亀丸と仙

桶狭間の戦いで今川義元が討たれた。


義元の死に悲観し、松平宗家の当主・松平元康は逃げ込んだ大樹寺にて自害し、松平宗家は実質的に滅亡した。


その時13歳だった本多忠勝は、酒井忠次に命じられ、自らの腹を切ることはしなかった。しかし忠勝の瞼には色濃くその光景が染み付いている。忠勝は織田の兵に捕らえられるまで、自害した元康と忠次の目の前で目を瞑りながら、微動だにせずただただポロポロと涙を頰に伝わせていただけだった。その光景は儚く、そして一片の麗しさを織田の兵の目に焼き付けた。


忠勝は捕らえられた後、粛々と元康の菩堤を弔っている。松平の将と言えど、忠勝は13歳。織田への仕官も断っていたが、その若さから解放され、実家へと帰ってきていた。


桶狭間では後見役として忠勝を支えていた叔父である忠真も自害していた。忠勝は本多家の当主ではあるものの、松平の宗家が実質的に滅亡し、織田の軍勢も迫りつつあった。


「母上、もうじき織田の軍勢がこちらへと迫るでしょう。女子供の命は許されましょうが、領地は没収になるでしょう。私はすぐにここを出立し、他国に身を寄せようかと考えております」


「平八郎、お前が決めたのならもう止めぬ。だがこれだけは忘れるな。お前は本多家の当主。その自覚を持つのじゃ」


母親である小夜の言葉。忠勝の心には重く響いた。


「……はい」


その日、忠勝は領地を出奔した。



◇◇◇



「おい、亀丸!!!」


ドンドンドン、と扉を叩く音が聞こえる。騒がしい。この声は平八郎だ。


「なんだ、騒がしい」


「岡崎城が織田の手に落ちたらしい、ここもじきに織田に攻め取られるだろう。亀丸、俺はこれから仕官先を探しに出ようと思っている。お前も来ないか?いや、来い 」


6月中旬、岡崎城が織田家によって接収された。松平家の当主が亡くなり、空白地帯となった岡崎だ。こうなるのも時間の問題だと私自身も分かっていた。


「それは本当か?であれば他国に身を寄せるのも手か……。よし、わかった。お前についていくことにしよう 」


私は三河国上野郷の榊原家の次男。仕官先を探す旅に出ようという誘いに断る理由もない。このまま三河に留まる方が危険だろう。父上はこのまま織田家へと仕えようとしているようだが、私は次郎三郎様の言葉に従い、織田と今川には仕えないと決めていた。ここで無為に時間を過ごすよりも、平八郎について行く方が良いだろう。


父上も次男坊ということで止めようとはしなかった。榊原家は兄上に任せておけば問題ないだろう。


「よしきた! そうと決まればすぐに出立しようぜ!」


「え、準備は……?」


「そんなもん必要ないぜ。ほら、行こうぜ!」


「はぁ……」


平八郎との旅は前途多難に違いない。飽きはこないだろうが...


私は背を向けて歩き出した平八郎に聞こえないよう、小さく息を吐いたのだった。



◇◇◇



「なかなか厳しいな」


私は冷静に呟く。すぐに見つかると思っていた仕官先を探す道のりは、そう容易いものではなかったのだ。


織田の支配下になった三河や尾張を避け、東美濃に向かった。


信濃に進出した武田も候補にはなっていたものの、他国の者には厳しいと聞く。余所者が出世することを快く思っていないのだ。


そして東美濃もその武田の圧迫を受け、お世辞にも良いとは言い難い状況に立たされていた。領民も心なしか憔悴しているように見えた。


私たちは東美濃を治める遠山家への仕官は見送り、中美濃へと向かった。稲葉山城が位置する井ノ口へと到着した。


「よし、適当なやつ捕まえて一色について聞こうぜ」


「これから仕えるかもしれない相手だぞ。しっかりした人間に聞くべきだろ 」


平八郎のこういった楽天的な部分は魅力でもあるが、私が助けないと危なっかしくて放っておけない。


「大丈夫だって。俺に任せておけ 」


「任せられないからこう言っているんだが……」


手を振って走っていく。こうと決めたらすぐ行動に移すのが平八郎なのだ。


「そこにいた町娘を連れてきた」


「早いな」


平八郎はすぐに町の人間を連れてきた。13、4歳というところだろうか。その目には怯えが去来しているように見える。女ならそう嘘は言わない。平八郎はそのようにでも思ったのだろう。


「おい、無理矢理連れてきたな?」


平八郎は目つきが悪い。女子から見ればそれはそれは恐ろしく感じるだろう。


「そんなわけないだろう」


真顔でそう言う。本人は意識していないのだろうが、顔でも慣れていなければ恐ろしく感じるのは明白だ。


「はぁ。もういい。すまぬな、こんな顔でも悪い奴じゃないんだ。許してやってくれ 」


「い、いえ。とんでもありません! 国主様のことでしたね。このようなことを申すのは憚られるのですが、国主様の評判はとても悪い、と思います。元々この国を治めていらした土岐様を追放なさった一色家のことを殆どの者が疎んでおります 」


「ふむ、民衆の評判はわかった。治部大輔はどうだ?」


「一色治部大輔様は今不治の病に冒されているようで、もう先は長くない、専らそのように噂されております。嫡男の新五郎様は暗愚で酒と女遊びばかり、病床にある治部大輔様が政務を行えないため、一部の側近が権力を振るっていると聞きました 」


「そうか、助かった。ありがとう 」


私は小さく頭を下げる。そうか。美濃は国が腐っていたか。


「い、いえ!とんでもございませぬ!」


すると町娘は腕を前に出して止めるように慌てだした。私は頭をあげたが、裾の隙間から見えたものに目を細める。


「お、お主、その痣は何ゆえできたのだ?」


私は動揺を声に出してしまう。見えた痣は転んだ程度ではできないような黒ずんだ青痣だったからだ。


「こ、これはっ!」


町娘は慌ててその痣を隠す。しかしそれはもう遅かった。


私は腕を掴み、睨むように目を見据えた。恐怖。その感情が抜けなかったのを私は疑問に思っていたのだ。


「何故だ」


その眼差しに避けられないと悟った町娘は、細々と語りだした。


「私は忌み子でございます。双子の妹として生まれ、寺に預けられました。しかし、そこの住職に……」


「殴られた、か。その仕打ちに耐え切れず逃げ出してきたのだな。私はこの男と二人で旅をする流浪の身だ。寺をどうこうすることはできぬ。だが、お主が望むなら我らと一緒に来ないか?」


その言葉に町娘の目に一片の光明が刺した。しかし、直後目線を落とし、暗い顔をする。


「私のような人間が侍様とご一緒するなど、いけませぬ」


「自分を卑下するでない。私は流浪の身だ。それこそ蔑まれるような身ではないか」


「……」


「お主、名は何と申す」


「……仙と申します」


「良い名前だ 」


私は優しい声色で微笑む。本心だった。その言葉に、仙は涙を流していた。


「もう一度言おう、私はこれから近江へと向かう。一緒に来ないか?」


「本当に……よろしいのですか?」


「武士に二言はない 」


「では……。よろしくお願い致します」


仙は深く頭を下げた。そして私は願う。


ーー仙のような忌み嫌われる子のいない世が来ることを。








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