君臣豊楽の志
佐和山城を落とした後、俺は鎌刃城へと帰還した。六角を討ち果たしたことに歓喜する領民を他所に、俺の心中は晴れやかではなくむしろ陰鬱と沈んでいた。
六角を滅ぼした。それに達成感がないわけではない。しかし、父が亡くなる直前に言ったと巖應が告げ知らせてきたこと。
『復讐は何も生まない』
その言葉が鯖の小骨のように痞えて取れない。
俺が六角承禎をこの手で殺したことは、即ちそれが生まれて初めて人を亡き者としたという事実だ。そのことに戸惑いを隠せなかったというのもある。だが、これはこの時代に生まれた者としての定めであり、逆に矜持として胸の中で誇るべきことだ。俺はそう割り切っていた。
しかし、父の言葉はどうにも頭から離れなかった。承禎を殺したということは間接的に敵討ちで、父が亡くなったことへの『復讐』であったことには違いない。だからこそ、こうして心の中に暗い影を落としているのだ。
「正吉郎様、顔色が優れぬようですが、大丈夫ですか?」
その心中は顔に表れていたようで、光秀も騎乗から俺の顔を覗き込んで心配そうに眉を歪めている。
「あ、ああ。俺は問題ない」
空元気を身体で表すが、その顔が晴れることはなかった。光秀はこれ以上詮索しない方がいいと判断したようで、それ以上は聞いてこなかった。正直有難い。
俺はそれ以降表情を明るく染めることなく、鎌刃城へと登城した。
「正吉郎様、戦勝誠におめでとうございまする!お待ちしておりました!」
そう出迎えた巖應は、眩しすぎるくらいの満面の笑みだった。浅井にとって六角は仇敵であり、長い間その圧迫に悩まされてきた。浅井家がその状況を脱した事は巖應にとって先代からの悲願だったのだ。浮かれていても仕方がないだろう。
「……ありがとう 」
本来ならば喜んでいるはずの俺が見るからに沈んでいることを察し、必死に励まそうとしていることを感じ取れた。しかし、俺にはそれがただただ鬱陶しくて仕方がない。
それからというものの俺は、戦後処理などやらなければならない仕事はおざなりになり、ボーッとしている時間を過ごしていた。戦勝の宴が開かれるとのことだったが、俺はゆっくり休みたいからということで欠席することにした。
我ながら面倒くさい。そう感じているものの、どう気分を晴らそうと試みても効果はなかったのだ。
俺は近習に何も伝えず、黙って城を出た。いや、伝える気力もなかったと言う方が正しい。
俺の足は自然とある場所へ向かっていた。俺は悩み事があったり、気分が落ち込んでいる時には、いつもここに来ていた。
「父上、父上の仇・六角承禎を討ち取りました」
故・寺倉政秀の墓前で合掌しつつ声に出す。父は民に愛される、立派な人間だった。その命も予期せぬうちに朽ちてしまう。ここは戦乱の世。覚悟はしているつもりだった。
「私は恨みを消すことができませんでした。そして復讐心を燃やしたまま承禎をこの手にかけてしまいました」
『復讐は何も生まない』
この言葉は強く心に刻んでいたはずだ。しかし「恨み」という感情は予想を遥かに超えて強すぎるものだと思い知った。いくら消そうと努力しても、心の中に色濃く残る。現代では味わうことのできない感情だったのだ。
どれだけ佇んでいただろうか。もはや思考は停止しつつあった。頭を動かすと色々な感情とネガティブな思考が渦巻き、自己嫌悪に陥ってしまうからだ。
「やはりここにいたのですね、正吉郎さま」
幻聴か。気でも狂ったか。
「正吉郎さま!!!」
背後から抱きしめられた。それに俺は喫驚し、心臓が一度大きく跳ね上がった気がした。
「えっ……」
これまでは心臓が止まっていた。そのように錯覚するほどで、今この時、初めて心臓が鼓動を始めたとさえ感じた。
「正吉郎さま!如何なされたのですか?そのようなお暗い顔、全く似合いませぬ!」
俺は錆び付いた人形のように不自然な動きでぎこちなくその身体を引き剥がし、向き合う。小さな体。黒く艶のある長い髪。市だった。
嫌に耳と心に響く声だった。それに年甲斐もなくイラッとした。複雑な感情に支配される俺の心は、決して言ってはいけない言葉を発してしまう。
「お前には関係ない!」
完全に八つ当たりだった。俺は言った後、自分がとんでもないことを言ってしまったと気づき、後悔の念に駆られる。
一度市は後退ったが、再び強い意思をその目に宿し、俺に迫りながら叫ぶように告げた。
「そんな悲しそうなお顔で申されても、市は引きません!何をお悩みになっているのです! 」
このような事を女に向かっていうべきか、俺は暫くの間目を合わすことなく俯いて頭を回した。妻に弱味を見せるなど、大名家の当主がしていい事ではない。俺の心は更に闇に堕ちていく。しかし、俺の口は自然に自らの心中を吐露しだしてしまう。
「俺は……。俺は父上の『復讐は何も生まぬ』という言葉を守ることができなかったのだ。心を侵され、ただ恨むまま六角承禎を手にかけてしまった 」
理由は定かではないが、その言葉を発した事で気持ちのいいような、フワフワとした不思議な自虐的快感に浸った。
「……だから自分は弱い、とでもおっしゃられるのですか?」
「そうだ。俺は弱い。普通の人間だ。父親の言葉すらロクに守れない、弱い人間なのだ!」
俺は堰が決壊したようにこれまで曝け出せなかった思いを叫ぶ。俺の口は止まらなかった。自分の発した言葉が自らを戒める事になり、誰も責めることのなかった自分自身を追い込むことになったからだ。それほど俺の心は“批判”を欲していた。
「それの何が悪いのですか!弱くたって、別に良いではありませんか!正吉郎様には、私がおりまする。多くの家臣もおりまする!」
「それでは十兵衛たちに頼りっぱなしではないか!俺はちょっとばかし知識があるだけで他には何もできない、ただ足を引っ張るだけの人間なのだ!」
「正吉郎様は言ってくださったではありませんか。“誰もが豊かな生活を送り、戦ではなく笑顔の絶えない世を作る”と! この鎌刃城下で暮らす人々が豊かな生活を送り、笑顔が溢れているのは、紛れもなく正吉郎様の功績にございます。正吉郎様は、人を笑顔に変えることができるという、誰にもできないことができるではありませんか!」
俺は雷にでも撃たれたようにハッとなった。自分の言った言葉を市に思い出させられるとは、なんとも情けない。
だが、その言葉は不思議なほどに心の奥底まで浸透する。こんな単純なこと、どうして忘れていたのだろうか。俺はひとりの弱い人間だ。織田信長でも、豊臣秀吉でも、徳川家康でもない。
目指す先はただ一つしかないだろう。
ーー日ノ本の誰もが豊かな生活を送り、戦ではなく笑顔の絶えない世を作る。
この目標をただ真っ直ぐに追うことだけが、こんな俺でもできるただ一つの目標だ。それ以外を掴み取ろうとしても分不相応なことこの上ない。だったら自分が出来ることだけを精一杯やろう。俺は大きく息を吸い、そして時間をかけてゆっくりと吐く。陰鬱とした暗い感情は既に消え失せていた。
この時代に生まれて、なぜ自分がここにいるのか。頭で整理して答えを導き出そうという暇さえなかった。それほどまでに必死に生きてこなければ、今の自分はない。誰がこの時代に送り込んだのか、それはこの際もはや関係ない。神隠しとやらの曖昧模糊な現象が俺の精神を呼び寄せたのかもしれない。
それでも構わない。俺はこの時代で自分の出来ることを命尽きるまで果たす。それが現代の知識を持つ者としての責務であり、使命だと思うから。俺は不安に染まりながらも、ひたすらに真っすぐな市の双眸を見据えた。
「ごめん、市。俺は決めたよ」
「謝らないでください。その顔こそ、正吉郎様に一番似合うお顔ですよ」
顔筋が緩む。暗い表情が吹き飛ばされ、満面の笑みに染まっていることが、自分でも分かった。
「俺はこの日ノ本に“笑顔”をもたらす。この戦乱の世を終わらせ、この世の中に豊かさと平和が訪れる日を目指し、この先に何が待っていようとも、ただ真っ直ぐ、どんな高い壁でも強引に突き破って見せようぞ!」
「はい!」
この日本に平和をもたらす徳川家康はもうこの世にいない。それに変わってこの日本に平和をもたらさなければならない。
俺は決意した。
ーーこの日ノ本を一つにし、天下に安寧と静謐をもたらさん!
と。
◇◇◇
「わはは!皆の者!待たせたな!!!」
「しょ、正吉郎様」
俺は宴の場に乗り込んだ。先程からの変わりように驚いたのは、光秀と巖應だけではなかった。180度変わった俺のテンションに気圧されたのか、目を丸くして俺を見つめている。
「今から大事なことを申す!大広間に皆を集めよ!」
「は、はっ!」
光秀は慌てたように答える。リラックスしていた中の俺の急な登場に驚愕したのか、普段からは想像できないような様子で足をあたふたとさせていたが、俺は昂ぶったテンションが相まって全く気にも留めなかった。
俺はそのまま足を大広間に運ぶ。
俺が大広間に着いた時には、既に半数ほどが集まっていたようだった。
俺は胸を張り、自信を顔に這わせて上座へと座る。
そして皆が集まって俺の方を伺ったところで、大きく口を開いた。
「私はこれより、これからの方針についてここで宣言させてもらう! 皆、よろしいな?」
皆気圧された表情で頷くだけだ。俺はそんな皆の顔を見渡し、そのまま続けた。
「私はこの日ノ本に天下泰平をもたらす。そうするためにはこの日ノ本を一つにまとめなければならぬ。言いたいことはわかるな?」
光秀を除き、皆は口を開けていた。光秀は既に心を切り替えたようで、真面目な顔で俺のことを見つめている。
「私が目指すは“日ノ本の誰もが豊かな生活を送り、戦ではなく笑顔の絶えない世”である! そして、我らが掲げるは“君臣豊楽”の旗印。これは『君主から家臣まで豊かに暮らし楽しむ』という意味である。正直、天下泰平は今の我らにとっては非常に難しい目標だ。しかし、ここにいる皆が力を合わせれば、必ずや果たすことができるだろう! 未熟な私にどうか皆の力を貸して欲しい。よろしく頼む」
俺は途端に神妙な顔つきになり、頭を下げた。
「頭をお上げくだされ。私共は正吉郎様にどこまでも付いて行く所存にございまする」
俺は光秀の声に顔を上げる。それと同時に、大広間中に鬨の声が響いた。
ーーおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!
その顔は笑顔に溢れていた。そして同時に誓う。必ずや、日ノ本全ての人間がこうして笑顔に包まれる世を作ってみせる、と。
ーーこれでいいのですよね、父上!
俺は天の上の父に誓いを捧げるように、鋭い眼差しで天井の先にある空を仰いだ。
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