幕臣・和田惟政

9月に入っても、残暑が厳しいことには変わりなく、道行く人々は漏れなく汗を垂れ流していた。現代に比べると幾分涼しいとはいえ、蒸し暑く特殊な日本の気候は身体に堪える。


そんな二条御所ではある遊びが流行りつつあった。


「余はこれまで剣一筋で、碁や将棋はせなんだが、この返碁は手順が簡単で、とても奥の深い遊戯だな」


返碁という遊びは手軽に遊べることもあり元々京の間では話題であったが、御所内で根付くことになったのはつい最近であった。


「これは近江の寺倉という国人領主が自ら考え出したそうで、巷では大人気となっております」


返碁の相手をしていた幕府の重臣、細川藤孝が言葉を返す。横には和田惟政が控えており、扇子で義輝に向かって風を送り、涼を取っていた。


「ほう、寺倉か」


義輝は相槌を打つ。以前から気にしていた近江国人領主である。


「はい。昨年六角の大軍を寡兵にて退け、嫡男・義治を討ち果たした男でございます」


「返碁といい、寡兵で六角を退けた軍略といい、大した男だな。よし、褒美を取らす故、上洛するように使いを出せ」


和田惟政はそのやり取りを側で聞いており、心中気が気ではなかった。我慢ならずに二人の会話に口を挟む。


「畏れながら、寺倉は亡き六角承禎様の嫡男を討った男ですぞ。そのような者に褒美なぞ...」


惟政は如何にして義輝様と寺倉の接点を失くすか。そんな思案を頭に巡らせていたが、まさか話が上洛をさせ直に顔を合わせるまで飛躍するとは考えていなかった。


「寺倉から六角を攻めたのではなく、武士として領地を守らんがために六角と戦っただけであろう?勝敗は兵家の常と言う。褒められこそすれ、誹りを受ける謂れなどない」


義輝は寺倉が承禎を討ったことを知らない。惟政が意図的にそうさせたのだ。そのせいで義輝の寺倉への印象は非常に良好であるように見える。


藤孝は黙って惟政を見つめていた。その目は何かを探るような目つきで、惟政は心中を悟られないよう表情を一切変えず口を開く。


「では寺倉への使いは近江の地に明るい某が承りましょう」


「うむ、宜しく頼む」


惟政は小さく会釈し部屋を出た後、小さく息を吐き顔を上げた。


(腹を括るしかない、か)


寺倉に心中を悟られないよう細心の注意を払わなければ、と惟政は拳を握った。




◇◇◇


「上意である。過日の寺倉郷にて六角勢を寡兵にて退けた戦いにおける寺倉掃部助の才知は見事である。よって褒美を取らせるゆえ、上洛して謁見すべし」


俺は物生山城の大広間に幕府の使者を受け入れ、上座に据えていた。俺たちは下座に座っている。


おかしい。義輝は俺のことを以前から気にしていたというのは知っているが、上洛を命じるには遅すぎる。幕府はそこまで情報に疎いのか?いや、それはないだろう。細川藤孝など優秀な幕臣もいる。義輝が知らずとも、京の都は風の噂に敏感だ。幕臣が知り、伝えることだろう。


「正吉郎様、これは罠にございます」


光秀が小声で俺に耳打ちする。考えていることは同じだろう。義輝は承禎を討ち取った俺の暗殺を目論んでいる。管領代だった六角は幕府の後ろ盾で、それを滅ぼした俺たちを許すはずがないのだ。これによって幕府の立場は急激に弱くなった。再び三好の支配下に入るのもそう遠くないだろう。


「畏れながら、某はつい先日、野良田にて管領代を務める六角承禎殿を討ち取っており、公方様からすれば某は幕臣を討った逆臣であるはず。これはいかなる料簡でございまするか?」


俺は包み隠さず心の蟠りを打ち明けた。その言葉に、惟政の目が露骨に泳いだ。


これは裏があるな。図星だろうか。それならば断るほかない。わざわざ火の海に飛び込むほど馬鹿ではない。


惟政は何か言葉を発そうとしているが、その言葉を紡ぎ出せないでいた。俺はそんな惟政の様子を見て、鋭い目つきを浴びせながら続ける。


「上洛した途端に六角承禎殿を討った罪で捕らえられては敵いませぬゆえ、せっかくの公方様の御下知なれどご辞退したいと存じます」



「えっ、それは...」


下座から見えるほどに大粒の汗を垂れ流す惟政。これを断られたら幕臣としての面目が丸潰れになる。そんな風に危惧しているに違いない。


俺は目を合わせず頭を垂れた。このままお帰りください、という意味を込めてのものだった。


「コホン。人払いを頼めるか」


汗を裾で拭き取り、一度わざとらしく咳をした後、俺の近習・小川蹊祐に命じた。


一度会釈をした後何も言わず去っていく。家臣も全員が大広間から退出した。俺と惟政以外誰もいなくなった大広間に、一瞬の沈黙が流れ、何とも言い難い気まずさが漂う。


「今から申すことは他言無用だ。良いな?」


その空気を切り裂くように惟政が口を開いた。俺は小さく頷く。


「実はな。公方様は貴殿が六角承禎様を討ったことは一切承知しておらぬのだ。公方様は六角承禎様を討ったのは浅井だと承知しておる 」


そんな情報を改竄し伝えるなどできるだろうか。いや、義輝は六角に執心だった。承禎と義定の死を受け入れられず、それが嘘などとは疑うこともしなかったのだろう。正式に報せが届いても、“もう聞いた。二度は聞きたくない”というように断っていたのだろう。それほど衝撃的なことだったわけだ。


俺は黙り込む。そして鋭い眼光で惟政を見つめる。


「それは何故でしょう」


俺の目つきに耐えかねたのか、目を逸らしながら口をパクパクしていた。そんな動きも見逃さない。


「私は数年前まで六角家臣でな。承禎様の名誉を守るためには浅井に討たれたことにしたかったのよ」


観念したように息を一度吐いてから、逃げられないと悟って本心を話した。承禎の名誉、か。その辺の国人領主ならまだしも、六角ほどの大大名となれば力を失った将軍とは言えその見方も気にせざるを得ないというわけだ。死に様にしても、小さな国人よりも北近江に一定の勢力を長い間持ち続けてきた浅井に討たれたと言う方がまだマシなのだろう。


「なるほど。得心が行き申した。それでは上洛しない訳には参りませぬな。承知仕りました」


「う、うむ。このことはくれぐれも他言無用に頼むぞ」


「ええ。では某と和田殿は公方様に秘密を共有する者同士ということですな。酔っぱらって口を滑らしたり、寝言を誰かに盗み聞きされぬように気をつけましょう。これからも末永くお付き合いのほどよろしくお願いいたしまする」


俺は悪い笑みを浮かべた。乱世を生き抜くにはこういった腹の探り合いもしなければならない。俺は惟政の“義輝に漏らせない情報“という弱みを握ることとなった。


幕臣・和田惟政は義輝に真実が伝わらないように隠し続けるだけでなく、俺にとって幕府の内部情報を俺に漏らす協力者にもなった。


和田惟政はガックリと憔悴し切った様子で物生山城を後にしていった。


「さて、これから上洛の準備で忙しくなるな。光秀、よろしく頼む」


「はっ」


俺は光秀に他言無用で和田惟政との密談の内容を明かし、上洛の手配に取り掛かるよう指示したのだった。





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