三州錯乱・遠州忩劇

桶狭間の戦いで今川家は多くの重臣、国人を失った。一向に義元の仇を取ろうと打って出ない氏真に、東三河と遠江の国人衆は不満を募らせていた。


東三河の国人は義元の尾張侵攻に動員されており、敗戦による犠牲は大きな痛手となっていた。


西三河までを手中に収めていた織田信長も、一層東三河への圧力を強めている。このままでは反乱が起きてしまう。そう危惧した氏真は、朝廷に仲介を頼み、織田家との和解を画策したものの、織田は取り合おうとしなかった。


氏真は強硬派の重臣の提案で、東三河の国人に新たな人質を差し出すよう命じた。苦渋の決断であったが、この仕置きが今川家をさらに追い詰めることになる。


桶狭間での敗戦で影響力を大きく削がれた今川家は、東三河の支持を得られなかった。義元の仇討ちに出ようともせず、ただ時の流れに身を任せんばかりの氏真の弱腰な政策に見限った国人領主が次々と離反を仄めかすようになっていた。だがこれも信長の狙いであった。信長は東三河の国人衆に調略を掛け、反乱の動きを見せるよう命じた。


つまり、東三河はもうほとんど織田の支配下に入っていたのだ。国人に今川家からの完全な離反をさせなかったのは、織田が美濃を見据えていたからである。意図的に混乱を起こすことにより、織田の北に対する動きに目を向ける余裕がなくなる。信長は森部の戦いの際には用心深く兵を残したが、狙い通り氏真が隙をついて西三河に侵攻する余裕はなかった。


氏真は東三河の国人を引き止めるため書状を送り必死に呼び止めたが、それが東三河の面々の心に届くことはなかった。加えて新たな人質の要求だ。7月下旬、これによって堪忍袋の尾が切れた東三河の国人は、牧野成定以外全てが挙って織田側へと寝返った。


この混乱を収めようと、氏真本人が出陣する。東三河において今川軍に与することになったのは三河牧野家だけであった。


牧野成定は他の国人が軒並み織田方へと寝返る中、今川氏への従属を強め、居城の牛久保城に今川軍の駐留を認めたり、吉田城の今川軍に対しても兵糧を始めとした物資を提供したり、自ら今川軍の先鋒を務めたりするなど、今川家に献身的に尽くした。


東三河への対応に手一杯な今川軍に、これを好機と見た信長が西三河の国人に、東三河で抵抗する今川軍を攻め立てるよう命じた。これによって最初は薄氷の勝利を重ねていた今川軍は一気に形勢を逆転され、逆に敗戦を重ねていくことになる。徐々に追い込まれていった今川軍は吉田城への籠城を決意した。


しかし、これを契機に辛うじて影響力を保っていた遠江にまで混乱が波及する。東三河を鎮圧できなかった今川軍はさらにその力を失うこととなり、西遠江の国人の大半が離反する事態を招いてしまった。


氏真は歯噛みしながら吉田城の籠城を諦める決断をし、東三河を捨て西遠江の鎮圧に向けて兵を率いた。


そして氏真は西遠江の国人に対し奮闘するものの、反乱を鎮めることに再び失敗した。これによって東遠江にも余波が及び、遠江のほぼ全域において離反が相次ぐこととなった。結果、氏真は駿河への退却を余儀なくされてしまった。


今川氏真はこの「三州錯乱・遠州忩劇」の鎮圧に失敗し、今川家の領土は実質駿河国だけになり、更なる衰退を迎えることになったのであった。



◇◇◇



「今川治部大輔様は、東三河・遠江で起きた反乱を鎮圧できず、三河・遠江への影響力を失い領国が駿河一国になってしまったとのことにございます」


「……そうか」


八月中旬、光秀からの報告に俺は肩を落とした。同盟国である織田の力が強まったことには喜ぶべきなのかもしれないが、個人的に強い友誼を持つ氏真の領土がこうして衰退していくのは心苦しく、俺の心は複雑な感情が渦巻いていた。


今川家の凋落。六角に続いて次々と名門の家柄が滅びゆくことに、世間は驚きに包まれていた。


東三河は完全に織田の支配下となり、遠江は群雄割拠の混沌とした状況に陥った。とはいえ、織田がこの遠江を接収するのはそう遠くないかもしれない。


「今川の力が大きく失われている今、武田が攻め込んでくるやもしれぬ」


「お言葉ですが、今川は武田、北条と三国同盟を結んでおります。武田が今川に攻め込むとなれば北条が黙ってはいないでしょう。武田もそれは望んでいないのではありませぬか?」


「いや、武田信玄はそんな甘い男ではない。力が急速に衰退しつつある今川を攻め込むことになんの躊躇いも見せぬはずだ。たとえそれが北条を敵に回すことになろうともな」


俺は虚空を睨みつけながら、力強く告げた。


「……」


光秀は眉を顰めながら黙り込んだ。俺はその様子を一瞥して続ける。


「だが、まだ武田が三国同盟を崩すことはないだろう。北に上杉という宿敵がいるからな。相手が衰退した今川とはいえ背後に敵を持つのは好ましくない。この同盟を利用すれば上杉と真っ向からぶつかることができる。上杉との抗争が終わった時、それが三国同盟の破局だ」


光秀の言う通り、今川に攻め込むとなれば必ず北条が味方につくだろう。信玄は同盟をすぐ破る人間だ。衰退した今川を狙うのは間違いない。だが今は背後に上杉がいる。今川を攻めることで背後を狙われるだろう。それは信玄は望んでいないはずだ。


三国同盟はまだ利用する価値がある。信玄自身よく分かっているだろう。


「なるほど。今はまだ、ということですな」


「ああ。だが彦五郎殿には北の武田には気をつけるよう書状を書くから送ってほしい。よろしく頼む」


「はっ」


光秀が退出していった後、先ほどまでその姿があった場所を見つめる。


信長は今川と敵対することになったが、心のどこかで「寺倉と今川は友好関係を持っている」という事実が頭をチラついているという微かな願いがあった。


今川は朝廷の仲介により織田との同盟を画策したらしい。史実とは違い、今川が織田と和解し手を取り合えればなどという甘い考えがあったのは事実だ。戦国はそう甘くない。攻め込まねば攻められるのだ。


仲良く手を取るなど、そんな甘い状況はそうやってこない。信長は俺の言葉通り今川が攻め込まない限りは今川に手を出さないと約束してくれた。先に手を出したのは今川だ。織田がこれを討ち滅ぼすことに文句など言えるはずもない。


将来の徳川となる松平が滅びたこと。これが今川が利を得る部分だと思っていた。信長にも市を通じて助言するような真似をした。


しかしその行動が結果的に今川の史実よりも早い衰退を招いたのだとすると、悔やんでも悔みきれない。


もし武田が敵対してくることになったら今川には最大限の助力をしよう。


おそらくこの8月、第四次川中島の戦いが勃発するのだが、これは上杉と武田の最大の戦だ。史実における五度の戦で、最も大規模だったと言われる戦いである。


政虎とは個人的な繋がりもある。ここは上杉に加担させてもらおう。


ーーこの8月中旬。上杉と武田の両大軍は川中島にて激突したのであった。





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