攻の結果、浅井家から坂田郡北部を得て26万石の領地となり、兵は6500の動員が可能だ。寺倉は竹中家との相互軍事支援の盟約に従い、背後を脅かされる心配はないため全力で西美濃勢を支援する用意がある。もちろん相応の報酬を求めることにはなるが、如何するか?」


「6500の兵力は心強いな。その申し出、ありがたく受けたいのだが、報酬はいかほどを用意すればいいのか?」


「美濃は58万石もの石高があり、織田と武田に両属する恵那郡の遠山氏には手出ししないとしても54万石にはなる。もし西美濃勢が美濃国を奪った暁には、寺倉は援軍の報酬として、その3分の1に相当する揖斐川以西の西美濃18万石の割譲を求めたい」


「寺倉領の位置からすれば西美濃の割譲は尤もな要求ではあるが、そうなると西美濃勢に領地替えを強いることになるな。我が竹中はいいとしても、はたして義父殿を始め西美濃勢が応じるかどうか……」


西美濃は西美濃三人衆と竹中家ら国人領主の本拠であり、父祖伝来の領地をそう易々と手放せるものではない。しかし今回の場合、美濃の国を乗っ取ることになるのだ。


「半兵衛。最も大事なことを忘れてはいないか? 美濃国を奪った暁には半兵衛が美濃国の大名となるのだ。俺が半兵衛の後ろ盾となれば、西美濃勢の反対は抑えられるだろう。そして、美濃国主として戦後の論功行賞にて西美濃勢に加増と併せて領地替えを命じれば、西美濃の割譲も上手くいくはずだ」


半兵衛が国主。身の丈に合っていないと感じたのか、普段の半兵衛からはあまり見られない動揺ぶりで目を泳がせる。


「……無理だ。私に国主など務まるはずがない」


半兵衛は伏し目がちにそう告げた。そんな弱気な半兵衛に、正吉郎は強く言葉をかける。


「今の美濃の国主はあの暗愚な龍興なのだぞ。このまま龍興や佞臣どもに美濃の政治を好き勝手にさせておいていいのか?美濃の民の幸せのためと思えば、垂井で善政を敷く半兵衛こそが国主になって美濃を治めるべきだと思わないのか?」


正吉郎の目は真剣そのものであった。そんな正吉郎に諭された半兵衛は、暫く目を瞑った後、正吉郎の目をしっかりと見据えて言葉を紡いだ。


「……分かった。美濃の民のため、私が美濃の国主となろう。そして国主として美濃の民に安寧を与えると誓う」


宴で騒がしい評定の間からは考えられないほどの静謐な空気が包む中、半兵衛は普段とは違う強い口調で固い決意を告げると、二人は美濃国盗りの具体的な策について夜遅くまで話し合いを続けたのであった。

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