利家の決意
利家と源三に堰の建設を命じた後、日が傾き辺りも暗くなってきたのを見て沼上の町へと戻ってきた。
今日泊まるのは利家の屋敷だ。一本道を奥まで進んだところに位置する。
屋敷へと戻ると利家に尾張から呼んできたという郎党を紹介された。家臣と言ってもしばらく織田家で謹慎していた身ということもあり、そう多くなくすぐに数えられる程度であった。
その中には家族である妻・まつとまだ1歳の娘・幸も含まれていた。俺はまつの腕の中で眠る幸に向かって優しく微笑む。去年の7月に生まれたばかりだという。
腕の中で身動ぐ幸はそれはそれは気持ちよさそうに眠っていた。9月下旬という今の時期は赤子にとっても大人にとっても一番過ごしやすい気候だと言える。現代では9月どころか10月に入っても30度をゆうに越える日が絶えないが、この時代においてはそんなことはない。
ただもう1、2ヶ月もすれば急激に冷え込み雪が降る日も出てくるだろう。ここ沼上は標高が高く、冬は大雪に襲われる日も出てきて身にも堪えることは間違いない。
そうなれば大人はまだしも子供には過酷を極めるだろう。いくら暖かく着込んだとしてもこの時代の防寒具だと高が知れている。冬場であっても夜着などという薄い薄い物を身体にかけるだけというのは現代人の感覚からすれば考えられない。ただ、俺はこの時代に生まれ落ちており、大分寒さにも慣れが出てきた。多少寒いくらいでは動じない。だが、赤子となれば慣れなどないのだ。
「この沼上は山奥であるからこれからの時期はかなり冷え込むはずだ。そうなれば乳飲み子は特に風邪を引きやすくなるだろう。無事に健康に育つように物生山城に帰ったら、子供用の温かな防寒具と布団を作らせて送ってやろう」
赤子のためだけではなく、大人にとっても布団というのは夢のような代物に感じられることだろう。夜着ではなく布団を被って暖かく眠れる環境は作るべきだ。
布団を作るのであれば羽毛を使いたいな。まず敷布団は毛足の柔らかい害獣の毛皮を雇っている猟師に頼んで作ることにしよう。
掛け布団は猟師が狩った水鳥の羽毛や羽根を大量に買い取って作ろう。幸い琵琶湖には水鳥がたくさん生息しているから問題はないだろう。
掛け布団が防寒には一番必要だろう。洗った羽毛や羽根を乾かし、木綿の袋に混ぜ入れる。平らに均した後に、いくつかブロックに仕切るように縫製し、中の羽毛が偏らないようにすればできるはずだ。
ただ、この時代で普及してないだけあって一つ作るのに大量の羽毛が必要だ。大量生産はできそうにない。それに猟師に頼るだけだと安定供給も難しい。これは猪の時と同様だ。そこで、養鶏場を作って養鶏すれば卵や鶏肉の生産もできるし、羽毛として代用することもできるし、鶏糞は肥料にもなる。まさに一石三鳥だ。
ただ、水鳥の羽毛でないと保温性や撥水性に差が出るだろうから、貴族などの特権階級に向けては純粋な水鳥の羽毛のみの布団を製作し、階級が低くなるにつれ鶏の羽毛の比率配分を大きくすれば徐々に庶民の一部にも普及していくのではないだろうか。
市にも作ってやらないとな。ふかふかの羽毛布団を渡せば喜ぶに違いない。
俺はいつのまに心の中で市の喜ぶ表情を思い浮かべていた。父上の墓での一件以降、益々仲が深まった気がする。政略結婚のはずだったのにすっかり立派な夫婦になってしまったものだ。
「お気遣い痛み入ります。お前様、素晴らしい殿様ではないですか。何を悩んでいらっしゃるのですか」
「...もう悩んでなどおらぬ」
利家の声が若干涙声だったことに目を細めながらも、夫婦のやり取りを見つめる。
「へえ、何か心変わりでもされたのですか?」
「掃部助様!」
利家はまつの問いかけに反応することなく、いきなり平伏した。無駄のない動きに目を見張りながらも、急な出来事に思考を停止してしまう。
「ど、どうしたのだ...?」
「畏れながら某は正月に三郎様から与力として掃部助様に仕えるように言い渡され寺倉家に参りましたが、正直に申しますれば嫌で嫌で堪らず、武功を挙げて一日でも早く織田家に、三郎様の元に帰りたいという一心で過ごして参りました。これは嘘偽りなき本心でございました。誠に申し訳ございませぬ!」
「正吉郎様の前で何を無礼なことを...!」
後ろに控えていた光秀がムッとして今にも飛びかかりそうに膝を浮かせながら利家を注意する。
俺はそんな光秀を手で制止した。
嘘偽りなき本心でござい”ました“という過去形の言葉が妙に心に引っかかったのだ。俺は続けるように二度小さく頷き合図をする。
「ですが、過日の「野良田の戦い」で掃部助様の武略と勇猛ぶりを目の当たりにしてから少しずつ心が動き始めました。宴の後の評定での『日ノ本の民を豊かにし笑顔の溢れる世を作るべし』との掃部助様の雄志を知り、深く感銘致しました。さらに今日は、沼上の町を守る策を授けられて掃部助様の神算鬼謀さも知ることも叶いました。
しまいには某の娘を気遣い、お優しいご厚情まで賜るに至り申しました」
フーっと一度小さく息を吐いた後、光秀の喫驚する表情を一瞥し、言葉を続けた。
「この前田又左衞門利家、心より掃部助様に感謝し、心服した次第にございまする。今より与力としてではなく、掃部助様の家臣としてこの命果てるまで掃部助様に忠誠をお誓い申し上げまする!」
驚いた。あれほど信長の元へと帰りたがっていたはずの利家が、俺の家臣となり忠誠を誓おうというのだ。光秀は驚きつつも感心したような表情で俺に頭を垂れる姿を見つめていた。
「利家、いや又左衞門。三郎殿の元に戻れなくとも本当に良いと思うのか?いずれ後悔する時が来るかもしれぬぞ」
「元より三郎様のことは今でも尊敬いたしております。ですが、掃部助様は三郎様以上の男だと、この前田又左衞門、男が男に惚れ申しました。もう心に決めたことにございまする」
男が男に惚れる、その言葉に尻の穴が引き締まるのを感じた。同時に背中を冷や汗が伝う。
「決意は変わらないというわけか。分かった。お主を家臣として迎え入れよう。これからも粉骨砕身の働きを期待している。お主の槍で私を支えて欲しい。宜しく頼むぞ。ただし念の為言っておくが、私は衆道は嗜まぬからな。良いな?又左衛門 」
「勿論にございまする。これからはこの命を掃部助様に捧げ、身を粉にして勤めて参ります」
「では今ここに、前田又左衞門利家は寺倉家家臣として新たに生まれ変わったことを認める。その証として私の偏諱を授けるゆえ、これからは『前田又左衞門利蹊』と名乗るがよい」
傾奇者で扱いが難しかった利家は、今ここに生まれ変わった。織田からの与力ではなく、寺倉の家臣になったのだ。その決断は並大抵の懊悩ではなかっただろう。俺はその決断に敬意を表し、偏諱を授けることを決めた。
「あ、ありがたき幸せにございまする! 掃部助様に偏諱を賜った利蹊の名に恥ずかしくない働きをしてみせまする!」
あーあ。また男を泣かせてしまった。光秀も軽く引いているぞ。その大泣き、お前の怖い目つきには似合わないぞ。
俺は暫く泣き続ける利蹊を、白い目で見つめるのだった。
だが、その中に滝川慶次という者がいた。慶次って、あの前田慶次か?確かに他の者とは違う恰好で傾奇者という話は本当のようだが、背丈は大して大柄でもなく、160cmを少し超えるくらいだろうか。
その目は一直線に俺の方を向いており、目線が妙に気になったが、何も言ってこないあたり勘違いなのだろうと思い、気にしないことにした。慶次も傾奇者って呼ばれているしな。やはり人とは違う感性を持っているからなのだろう。
歓迎の宴は予想以上に豪華で、素直に驚いた。沼上が成長したということを如実に表しているように感じた。俺は喧騒に包まれていた宴の席を早いうちに外れ、疲れに身を任せるようにして静かに就床していったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます