第四次川中島の戦い②

日が昇ってからしばらく、川中島は数メートル先がギリギリ見える程度の濃い朝霧に覆われていた。


濃霧の所為で、武田の陣がどこにあるのかは当然窺い知ることはできない。しかし、上杉政虎だけは信玄のいる場所が手に取るように分かっていた。政虎は静かに確実に武田本陣に対し車懸かりの陣で距離を詰めていった。



「濃い霧だな。これでは動こうにも動けぬ」


信玄は用心深い故、濃い霧に覆われているこの状況で、下手に動こうとはしなかった。それも政虎の考えの内であり、上杉の本陣は霧のために行動を制限している武田の陣のほど近くに構えていた。


「もうじき風が吹きましょう。そうなれば直ぐに視界は開けるでしょうな」


霧が晴れたのは、辺りが完全に明るくなった、午前八時頃だった。そして霧が風によって流されるのを、信玄は視線を動かすことなくジッと睨みつけていた。


そんな時、伝令兵が慌てた様子で信玄の本陣へとやってきた。その額からは大粒の汗が流れ、顔色は青白く染まっていた。その顔を見ると、信玄はすぐに眉を顰めた。


「どうした」


「も、申し上げます!上杉本隊、我らが武田本隊へと一直線に向かっております!」


「何?! 高坂弾正や馬場民部はどうしておる!」


「存じませぬが、奇襲に失敗したと考えられます。兎も角、上杉は今猪突猛進の勢いでこちらへと迫っております!御屋形様、下知を!」


信玄の声に応えたのは、重臣・飯富昌景であった。そして時は一刻を争うこの時、信玄以上に冷静な状況判断を行い、命令を迫る。


「くっ。政虎め、我らを謀ったな!全兵力を持って応戦せよ!今、高坂弾正らの軍が此方へと向かっているはずだ。鶴翼の陣を以って応戦せよ!今は耐えよ、耐え抜くのだ!」


信玄も驚きは持ちつつも、極めて冷静に決断を下した。普段は用心深い信玄だが、早急な判断が求められる戦での指揮能力は、まさに天賦の才とも言える。


「はっ!」


昌景はそんな信玄を畏怖と尊敬の籠った目つきで見据えながら、短くも力強い返事をした。


昌景は直ぐ様諸将へと信玄の命を伝え、その下知を伝え聞いた諸将は応戦するよう兵たちに指示を行う。


しかし、いるはずのない上杉軍がいきなり目の前に現れたことは、兵を混乱の渦に巻き込むのに十分なものであった。冷静に指示を送る諸将とは真逆に、兵は上杉の攻勢に対し大きく押されていた。


両者がこの川中島に集結した時には、武田が2万、上杉が12000と兵数の上では圧倒的に勝っていた。しかし、今この八幡原では武田本陣は8000しかなく、その形勢は完全に逆転することになる。信玄はその聡明さ故に警戒しすぎた。それが仇となったのである。


最初は劣勢を強いられていたものの、流石は信玄である。怒号を振りまき混乱をある程度まで鎮めると、なんとか陣形を立て直して鶴翼の陣を敷いた。そこからは壮絶な消耗戦であった。両者ともに瞬く間に兵を減らしていく。正面から大軍が交わる戦場は、血みどろの阿鼻叫喚の様相を呈していた。


「高坂弾正はまだか!」


このまま正面から戦っていても埒が明かない。無駄に兵を減らすだけであった。信玄は高坂昌信が率いる別働隊がやってくるまでの辛抱だと諸将に言い聞かせており、それが武田方が潰走に陥らなかった心の支えでもあった。


しかし、別働隊の姿はいつまで経っても見えない。兵の数で劣る武田軍は徐々に押し返されていく。


その時であった。


「て、敵の援軍が北から此方へと向かっております!その数、5000!」


「......なに?」


信玄は驚愕の表情を隠すことができなかった。まさか政虎は最初からこれを狙っていたというのだろうか。信玄はそう思わずにはいられなかった。それと同時にギリギリと歯噛みし、政虎の掌で転がされていた自分に怒りを感じていた。


そして悪い報せは続いてやってくるものである。


「武田左馬助様、諸角豊後守様。山本勘助様が敵方の攻撃により討ち死になされました!!!」


「なんだと!!典厩が?!」


武田信繁は信玄が最も可愛がっていた知勇兼備の弟であり、自身の右腕とも言うべき副将の訃報を聞いた信玄は、不幸中の幸いとでも言うべきか、それまで自分への怒りで血が上っていた頭に冷や水を浴びせられたかのように瞬時に冷静となった。


信玄の弟である武田信繁、そして譜代家臣の諸角虎定ら重臣が次々と命を落としていった。これ以上重臣を失えば兵は戦意を喪失し、雪崩を打って潰走してしまう。


信玄はすぐさま苦渋の決断を下した。


「一時退却だ!引けーーーー!!!」


信玄の声に従い、劣勢に陥っていた武田軍は、退却を始めた。しかし善光寺から南進してこの川中島まで兵を進めていた5000の兵が直ぐそこまで迫ってきており、潰走寸前で行軍が非常に遅かった武田軍はまんまと本隊との挟撃を食らう形になってしまう。5000の兵に横槍を入れられたことで、譜代家老衆の浅利信種や元は村上家家臣だったものの、信玄から偏諱を受けた室賀信俊などが相次いで討ち死にしてしまう。二倍の兵数差に加え挟撃を受ける凄惨な状況に、もはや勝負は決したかのように見えた。


しかし信玄は諦めることがなかった。自ら軍を率いて兵を鼓舞し、ギリギリまで潰走を阻止していた。戦意を半ば喪失しかけていた兵たちも、その覇気に釣られるように勇猛に戦いながら退却していくが、多勢に無勢の退却戦で徐々にその命を散らしていく。そしてその時、彼らの不撓不屈の精神に応えるように、ついに味方の援軍が姿を現した。


甘粕景持の殿部隊を打ち破った、高坂昌信率いる妻女山別働隊12000がようやく駆けつけたのである。


その待ちに待った到着に武田軍は沸いた。高坂昌信隊は勢いのまま、上杉本隊の横腹を突いた。これには完全に優勢だった上杉本隊もさすがに混乱に陥り、優勢が一転して防戦一方な状況に立たされてしまった。


「これ以上の戦はもはや無用、直ぐに退却だ!!!」


後少しのところで信玄を討ち取ることも可能かと思われたが、政虎の判断は非常に早く、戦況が劣勢に立たされたと見るや否や、直ぐに退却を決断した。


両軍は激しい戦いを繰り広げたものの、武田の被害の方が圧倒的に多かった。政虎は敵の別働隊が到着して兵力差の優位がなくなった以上、これ以上戦っても無駄に兵の命を散らすだけだと判断し、退却を決めたのである。


兵力的にはまだ互角であったにも関わらず、あっさりと引いた上杉本隊に対し武田は追撃を加えようとするものの、勝ち戦だと確信していた上杉の行軍は予想を遥かに超える速さであり、殆ど被害を与えられずに退却を許してしまった。


こうして、第四次川中島の戦いは上杉軍の大勝利で終わった。


史実よりも武田の被害は甚大で、上杉の被害が約500と比較的軽微であったのに対し、武田の被害は4000に達するかというほどの惨敗であった。それに加えて多くの重臣を失った。大敗北の結果に終わった武田は、その力を大きく削がれてしまうことになる。


武田にはもはやこれ以上北信濃への侵攻をする力はないだろう。そう考えた政虎は、武田からの和睦交渉の申し入れに応じることを決めたのであった。






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