甲越同盟
9月も下旬に差し掛かろうという頃、越後国では残暑がすっかり遠のき、田んぼの黄色く染まった絨毯が秋の始まりを告げていた。
越後国の南方、頸城郡の南端、信濃国との国境近くに位置する鳥坂城の一室は、重々しい雰囲気に包まれていた。
この日、ここ烏坂城で上杉と武田の歴史に名を残す和睦交渉が執り行われようとしていた。武田は川中島での惨敗により多くの重臣や兵を失い、和睦の提案をせざるを得ない状況へと追い込まれていた。そのため、信玄は身を切る覚悟で上杉に和睦の交渉を持ち掛けたのである。
戦勝側である上杉の所領に赴いた武田の和睦交渉の使者は、とても敗軍の将とは思えない堂々とした振る舞いを見せていた。今回の戦は完全な上杉家の勝利。ここで弱みを見せないためにも、努めて武田の使者として相応しい佇まいを保っていた。緊張からか、その額からは一粒の汗が頰を伝っていたが、幸いなことに気付くものはいなかった。
その使者の名は秋山虎繁という。
言わずと知れた武田の名将であり、「武田二十四将」として「武田の猛牛」の渾名は甲斐、信濃の外にまで轟いていた。
そして、対する上杉の交渉担当は上杉政虎の腹心であり「越後の鍾馗」とも呼ばれる重臣・斎藤朝信であった。
両者は、偶然にも同い年の数え35歳である。
「では、これから和睦交渉を始める。秋山殿、まず初めに、此度の川中島での戦は上杉の勝利であり、武田の敗北であることはお認めになりまするな?」
和睦の提案を上杉に持ちかけ、こうして越後国まで使者を派遣したのだから、もう勝者と敗者の立場は明らかである。しかし、朝信は武田から「負け」という言葉を引き出すことで、講和を優位に進めようと画策していた。
虎繁は一度視線を落とし、周りに響かないほどのごく小さな音で歯ぎしりをした。結果は明らかとはいえ、口から負けを認める言葉を紡ぎ出すのは、どうしても憚られていた。
しかし自分は敗軍の将。負けは潔く認めなければならない。小さく息を吐いた後、虎繁は今一度朝信の目を見据えた。
「確かに此度の戦は我ら武田の勝ちとは到底言えませぬな」
口から出てきたのは負けを認めるに等しい言葉であった。しかし朝信はもう一息、というように虎繁を追い詰める。
「では、武田の負けを認めるのですな?」
「......左様でございますな」
かなり間を空けた後、逃れられないと悟った虎繁は渋々認めることになった。
「では秋山殿、戦に敗れた武田としては、どういう和睦の条件を望まれるのかご提示していただきたい」
主導権は完全に朝信へと移り、優位な立場から虎繁に尋ねた。
「我らが望むのは、犀川を境に南を武田、北を上杉とする和睦案でござる……」
虎繁は他の重臣らと決めた犀川までを上杉に突きつけるつもりでいた。しかし当初考えていた状況とは程遠く、公然と負けを認めて完全に主導権を握られた手前、横柄に自らの提案を推し出すことはできなかった。
その提案に対し、朝信はフッと鼻で笑った。
虎繁は歳を同じくする目の前の男の態度に一瞬ムッとしたものの、敗軍の将だという立場を自らに言い聞かせ、その苛立ちを収める。
「それでは戦の前とほとんど変わらず、話になりませんな。まさか、そんな条件を上杉が飲むとでもお思いか?」
その言葉には嘲謔が色濃く込められていた。一方的に交渉を断ち切られかねない様相を肌に感じた虎繁は、焦った様子で言葉を紡ぎ出す。
「む、無論、無理でござろうな。ならば上杉の要求はいかがでござるか?」
ここで万が一にも交渉を決裂させるわけにはいかないと、虎繁は苦し紛れというように朝信に問い返した。
「御実城様が望んでおられるのは北信濃の平穏、安寧でございまする。すなわち、我らはかつて村上家と高梨家が有していた佐久郡・小県郡・更級郡・埴科郡・水内郡・高井郡の返還を要求致す」
正直、これは武田にとって大きな損を被る内容であった。流石に予想の範囲外であった佐久郡を要求され、虎繁も言葉が詰まる。
佐久郡まで寄こせという要求にはさすがに応じる訳にはいかない。そう考えた虎繁は、途切れ途切れにこう告げた。
「そ、それは幾ら何でもいささか欲深ではございませぬか? 佐久郡は川中島の戦いの以前に武田が獲得した領地にございますれば、それだけは譲る訳には参りませぬ」
この言葉に、朝信は口角を上げた。その瞬間虎繁は察する。
ーーしまった。
そう声を上げたくなったが、辛うじて動揺を声に出すことを抑え込む。
そして、朝信の口から出てきた言葉によって、虎繁の嫌な予感は的中する。
「では、佐久郡以外ならば返還に応じられるのですな」
最初からこれを狙っていたに違いない。虎繁はそう直感した。山本勘助殿が存命ならば、もっとうまく立ち回れたのだろうか。虎繁は遠い目をしながらそう考えてしまった。
しかし今ここにいるのは自分。御屋形様に選ばれてここにいるのだ。これ以上の失態を犯すわけにはいかない。虎繁は気持ちを切り替えて、今一度しっかり朝信の両目を見つめながら言った。
「更級郡と埴科郡、水内郡、高井郡はともかくも、小県郡まで返還するには一つだけ条件がございまする」
小県郡まで返還されそうな状況に内心で喜びかけていた朝信は一瞬眉を顰めたが、すぐに表情を元に戻して聞き返す。
「ほう。その条件とやらをお伺いしましょうか」
「御屋形様は今後は北信濃に侵攻する意志はなく、上杉家とは同盟を結んで後顧の憂いを失くしたいとのお考えにございますれば、まずは今後十年間の信濃での不戦と不可侵を約したいとのことにございまする」
武田の一番の目的はこの同盟締結であった。理由は今の武田に上杉と渡り合う力は残っていないことと、信玄が弱体化しつつある駿河の今川に目をつけたことである。
上杉の介入を必ず招くことになる北信濃の制圧に精を出すよりも、衰退する今川を攻めて海のある駿河を奪った方が何倍も有益だ。
信玄はその利のためならば同盟を破ることも厭わない。今川は同盟国である甲斐の武田のそんな思惑に気づくことはなかった。
この提案は朝信にとっても全くの予想外であり、すぐに目を丸くした。宿敵ともいえる相手であった武田が、今上杉と手を組もうと言い出したのである。驚かないわけが無い。
「いやはや、これは参りましたな。これまで幾度も戦ってきた宿敵の武田家と同盟でござるか。さすがに某の一存では決められませぬ故、一旦は御実城様にお伺いせねばお答えいたしかねまするな」
流石に朝信も小さな動揺を顔に滲ませていた。その表情を見て、虎繁は初めて優越感に浸る。一矢報いた、とでもいうのだろうか。
「無論、それで構いませぬ。返事をいただくまで何日でも待たせていただく所存にございまする」
完全に気を良くした虎繁は、来た時と同じように堂々とした足取りで部屋を去っていった。
◇◇◇
史実よりも18年早い甲越同盟の締結。宿敵同士の同盟の報は、瞬く間に戦乱の世を駆け抜けた。
内容としては北信濃の小県郡・更級郡・埴科郡・水内郡・高井郡を返還する条件での和睦と、今後十年間の信濃国内での不戦と不可侵を約したものである。
これが歴史に大きな影響を与えることになるのは、勿論言うまでもない。
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