若州騒乱⑤若狭武田家滅亡
12月14日。
浅井・寺倉連合軍は、朝倉軍を壊滅させてから遠敷郡の小浜に西進し、若狭守護・武田義統の居城である後瀬山城を包囲した。
反乱が起こる前の武田軍の兵数は1000。逸見も1000ということもあり、朝倉軍の援軍により戦況は大きく武田に傾き、内乱を鎮圧できるはずだった。
だが、逸見軍との数度の戦により兵を減らして籠城していた武田義統は、後瀬山城を取り囲む10倍以上の兵を見て、血の気が引いた顔色は青白くなっていた。
「な、なんなのだ。浅井と寺倉がなぜ攻め寄せてくる」
「朝倉がこちらへ援軍を差し向けた時、すぐに出陣し敦賀を制圧したようにございます。長くこの機会を伺っていたのでしょうな。そうでなければ1万もの大軍でここまで迅速な進軍は不可能でございます。それとも、かなり前から計画を練っていた、ということも」
義統の弟である武田信方が冷静に述べる。この信方は、病没した叔父・武田信高の養子となって後を継ぎ、新保山城主となって若狭武田家の軍事力を掌握している。
その腹黒さ故に信方派の勢力はそう強くなかった。史実においても1567年に企てた武田義統に対する謀反に、武田信方の家臣団が従わなかったために失敗に終わったほどである。
若狭は独立性の強い国人領主が多い。そのため若狭守護の若狭武田家自体の動員兵力は多くなく、それが逸見の反乱を引き起こす背景にもなっていた。
したがって、武田に味方して1万もの浅井・寺倉連合軍の進軍に横槍を入れようという国人領主が現れることは当然なく、ほぼ無傷のまま後瀬山城を取り囲んでいたのである。
連合軍の狙いもこの後瀬山城であり、途中の城を落とすことなく一直線に進んできた。
義統は消極的な態度を崩すことなく、きっぱりと籠城を決断していた。いつもは義統に反抗することも多い信方も、打って出るよりも籠城の方が少しは勝てる見込みはあるだろうという考えから、珍しく義統の決断に賛意を示していた。
夜になり、重たくどんよりとした空気に満ちていた後瀬山城に小さな希望が舞い降りた。
「申し上げます。浅井と寺倉に従軍している高島郡の国人領主・高島越中守殿が内応を申し出ております」
「高島七頭の高島越中守、か。まずは話を聞こう。お通ししろ」
「はっ」
義統の前で頭を垂れるのは、高島七頭の筆頭である高島越中守である。
「面をあげよ」
義統が精一杯の威厳の篭った声で短く告げる。その声に従い、高島越中守は顔を上げた。
「まず尋ねるが、なぜ兵力で圧倒的に劣る我らに寝返ろうと思ったのだ?」
「我らは浅井に加え、現在南近江の志賀郡に攻め入っている三好の圧力を恐れ、誠に不本意ながら浅井に臣従致し申した。しかし、浅井長政という男は、この戦で我らを捨て駒のように使おうとしておりまする」
「捨て駒、とは?」
「攻城戦で我ら高島七頭を最前線に置き、浅井本隊は殆ど動かないつもりでいるのでございます。他の六頭に言っても、我らは浅井家中で最も新参者の立場ゆえ功を挙げなければならず、文句など言ってはおられない、などと弱腰な態度ばかり示しておるのです」
長政は自軍の損耗を抑えるために、高島七頭を最前線に置き、功を競わせるつもりでいた。面従腹背の高島越中守はそれに不満を持ったというわけである。
「浅井の扱いの悪さに腹に据えかねたと、そういうことだな」
「はい、仰る通りにございまする」
「あいわかった。お主らの寝返りを受け入れよう」
高島越中守は自らの手勢300を率いて後瀬山城へと入城した。高島七頭、否、六頭は驚きを超えて呆れと怒りを露わにしていた。越中守がいなくなったことにより朽木元綱が高島六頭の筆頭となり、さらにその結束を強めていくことになる。
◇◇◇
翌12月15日朝。浅井軍、特に高島六頭を中心とした攻城戦が幕を開けた。この攻城戦は浅井軍主体で行われ、寺倉軍は後方支援を担当することになった。後瀬山城は山城であり、名実共に若狭国最大の城である。
逸見昌経の反乱により、一ヶ月近く変化のない停滞した戦続きの後の大軍相手の籠城戦で、武田軍の兵の士気は極めて低かった。
それとは対照的に浅井軍の先鋒部隊である高島六頭の兵の士気は異様なほど高く、我先に武功を挙げようと勢いよく城門を攻め立てていた。その勢いに引き摺られるように浅井本隊も一気呵成に続いていく。
兵力差は段違いとはいえ、それでも国内屈指の堅城である。攻略の糸口が掴めないまま時間だけが過ぎていく。しかし、高島六頭の筆頭となった朽木元綱の獅子奮迅の働きにより、ついに大手門が破られた。一気になだれ込む浅井軍によって恐慌状態に陥った武田軍は、戦意を著しく減退させ、這々の体で二の丸へと引いていく。
大手門を破られたことにより敗戦を悟って三の丸に留まった城兵も少なくなく、戦う意思を殆ど示すことなく武器を捨てて投降していった。そして二の丸も破られたことで、玉砕を覚悟した城兵がまとまって突撃してくる。そして狭い城内で乱戦に陥り、武田の城兵は命を散らしていった。
高島越中守は乱戦状態の城内で一人ポツンと佇んでいた。その顔はうつむき気味であったが、涙を目に浮かばせている。
馬に乗る朽木元綱は、ゆっくりと高島越中守に近づいていった。その歩みを遮る者はいない。
「無様だな、越中」
元綱は高島越中守のことを初めて「越中」と呼び捨てにした。
「ふん、浅井に尻尾を振った軟弱者には言われとうはないわ」
虚勢を張るとはこのことか。これが父の仇だと思うと元綱は虚しささえ感じてしまうほどだった。
「死ぬ前に言いたいことはそれだけか?」
「佐々木源氏の誇りにかけて貴様などに命乞いはせぬわ」
「そうか」
冷たくそう言い放った瞬間、恨みをその腕いっぱいに込め、刀を思い切り振り下ろした。
歯をくいしばっていた高島越中守の首から迸った血飛沫は大きく弧を描き、首は元綱を睨みつけた目をしたまま虚しく地面へと転がった。
元綱は涙を目に浮かべながら、越中守の遺体を見ることもなく、脇目も振らず本丸に向かって足を進めた。その時には既に大勢は決まっていたからである。
本丸にいた若狭武田家の当主・武田義統は斬首になり、一門衆も女を除き軒並み切腹が言い渡された。
ここに、若狭で栄華を極めた若狭武田家は滅亡したのである。
◇◇◇
長政は、逸見昌経に使者を送って武田義統を討ち取り浅井が三方郡と遠敷郡を制圧したことを伝えた。そして逸見の大飯郡には手出しをしないことを明言した。
大飯郡に攻め込まなかったのには、逸見が三好に臣従していたからという理由がある。大飯郡に侵攻すれば制圧自体は簡単だが、逸見を討つか追放してしまえば、三好が来年丹波や志賀郡から攻めてくる口実を与えてしまうことになるのだ。国力で三好に大きく劣る浅井と寺倉にとっては、それだけは絶対に避けなければならない。
その上丹後には一色家がいる。一色は若狭武田と若狭を巡って対立していたため、大飯郡を緩衝地帯として残しておき、三好との対立を避けて越前・朝倉と加賀一向一揆の攻略に戦力を集中させるべきだと俺が忠言すると、長政はすぐに俺の考えを理解し、支持してくれた。
そして、浅井・寺倉連合軍が若狭攻略に成功したことにより、戦前の約定通り寺倉は新たに坂田郡北部4万石を得た。国友村のある坂田郡の北部が手に入ったことは、鉄砲を重要視する寺倉家にとって非常に大きな利益だと言えるだろう。これで当分は東の一色への対応に注力できる。
朝倉義景は浅井が敦賀と小浜を掠め盗ったことに激怒し、すぐに出陣を決めたそうだが、運悪く大雪が降ってしまい、行軍が不可能になったために泣く泣く中止したらしい。こちらとしては大雪様様である。
長政は来年の春以降の朝倉軍の侵攻に備え、敦賀に戻って木ノ芽峠に防壁となる砦と関所の建設を命じた。来年中には若狭2郡の国人領主を服従させる計画だそうだ。沼上の堰建設の進捗はどうなっているだろうか。寺倉も一色との戦に備えなければならないな。
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