森部の戦い
6月末、一色義龍が病によって亡くなり、まだ若年の嫡男・龍興が家督を継いだことで家臣団に動揺が走り、美濃は一時不安定な状況に陥った。これを好機と見た尾張の織田信長が、義龍の死の僅か2日後、疾風迅雷のごとく迅速な挙兵で美濃侵攻を開始した。
その数1000余。美濃を制圧するには些か少ないと言わざるを得ない兵力であったが、この時織田家は今川家と国境を接しており、東にも細心の注意を払う必要があった。美濃攻めに兵力を割いてしまえば、当然東の守りは薄くなる。
今川家に織田へと攻め込む余裕はないものの、油断は自らの首を絞めることになる。信長はそれをよく分かっていたのだ。
織田軍は木曽・長良川を越え勝村に布陣し、龍興の動きを伺った。龍興はこれにすぐさま兵を挙げる。その数6000と、約六倍の兵力差だった。だがこの日は雨。信長はこれを天が与えた好機と捉え、織田軍は本郷村より長良川下流の楡俣川を渡って森部村に進出した。
対する一色軍は斎藤六宿老の二人、長井甲斐守と日比野下野守清実を大将とし、墨俣より出撃する。両軍は森部にて激突した。
織田軍は一色軍が六倍という大軍を率いていたこともあり、一計を案じて敵にさらなるを油断を促す為に兵を丸く集め、さらに軍勢を少なく見せる密集隊形を取った。これに対し一色軍はまんまと油断し、二手に分かれ、水田と沼が目前にあることを気にも留めず一目散に突撃を敢行した。
信長は猪突猛進に水田を進む一色軍に対し、一気に隊形を崩して三方向から挟撃するような形で攻勢をかけた。
雨で水量がカサ増しされていることもあり、足を取られ動きが鈍ったことで後退することもできず、水田を進んできたことで疲労困憊になっており、突然挟み込まれるような形になった一色軍は次々に崩れていった。
とはいえ一色は六倍の兵力。虚を突かれ挟撃される形となったものの、数の力で対抗しなんとか潰走を阻止していた。
数時間乱戦となり、均衡状態が続いていた戦場だったが、長井甲斐守が服部平左衛門に、日比野下野守が恒河久蔵に討ち取られたことで、兵の多くが戦意を喪失した。しかし、数で優っている一色軍は這々の体になりながらも織田軍を退却させるまでに追い込んだ。
六宿老の二人を失い、他重臣を失いながらも、織田軍の侵攻を辛うじて阻止することができ、結果としては一色軍の勝利に終わった。
しかしこれが美濃の崩壊を加速させることとなる。家中で強い権力を持っていた長井甲斐守と日比野下野守が討ち死にしたことで、龍興が重用していた斎藤飛騨守など一部の重臣による傀儡政治が蔓延り、龍興は家臣や国人の信望を得られず、美濃はさらなる混乱を極めることになったのであった。
◇◇◇
「正吉郎様、織田上総介殿様が挙兵し美濃へと兵を進めましたが、侵攻は失敗したようにございます」
梅雨が明けた7月中旬、光秀は「森部の戦い」の結果を俺に伝えていた。
「ふむ、そうか」
俺は相槌を打つ。結果としては驚くべきことではない。史実でも侵攻自体は失敗している。
「しかし、6000の一色軍に対し織田軍は1000余で、一色軍に対しては大打撃を与え、織田軍の損害は極めて軽微だったとのことです。重臣の長井甲斐守殿と日比野下野守殿を討ち取ったようにございます」
六倍の兵力差で圧倒的な不利での戦において、敵の重臣を二人討ち取り、失った兵もそう多くないという結果に、信長の恐ろしさを改めて感じた。敵としては誰よりも手強く、味方だとなんと頼もしいものか。俺はそれを実感していた。
失敗とはいうものの、ほとんど勝利に近いものであった。美濃はこれで力を大きく削がれたことだろう。だが今川の存在もあるから、これ以上の行動は厳しい。信長は来年の前半は身動きが取れなくなるはずだ。
そうなると、一色龍興が目を向けるのは西美濃、及び寺倉領だろう。同盟を組んでいた六角を滅ぼした一因である寺倉、その寺倉と婚姻同盟を結んだ竹中は目の敵にされている。そして竹中と婚姻関係を結んでいる安藤に加え、西美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家直元は、寺倉と直接関係はないものの美濃の政治から遠ざけられている。西美濃と中美濃・東美濃の確執は日に日に深まっている。
「来年の田植え後に一色は寺倉を攻めてくる」
「は?」
光秀は矢庭に呟いた俺に対し、怪訝そうな表情を浮かべた。断定するような言い方が引っかかったのだろうか。俺の言葉の意図がいまいち掴みきれていない様子だ。
「一色龍興は西美濃を敵視しているようだが、ここで西美濃を攻めてしまえば、必然的に長期的な内乱となる。そうなれば織田が攻める隙も生まれ、我ら寺倉の介入も必至だ。龍興としてもそれは避けたいだろう。一色に尾張へと攻め込む余裕はない」
光秀は俺がそこまで言ったところでハッとした様子で俺の目を見つめた。
内乱が起これば当然それを好機と見て織田が攻め込んでくる。そして西美濃衆に対しては寺倉が後方支援を行うことになり、美濃は大きな混乱に晒されることになる。龍興がいくら暗愚であったとしても、それだけは避けようとするはずだ。
俺は光秀の様子にほくそ笑みながら、言葉を続ける。
「そうだ。十中八九一色は五僧峠を越えてこの寺倉領に侵攻してくるに違いない」
「なるほど、だから沼上の町に堰を......」
「そうだ。五僧峠から寺倉に攻め込んでくるとすれば、最初の砦となるのは沼上だ。そこで一色の兵に水攻めを食らわせ、壊滅に追い込もうという算段だ」
光秀は俺の言葉に息を呑む。俺の意図を理解したことで、身震いを隠せない様子だ。
光秀が察した通り、沼上に砦を作ったのはここまで見越した上でのことだ。まさか山中で水攻めを食らうなどとは考えていないだろうし、堰を見ても砦としか思わないはずだ。
「それに向けて、西美濃衆の協力を仰ごうと考えている。半兵衛に文を送り、西美濃衆の結束を依頼しよう」
竹中と安藤だけでなく、稲葉や氏家とも出来る限りの友好関係を築きたい。西美濃三人衆も現在の美濃には不満が積もっているだろうしな。
「はっ」
光秀は一度俺に向かって頭を下げた後、足早に部屋を出て行った。
沼上の堰は順調に完成へ向かっている。民の苦労は並大抵のものではないだろう。俺は西美濃衆と意思疎通し、確実に作戦を成功させなければな。
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