目賀田の戦い③

「摂津守様に続けー!!!」


自軍の敗戦を悟った目賀田の重臣は単騎かけていく貞政に殉ずるように背中を追った。


貞政を守っていた兵は最後まで忠義を貫いた。迷うことなく5倍以上の包囲に怯まず突っ込んでいく。


貞政は一心不乱に刀を振るった。それはただ闇雲ではない。死ぬ時は六角六宿老としての名誉と誇りを抱いて死すべし。それを捨てるは武家の恥だと父・忠朝から口酸っぱく言われていた。その父は宇曽川で六角承禎を無事に金堂城まで退却させるために自ら囮となって敵陣へと突っ込んでいったという。


貞政はすでに目賀田家の当主になっていたとはいえ、忠朝が実質的な政治を全て執り行っていた。いや、貞政が無能だったというわけでは決してない。むしろ優秀といっても差し支えないくらいだ。


しかし父は偉大すぎた。六角六宿老の一角としての立場に一切重圧を感じることなく堂々と背負っていた。そして誇りを持ったまま勇敢に死んでいった。


留守役を任されていた貞政は父の死を聞いて驚愕と絶望を同時に受け止めきれなかった。その時、貞政は自らの弱さを実感する。体が全く動かなかったのだ。しかし、この戦が心の奥底にあった闘志を引き出した。


ーーもっと冷静に考えていれば、こうなることもなかっただろうに。


今更ながらそんな考えが貞政の体を駆け巡る。


そして貞政は無念の涙を流していた。剣を振るい、止めどなく流れる涙が波のように綺麗な線を作って地面へと落ちていく。


その姿がなんと凛々しいことか。戦場故そんな姿に目を向けるものはいない。


貞政は勇猛果敢に戦ったが、多勢に無勢であった。2000いた兵は散り散りになり、残った寡兵の本隊も奮戦虚しく壊滅した。


その中に目賀田貞政の名前も含まれていた。名誉の戦死と言っても良いだろう。大倉久秀は尊敬の念を向けつつ、丁寧に弔うよう命じた。


目賀田の戦いは寺倉の大勝利によってここに終結を迎えた。寺倉の犠牲は僅か50に満たない程度。命を軽んじている訳ではないが、極めて軽微な被害と言える。正面から戦っていればこうも一方的な勝利は絶対に不可能だっただろう。


対して目賀田軍の被害は甚大だった。犠牲は300とも500とも、中には1000と言うものも居たが、ほぼ全軍が散り散りになって逃げていった今、知る由もない。


正吉郎はその勝利を見て、一先ずホッとしていた。勝ち戦とはいえ、完全に終結を迎えるまでは気が抜けなかったため、張り詰めていた緊張が一気に解けて安心してしまったのだ。


虎高に命じた「釣り野伏」がなんとか形にできたことで、伏兵として潜んでいた寺倉の“真”の本隊で挟撃し、目賀田軍を壊走に追い込んだ。一旦恐慌状態に陥った軍のなんと脆いことか。国人衆の寄せ集めで統制の取れていない軍ならば尚更であった。


粗い部分も多く見受けられたものの、この戦で三段撃ちを交えて改良した、寺倉独自の「釣り野伏」が誕生したのであった。



◇◇◇



戦後、物生山城では「目賀田の戦い」での仕置を確定するための話し合いが行われていた。


あの後、寺倉軍は目賀田城を包囲し、残党は全て降伏した。


「まず目賀田一族の仕置だが、男は切腹、女・子供は追放処分にしようと考えている。十兵衛、如何思う」


俺は光秀に問いかける。光秀は少し考えた後、口を開いた。


「お言葉ですが、目賀田一族に連なる男は郎党も含めて全て殺すべきかと存じます。このまま子孫を生かしておけば、確実に正吉郎様へ復讐を企むでしょう。お心苦しいとは思いますが、何卒お考えくだされ」


光秀の言葉は一見残酷に感じられるが、その言葉には一片の愛が感じられた。後顧の憂いを失くすためにも、俺に危害を加える可能性がある者は徹底的に排除するべきだというのだろう。理屈はわかる。そんな想いに感謝もしているが、だからと言って皆殺しなど考えられない。俺は歯を食いしばりながら悩んだ結果、答えを導き出した。


「......ダメだ。女、子供は助命するように。これは決定事項だ」


我ながら甘いのは自覚している。


目賀田家にはまだ元服していない貞政の嫡男・堅綱がいた。光秀たちはこの存在を危惧していたのだ。まだ赤子だったら考える余地はあったかもしれない。光秀たちは俺の命を第一に物事を考えている。だがそのために子供の命を犠牲にするのは俺には不可能だったのだ。


「......正吉郎様がそう仰るのであれば、我らは従いましょう。ただ、少しでも反乱の芽があると感じればすぐに首を刎ねます故、くれぐれもご承知置きくだされ」


光秀は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。だが、この時俺は知らなかった。


ーーこの甘い決断が後々自らの首を締めることになろうとは。



◇◇◇



「次に降伏勧告を拒否し、我らに反抗した国人領主ですが...」


目賀田一族の仕置を決定してからも、話し合いは続いていた。


“所領は没収。寺倉家家臣が仕官を認めた者に限り、陪臣として禄20貫、領地なしの条件で銭雇いを認める。ただし、仕官を望まない者や寺倉家家臣から雇い入れを認められなかった者は切腹、女・子供は追放処分”


戦に参加して降伏した国人領主はこのような仕置きとなった。負けて死ぬ以外ないと嘆いていた国人衆は助かる道があると知り、必死な様子で俺に仕官を申し出てきた。仕官できなければ切腹だ。我先にと競い合い、俺や重臣たちに仕官の売り込みを行っていた。


その国人らの配下で放逐された地侍への仕置きも決定した。


“所領は没収。直臣として禄15貫、領地なしの条件で銭雇いを認める。ただし、仕官を望まない者は一族とも追放処分”


となった。地侍はただ国人に従っただけという側面があるため、直臣という扱いをすることにした。元国人の下に置いたままだと、銭雇いの陪臣という身分の禄では養い切れずに、放逐される者が多く出ることとなり、野盗に身を落とす可能性も十分考えられる。治安の悪化は避けたいからな。


後日この戦に参加せず、日和見していた国人衆が臣従を申し出てくることを考え、そちらに関しても話し合いを行った。


戦わずして勝ち馬に乗ろうという魂胆に家臣の多くは苦い顔を見せていたが、御家存続が最重視される弱小国人としての立場を慮り、


“所領は没収。直臣として禄30貫、領地なしの条件で銭雇いを認める。ただし、仕官を望まない者は一族とも追放処分”


という裁定が下った。


戦前に降伏勧告を受け入れた者たちと扱いに差をつけるためにも、領地は与えない方針になった。まぁ当然だろう。これで領地まで安堵していれば、不満が出ていた可能性が高い。それは寺倉家の沽券に関わることでもある。


こうして目賀田の戦いは幕を閉じた。そして寺倉家は物生山会談で策定された境界線内を完全に平定し、22万石の大名になったのであった。

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