若州騒乱①

11月上旬。


逸見駿河守昌経が若狭国の西端、大飯郡の居城・砕導山さいちやま城でついに挙兵し、反乱を起こした。武田義統はかねてから反乱の噂のあった逸見の挙兵に対抗し兵を差し向けたが、勢力は拮抗して鎮圧できずに、内乱状態となった。


そして11月中旬、逸見と武田の内乱の戦況は膠着状態に陥った。武田は依然逸見の攻勢を止めることは出来ず、痺れを切らした武田義統は幕府に使者を送る。義統は朝倉に援軍の派遣を命じるように働きかけ、結果援軍の約束を取り付けることに成功した。


敦賀郡司を務める一門衆の景垙は朝倉義景の命令を受け、直ちに出陣の準備を始めた。志能便は逐一情報を集めており、正吉郎の耳には当然届いている。


正吉郎は若狭の内乱において、武田・逸見の双方ともかなりの打撃を受けると予想していた。若狭へと侵攻し、領土を掠め取ったところで対抗する力は残らず、それに、時期は冬が迫っており、越前では大雪の季節になり、越冬するまでは軍事行動が非常に困難になるはずだという読みをしていた。


この策略においては、朝倉義景が敦賀・金ヶ崎城城主の朝倉景垙にその援軍を率いるよう命じ、景垙が出陣した時が好機だ。侵攻が円滑になるよう、景垙の出陣と同時に浅井が出陣して寺倉との連携を促すため、正吉郎は光秀とともに小谷城へとやってきていた。


「朝倉景垙が出陣した時が好機、だと?何故そう言い切れるのだ、義兄殿」


「うむ、まずは朝倉義景は近江からの出兵など高を括って予想もしていない。この援軍にも相当腰が重く、幕府の要請だからと渋々了承したようだ。だから、朝倉が後詰めを送ることはないはずだ」


「ふむ、つまり左衛門督はこちらからの侵攻はないと侮っているのだな。なればこそその油断が隙となるというわけか」


朝倉義景は自分から攻めることはあっても、攻められることは考えていないのだという。素破は勿論、巷でもそのような楽観的な思考が目立つともっぱらの噂になっているそうだ。なんて自分本位な男だ、正吉郎はそう思わずにいられない。


「左様。朝倉景垙の背後を突いて敦賀を制圧し、その後に若狭に侵攻する。それが俺の考えた策だが、如何だろうか?」


「乗った。その策でいこう」


「援軍の報酬だが、坂田郡の北部を頂戴したい」


その要求を聞き、長政は眉根を寄せる。坂田郡の南半分と伊吹山の周辺は物生山会談で寺倉の所領となったが、北半分の4万石は浅井の領地のままであった。


しかし、若狭侵攻への援軍の報酬としては些か多すぎる。正吉郎の策略通り事が進んだとして、得られる所領の半分近くの石高に上る。普通ならば首を縦には振らない。


しかし長政には借りとも言えるものがあった。高島郡制圧の助言は正吉郎から提案されたもので、正吉郎の策が無ければ浅井は兵の命を無駄に多く散らしていたはずだ。それを避け、無傷での接収が叶ったのは正吉郎のお陰である事は間違いないことである。


長政はここで断った時の寺倉家と関係悪化を懸念する。比較的温厚な正吉郎のことだ。滅多なことにはならないはずだが、一方で坂田郡の北部は美濃の一色と国境を接している。東の敵が無くなるにも等しい状況が手に入るのなら、むしろ浅井にも利がある要求だ。北の朝倉を完全に敵に回す覚悟を決めた今、東の一色にまで目を向ける余裕などない。


「......了承した。それで手を打つことにしよう」


しばらく悩む様子を見せていた長政だったが、すぐに承諾の返事をする。正吉郎は後日改めて返事を文で送ってもらえれば良いと考えていたが、すぐに承諾を得られたことで、大きく目を見開いたまま驚いていた。


正吉郎としても、少し多すぎる要求だという思いは当然頭の中に存在していたし、断られても文句を言うつもりはない。しかし幸いなことに長政は快く了承してくれた。援軍を得ることによって東の脅威がなくなるのは大きいということだろうか。


「では、出陣までに準備を進めておいてくれ。よろしく頼むぞ」


「ああ、こちらこそよろしく頼む」


正吉郎はそう言うと漸く破顔した。大名家の当主同士の大事な取引だ。友人とはいえ公的な場である。絶対に甘い顔はできない。長政も話が終わり正吉郎の顔を見ると大きく息を吐いた。


話し合いが終わると、正吉郎は久しぶりに阿幸と再会し、浅井家でどんな生活を送っているのか、長政を交えて長々と語り合った。阿幸の笑顔を見る限り、長政とは仲睦まじく暮らしているようで、正吉郎は兄として安心した。この日はそのまま小谷城に泊まり、翌朝物生山城への帰途に着いたのであった。



◇◇◇


12月に入り、景垙は俺の予想通り居城の金ヶ崎城を出て、西進を始めた。それを志能便から聞き、寺倉家はついに若狭侵攻の兵を起こす。


11月になって志賀郡北部への侵攻を敢行していた三好軍の圧迫を受け、堅田より逃れてきた猪飼昇貞、居初又次郎ら堅田衆を11月末に受け入れた。この寺倉にやってきたのは元堅田衆の馬場孫次郎の存在があったからだろう。


琵琶湖の水運は予てからこの堅田衆が完全に握っており、時には湖賊として略奪を行うことも厭わない。寺倉は琵琶湖での安全を確保するために、棟梁の一人である馬場孫次郎を召抱えていたのである。


逃げてきた堅田衆により寺倉水軍は大きく強化され、性能の良い船も松原湊に多く停泊していた。


俺はそれを活かし、松原湊から琵琶湖の西岸の海津湊に兵員と兵糧を輸送して時間短縮を図る。寺倉軍は、速やかに湖を北上し、進軍ルートを大きく短縮することができた。


そして、朝倉軍の西進を聞いた浅井も同時に出陣する。小谷城を出た浅井軍は、木之本を左折して塩津街道を北上し、近江との国境を守る疋檀城の手前で寺倉軍と合流した。


合流した浅井・寺倉連合軍は瞬く間に疋檀城を落とし、一路金ヶ崎城へと兵を進めたのであった。

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