沼上の防衛
俺は東福寺で恵瓊を仲間にしてから、北上し寺倉郷へと向かった。
寺倉郷は山の中にあると言えど、八風街道に通ずる場所に位置しており、寺倉郷の産業の多くが松原湊へ移された後にも、商業の町として一定の地位を保ち続けていた。水運によって物資を運ぶ松原に、陸運によって織田の津島などと結ぶ寺倉郷。二つの力が上手く均衡して共存していた。
寺倉郷は父の代からの重臣である初田秀勝を代官として置き、全て一任している。見る限りだと俺がやっていたことをそのまま引き継ぎ統治しているようで、殆ど問題は見受けられなかった。
寺倉郷で一泊し、沼上の町へと向かう。以前のように”大騒動“が起きないよう、今度は予め源三に早馬を送って了承を得ておいた。心配はないだろう...と信じたいものだ。
沼上の町へとやってくると、そこには前田利家と沼上源三が砦の前で待っていた。
以前来た時よりも人口が増え、敷地も倍増しているらしい。この時代の日ノ本には河原者や流浪の民は腐るほど存在する。その人間を保護する町があるとあれば、自然と人が集ってくるのはむしろ当然というべきだろう。
「掃部助様、よくぞお越しくださいました。長い行軍、お疲れでございましょう。私の屋敷でしばしお寛ぎくだされ」
前田利家はこの町の代官として置いているが、予想以上に良い統治を行なっているようだ。町はしっかりと整備されており、被差別階級で構成される町とは思えない秩序を保っている。利家に期待できるのは槍働きだけではないということがこれで証明されたな。
町民に内緒で、ということにはならなかった。今回はお忍びではなく公の訪問。その上150の兵を引き連れている。必然的に利家の屋敷へと向かう一本道を行進することになった。
予想はついていたが、町民は全員跪いていた。以前のように土下座とまではいかなかったが、それでも尊敬の眼差しを一気に浴びてしまい、行軍の疲れがドッと出てしまった。
相も変わらず俺は“神”として崇められているようだ。神仏ではないのだから奉られることはないようだが、ここに来ると毎回気疲れして堪らん。それでも、敬いを全身から醸し出す町人を否定することはどうしてもできなかった。
俺は小一時間ほど休憩した後、利家と源三、光秀らと共に町に入ってきたのとは反対側の町の東側から出て川沿いの街道を南に進んだ。途中で五僧峠に向かう街道から外れ、川沿いに南の山を登っていく。そして傾斜がやや緩やかな窪地に辿り着くと、俺は徐にそこで立ち止まった。仮眠を取って疲れは大分抜けたものの、この時には疲労困憊になりつつあった。
「この辺りが良いな」
俺は独り言のように呟いた。その言葉は皆の耳にしっかりと届いたようで、一様に怪訝そうな表情を見せながら俺の顔を覗き込む。
「利家、源三。寺倉郷に築いた堰のことは知っているな。この冬の間にここに同じような堰を街道を通る商人に知られないように築いて、川を堰き止めて雪解け水を溜めるのだ」
「それは一体何故でございますか?」
利家が眉を潜めながら聞き返す。それが何に関係があるのか、そう聞きたいような目線を感じた。
「おそらく来年、いや再来年に、五僧峠の東から美濃の一色がこの寺倉領に攻め入ってくる。これは一色軍を撃退するための策だ」
来年、と言いたいところだが、来年は一色義龍が病死して龍興が後を継ぎ、織田との間で森部の戦いが起きたりと小競り合いが多発するはずだ。一色もこちらに手を出す余裕はないだろう。寺倉も三家会談で策定した所領を接収しなければならない。
「寺倉郷の湖は町のすぐ南側にあると聞き及んでおりますが……」
源三は寺倉の湖を思い浮かべたようだ。ここは大分町からも距離がある上に今いる窪地もかなり幅が狭い。寺倉の湖を作ろうとしても不可能だ。
「ああ、そのとおりだ。だが、沼上の町の南では寺倉郷の湖と同じくらいの湖を作るだけの広さがない。そこで『寺倉郷の戦い』とは違う策を用いて一色軍を撃退、いや壊滅させるのだ」
「壊滅ですと!?」
真面目な顔で告げる俺を囲むように全員が驚嘆する。そんな策がどのようなものなのか、心なしか前のめりになっているように思えた。
「うむ。その策とは「水攻め」だ。一色軍が五僧峠を越えて、沼上の町の手前に着いたところを見計らい、ここの堰の水門を開けて溜めた水を一気に放出し、一色軍を背後から濁流で飲み込み、水に沈めて溺れさせようという策だ」
流れている川は源流に限りなく近く、現時点では湖など考えられないほどの量に留まっている。ただ、一色が攻め込んでくるまでには二年近くあると推測される。それほどの期間があれば問題なく大量の水を溜め込めるだろう。
「で、ですが、それでは沼上にも水が押し寄せて、町が洪水に遭ってしまいますが」
利家が唾を飲み込み、額から一滴の汗を流す。
そう、上流にある水を一気に放流すれば、下流にある寺倉の町はその激しい濁流の餌食となり、一瞬にして町を破壊し尽くし、町としての形が失われてしまうだろう。
「今のままではそうなるな。だから、来年の冬には沼上の町の手前にも、もう一つ堰を築いて、押し寄せる水をそこで堰き止めるのだ。一色軍の重い鎧兜を身に付けた将兵は、その堰の内側に溜まる水で溺れ死ぬことになるのだ。もちろん岸に這い上がった者は弓矢や鉄砲、投石の餌食にすればよい」
だが、その手前で堰を築き上流からの濁流を堰き止めれば問題はない。逆に一色の兵を長く溺れさせ、生存率を大きく低下させることができる。それでも上がってくる兵には弓矢や鉄砲、投石で打ち倒して行けば、生きて帰れる者は極少数に限られることだろう。その極少数にも働いてもらわなければならない。寺倉の軍略に嵌ったことへの恐ろしさを伝え広め、兵たちに寺倉への畏怖を植え込むのだ。
「2年かけて2つの堰を築くことになる町の者たちには大変な労苦を強いることになるのは承知している。だが、寺倉領を守るためには、何としても国境の砦であるこの沼上で一色軍を食い止め、壊滅に追い込まねばならぬ。そのためには沼上の民の合力がどうしても必要なのだ。どうかこの俺に力を貸して欲しい」
俺は神妙な顔つきで頼み込むように頭を深く下げた。その様子に皆は慌てた様子を見せ、頭を下げる俺に制止を呼びかける。しかし俺はそれを無視して頭を下げ続けた。
「おやめくだされ、掃部助様!掃部助様はお命じになるだけでよろしいのでございます。その言葉で我らは掃部助様の手となり足となりましょう。どれだけ力をかけても決して折れぬ根性、それが我ら沼上の民の底力にございます。安住の地を与えてくださった掃部助様へのご恩は、片時も忘れたことなどございません。掃部助様の治める寺倉領を守るためならば、住民たちも今こそ掃部助様に恩返しする時が来たと喜んで合力するに違いありませぬ。どうかお顔をお上げくだされ」
源三は秘めていた思いを吐き出すように胸に手を当てながら俺に告げる。
「源三、ありがとう。よろしく頼むぞ」
「はっ!」
この働きにはいつか応えなければならないな。沼上の民に報いるには結果で応えるしかない。
俺は握った拳で眼上の太陽を遮りつつ、改めて決意を固めたのだった。
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