野良田の戦い⑦

小川祐忠が佐和山城を守り切ったその日の夜。蝉の鳴く音が城を包んでいた。緊迫した状況を察したかのようにその音は小さかった。


しかし、城内は外の静けさとは対極に、家臣らのざわめきが大広間に漂っている。理由は寺倉軍から堀秀基が使者として参ったからだった。


堀秀基は寺倉家の重臣。その人物が敵の陣地に一人で足を踏み入れるなど、殺してくれと言っているようなものだ。


祐忠は顔に大粒の汗を滲ませていた。秀基は亡くなった父の友人で、祐忠も顔を見知った仲である。だからこそ、祐忠は無下に扱うこともできなかった。


「祐忠殿、六角義定は蒲生定秀によって討ち取られ申した。もうお主らに戦う意味はござらん。降伏なされよ」


開口一番秀基が告げたのは、そんな信じがたい事であった。


「なんと……!それは真にございまするか?」


祐忠は聞いた瞬間自分の耳を疑ったが、その真剣な眼差しと父の友人という存在である事を鑑みると、とても嘘だとは思えなかった。


出鱈目だ!と叫び出した者もいたが、祐忠は目で制する。そして一瞬の静寂を見て祐忠が口を開いた。


「降伏するか否かはこれから家臣らと相談しまする。朝までに答えを出す故、しばし時間を頂きたい」


「それで構わぬ。では、色好い返事を期待させて頂こう」


秀基は毅然とした姿勢で祐忠に背を向け、家臣の敵意を向けた眼差しを気に留めることもなく去っていったのだった。



◇◇◇



「寺倉の言うことは信じられぬ! 嘘で我らを混乱させようと言っているに違いない!」


「しかしもし本当に中務大輔様が亡くなったのであれば我らに戦う意味はござらん」


秀基が去った後、困惑の表情を浮かべる私を余所に、家臣らはそれぞれの意見の衝突を始めた。もし明日も戦うことになればこの雰囲気は好ましくない。私はそう思いながら家臣らの口論に耳を傾けていた。


「皆、少し聞いてくれるか?」


私の一声で大広間は一気に静まり返った。


「今日はなんとか寺倉の攻勢を防ぎ切ることができた。しかし明日、明後日はどうなる。これ以上の抵抗をすればお主らに無駄な血を流させるだけになる。堀殿の言うことは恐らく事実であろう。六角が滅んだ以上、これ以上の抵抗は無意味だ。これまで小川家に仕えてくれてありがとう。礼を言う」


私は心中を偽りなく家臣へと吐露する。これ以上佐和山城を守ろうとしても、仮に守れても寺倉領の目と鼻の先にあるこの城は、いずれ敵の手に落ちてしまうことだろう。それではそのために流す血はすべて無駄になってしまう。


私の言葉に家臣らは皆一様にすすり泣いていた。そして家臣ら一人ひとりの前に膝をつき、声をかけていく。


全員に言葉を掛け終わった後、私の目には涙が浮かんでいた。武家の長として涙を見せるわけにはいかない。14歳と若くとも、家臣に弱味を見せるわけにはいかなかった。私は顔を俯き、家臣らの顔を見ないようにしていた。


「我ら家臣一同は小川家と、佐平次様と運命を共に致しまする。佐平次様がどのような決断を下したとしても我らはその決断に従いましょう」


家臣を代表して岸宗尹が跪き私に告げた。私はその言葉に顔を上げる。


「皆、これまで未熟な私について来てくれて、本当にありがとう。宗尹よ、明朝寺倉掃部助殿の元に行き、降伏の旨を伝えて来て欲しい」


「御意」


私は寧静な心持ちで降伏の決断を下し、佐和山城を明け渡すことを決めたのだった。



◇◇◇



俺は、残暑の蒸し暑く虫が多い本陣の環境に辟易していたが、一睡も出来ずただひたすら耐えていた。そんな時間も終わりを迎えようとしている。東の空から曙光が細々と、だがどこか力強い何かを感じさせるように差し込んでいた。


昨日のうちに佐和山城を落とせなかったとは言えど、依然圧倒的にこちらが優勢なのは変わらず、佐和山城の落城は時間の問題だ。しかし、犠牲が少ないに越したことはない。俺は佐和山勢の降伏を心より念じていた。


俺は色々な感情が駆け巡る頭をリフレッシュするように、そして蓄積した疲労を吹き飛ばすように大きく息を吐く。


「正吉郎様、小川祐忠殿から使者が参っております」


ついに小川の使者がやってきた。さて、これ以上の犠牲を出さずに済むであろうか。


「通してくれ」


「はっ」


「小川家家臣、岸宗尹と申しまする。小川佐平次様の命により、使者として参りました」


「そうか。率直に聞こう。答えは如何か?」


「佐平次様は降伏し、佐和山城を明け渡すことをご決断になりました。つきましては、寺倉掃部助様におかれましては寛大な処置をお願い致したく存じます」


「そうか!それは良かった。私もこれ以上戦いたくはなかったのだ。さぞ小川殿は悩んだのであろうな」


「では、こちらへ」


程なくして佐和山城は開城された。兵を佐和山城に入れ、佐和山城は寺倉家の城になった。


大広間に入ると、入った右手には小川の家臣が跪いており、左には誰もいない。おそらく寺倉家臣の席として設けられているのだろう。


久秀に兵の統制を一任し、光秀、秀基、利家らがこの場に同行していた。


「面を上げよ」


俺は頭を垂れている小川の家臣らに顔を上げるよう命じる。


「小川佐平次祐忠と申しまする」


顔を上げ声を発したのは俺よりも若いであろう青年、いや少年であった。この者が小川家の当主か。俺はこの少年の仕置に悩んでいた。志能便の話によると武芸にも政にも特に長けたものはないらしい。


「小川殿、此度の降伏のご決断は苦渋の思いであったであろう」


「これ以上兵の命を無駄に散らしてはいけない、そう考えたのでございます」


「そうか。小川殿、英断であったな」


「つきましては、私は切腹致します故、どうか私の命を以って城兵の命だけはお救いいただきたい。この通りでございまする」


祐忠は土下座するように深く深く頭を下げた。そして俺は直感する。祐忠は民のことを誰よりも考え、耳を傾けて真摯に対応することのできる“民に愛される男”であると。民のために自らの命を投げ出そうとする祐忠の決意に俺は心を打たれた。


「もとより城兵の命は勿論、お主の命も助けるつもりであった。だから腹を切る必要はない」


「えっ……」


その言葉に祐忠は困惑の色を見せる。俺は柔和な笑みを浮かべて続けた。


「お主の城兵のためなら自らの命を投げ出す覚悟、感服致した。今後は私の近習として側に仕えて欲しい。お前には私の偏諱を授けよう。これからは小川蹊祐みちひろと名乗るが良い」


「なっ……!」


光秀が思わず驚嘆の声を上げる。祐忠は当惑の表情のまま固まっていた。


家臣にするだけでなく偏諱まで授けるというのは、当主が変わってから寺倉家では今まで一度もなかった。これには小川家臣だけでなく寺倉家臣も驚きを隠せない。


「へ、偏諱など頂けませぬ! 私はつい昨日まで六角家臣にございました。偏諱を頂くなど畏れ多い!」


「ほう、俺も一応は元六角家臣、いや元陪臣という立場なのだがな。そのようなこと関係なかろう」


「あっ……」


そして祐忠、否、蹊祐は今気づいたという表情を浮かべ、再び固まった。素直で優しい性格なのは十分感じ取れた。俺はそんな蹊祐を温かい目で見つめる。


「そのような小さなこと、気にするでない。これからよろしく頼むぞ」


「は、はい……」


こうして小川蹊祐が俺の近習として正式に家臣となることになった。旧小川家臣も当然丁重に迎え入れた。


野良田の戦いはここに終結し、六角家の滅亡という大事件により、南近江は混迷を極める群雄割拠が始まるのであった。



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