野良田の戦い⑥

宇曽川での戦いで浅井が六角を打ち破ったその日。


蒲生定秀2000は一路観音寺城へと向かっていた。観音寺城は言うまでもなく六角の本城。この城を守るのは留守居役の六角義定500のみである。負けるとは微塵も思っていなかった義賢は、観音寺城の守りを最小限に抑えていた。それは大きな“隙”であった。


義定は討死した義治と変わらず大将の器ではなかった。定秀が義治を推した理由は、義賢に反抗的な行動が目立っており、義賢に対して面従腹背の姿勢を取っていた定秀は、義治が当主に擁立された際、恩を打っておけば蒲生家の権威を高められると踏んでいたからである。


義治は義賢に家督を譲られてから、浅井に対するため父の意向を無視して斎藤家と婚姻を結ぶなど、暴走気味な側面こそ見せている。しかしそれが的を大きく外しているというわけでもなく、義治自身は比較的単純で御し易い人間だった。


一方、義定は承禎に似て小賢しい人間だった。性格は勝ち気で、自らが有能だと信じて疑わない。六角は自分のお陰で成り立っている、そのような驕りを持つ人間だった。


義治が亡くなってから承禎はこれでもかというほど義定を可愛がるようになった。義定が義治に味方した蒲生や平井を追い出すよう声高に叫んでも、家臣に暴言を吐き散らしたりしても、優しく言って宥めるだけになっていた。


しかしそんな暴挙ももう終わりだ。定秀は眼前の観音寺城を睨みつけ、心の中で叫んだ。


(義定よ、ここでお主の首を取らせてもらう!)



◇◇◇



「中務大輔様!一大事にございまする!」


ドスドスドスと床を忙しく踏みしめる音が響く。その音が近づいてきたと思えば、勢いよく襖が開かれた。


「なんだ、騒がしい」


義定は3人の女中を側に侍らせていた。しかし後藤高治はそのようなことを気にも止めず告げる。


「蒲生が戦の最中に突如に寝返り、承禎様が……、承禎様が宇曽川での戦に敗れ、退却の道中に寺倉軍の奇襲により討ち取られたとのことにございます!」


「……何を言っている。そのようなこと、あるはずなかろう。お主は騙されているのだ。これも寺倉の卑怯な策略に違いない。まずは落ち着くのだ」


義定は世迷い言を、と哀れむような目で高治を一瞥する。


「中務大輔様、これは嘘でも騙されたわけでもありませぬ!私はこの目でしっかりと見たのです!」


「ほう……。見ていたのならなぜ助けぬ。お主が生きているということは、幾らでも助ける道があったであろう」


「寺倉は奇襲を仕掛けてきたのでございまする! 承禎様はその中心におりました。私はなんとか脱出したものの、承禎様は寺倉の兵に囲ま……」


高治から二の句が紡ぎ出されることはなかった。


高治は父に命じられ、承禎の護衛を命じられていた。しかし、承禎があまりにも馬を早く走らせるため、幸か不幸か、経験の浅い高治は付いていくことが出来なかったのだ。そのおかげで高治自身は辛うじて逃げることができたものの、追いついた時点で承禎は首を刎ねられていた。


「……」


義定は高治の嘘とは思えない声色に目を細める。そして徐々に顔を青く染めていった。


「無念にございまする」


「信じぬ、信じぬぞ……!」


義定は徐々に現実を実感してきたようで、大粒の汗をその顔に浮かべさせている。


「中務大輔様!」


鎧が所々擦り切れており、一部が血に滲んでいる伝令兵が部屋の外で跪いた。


「こ、今度はなんだ!」


「この城に敵軍が接近中とのことでございまする!」


「何?!誰の手によるものだ?まさか寺倉か!」


「い、いえ、裏切った蒲生の軍だと思われます!」


「蒲生下野守の仕業であるか! くっ、やはりこうなる前に手打ちにするべきであったな!」


義定は悪かった顔色を一転、真っ赤に染める。その目には定秀に対する憎悪が篭っていた。そして同時に父の死をその身に実感する。


「間も無く蒲生の兵は観音寺城を囲むでしょう。まずは城の守りを……」


「そんなことは分かっておる!俺が命じずともさっさと手配せよ!お主らは俺の命令がないと動くこともできぬのか!」


義定は叫ぶように高治に向かって捲し立てた。


そして義定は全てを家臣に丸投げし、自身は観音寺城から抜け道を通って逃れることを選んだ。そしてそれを止められる者は一人もいなかったのだった。



◇◇◇



(クソッ!なぜ俺がこのようにコソコソと逃げねばならぬのだ!)


義定は万が一の時のためにと先祖代々伝わる観音寺城から外へと出る抜け道を進んでいた。そして自らの状況に心の中で悪態をつく。


「もう少しでございまする」


「ああ、分かっておる!」


義定は苛ついていた。とにかく苛ついていた。薄暗い抜け道に影響はあっただろうが、供は義定の顔を見ることも憚られるほど不機嫌さを体現していたのだ。


出口へと早足でたどり着くと、そこには出口を無数の兵が義定を待ち構えるように囲んでいた。


「なっ……」


義定は声が出なかった。そしてその状況が詰みだということを察する。


「ふん、無様な。六角家の当主がこの姿とは、聞いて笑えるわい。さしずめ全てを家臣に放り投げて自分だけさっさと逃げようという魂胆だったのだろう。醜いことこの上ない」


定秀は青くなる義定を冷酷な目で見下す。


定秀は六角家の重臣筆頭。観音寺城の構造など義定よりも遥かに熟知していた。故に義定がこの抜け道を通って逃げ出してくるだろうということも容易に予想できていたのだ。


そして定秀は兵たちに命じて義定を捕らえさせた。


「くっ、何をする!離せ!!!」


義定は囚われの身となりながらも強い意志を込めた目で、定秀を目の敵にするように睨みつけている。そんな義定にただただ冷たく告げた。


「腹を自ら召されるか、それとも私に首を刎ねられるか、選ぶのだ。そなたの命を以って六角の将兵の命は助けて差し上げよう」


「定秀、お前何を言っておる!なぜ俺が死なねばならぬのだ。早くこの縄を解け。今ならまだ許してやる」


「立場が分かっていないようだな。それとも儂に殺されるのがお望みか?」


定秀は徐に腰刀を抜き、厳かな動きで義定の首に当てがった。


「嫌だ。俺は死にたくない。俺はまだ14歳だぞ!助けてくれ!」


なんて情けない様子か。仮にも六角家の当主が聞いて呆れる。蒲生の将は皆同じことを感じているだろう。


定秀は大きなため息を吐きながら、刀を首から離し、再び腰に差した。その様子を見て義定は自分が殺されずに済んだと勘違いしたのか、表情を一気に明るくする。


「せめてもの武士の情けとして、武家の当主として切腹の機会を与えようとしたが、もう良い。気が変わった。お前の汚い血で我が刀を汚す気にもなれん。おい、此奴の首を即刻刎ねよ」


「はっ」


義定はその声でこの状況がどうにもならないことを悟り、体から力を抜き俯いていた。


「これもお前がやってきたことへの報いよ。地獄で反省するのだな」


この言葉の後、金輪際義定を視界に入れようとはせず、すぐに踵を返しその場から去っていった。


そして背後から首が刎ねられた生々しい音が耳を通る。しかしその音に反応することもなく、蒲生定秀はその場を静かに立ち去ったのであった。


六角義定の死により、六角家は密かに滅亡した。


南近江は六角家の滅亡により統制を失い、独立勢力が乱立する群雄割拠の時代を再び迎えることになる。




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