野良田の戦い②
本日、「歴史・時代小説大賞」の結果が発表され、本作が入賞致しました。応援くださる皆様にまずは多大なる感謝を申し上げます。
◆
「新九郎様。六角が挙兵し、肥田城に向けて軍勢を進めているとの由にございまする」
8月17日。六角承禎が約2万3千の兵を動員し、宇曽川の南側へと兵を進めた。肥田城を力攻めで落とすためだ。
「来たか」
長政は小さく呟くように言う。六角は肥田城の水攻めに失敗し、家臣らは六角を追い払った高野備前守に賛美の声を送った。それから3ヶ月弱。六角はその時とは比べ物にならないくらいの大軍を率いているはずだ。当然のことながら以前のようにはいかない。
「兵の数は如何程だ?」
長政は厳かな様子で聞く。跪く伝令兵は少し震えているように見える。その様子から浅井がかなりの劣勢であることを悟る。
「……2万を優に超えるかと。六角はこの戦で我らを叩き潰すつもりかと存じまする」
一方浅井はせいぜい1万を少し超える程度。圧倒的な兵数差に、家臣らは一様に動揺の表情を露わにし、苦虫を噛み潰したような顔で俯く。
「そうか」
長政はあくまで冷静だった。短く一言発した後、悠然とまなこを閉じる。希望はある。寺倉と蒲生の存在だ。正吉郎に関しては底知れぬ何かを感じさせる。何か起こしてくれるのではないかという期待を長政も持ち合わせていた。蒲生の反旗も大きい。大きすぎる。だがそれでも2倍以上の兵力で平地での戦に挑むとなると、たとえ蒲生の離反があったとしても勝てるかどうかは不明瞭だ。そんな状況に長政自身も不安な気持ちがあったことは否定しない。だが大将なれど、不安を顔に出すわけにはいかない。長政の面持ちは既に大将のそれであった。
「如何しましょう」
重臣の赤尾清綱は額に大粒の汗を滲ませつつ長政に尋ねた。歴戦の猛者たる清綱たれど、迫りくる戦に動揺を隠せない様子だった。無理もない。二倍以上の兵数差だ。動揺は波紋する。徐々に騒めきを増す大広間に、長政は待ったをかけるように勢いよく立ち上がった。
「狼狽えるな! 我らは負けぬ。このために長い間忍従を貫いてきたのだろう?それももう終わりだ。お主らはこれからも六角の支配を望むのか?違うだろう。私に命を預けよ! さすれば必ずや浅井に勝利をもたらさん! 」
今回が初陣となる15歳とはとても思えない姿に、重臣の多くはその勇猛さの片鱗を見た。一瞬の沈黙の後、爆発するように家臣らの魂を乗せた声が響く。
「応ッ!!!!!!」
「出陣だ!浅井の旗を高く掲げよ!我らは至急肥田城の救援に向かう!」
家臣らを鼓舞した長政は、勢いのまま咆哮に包まれる大広間を出た。長政はすぐさま兵を編成し、浅井の三盛亀甲剣花菱の旗印を掲げ、六角が待つ宇曽川へ向けて侵攻を開始した。寺倉郷の戦い後の和睦で飛び地となった米原の弱小国人は、浅井と寺倉の南北から挟まれる形で以前から恭順姿勢を見せており、浅井との水面下での接触が為されていた。表向きには六角の勢力であるものの、実際には浅井に臣従する形なのが実情である。故に米原の国人衆は、浅井が野良田へと進軍するのを黙認していた。かくして、浅井軍は一切の抵抗を受けることなく宇曽川へと辿り着いたのだった。
◇◇◇
六角承禎は2万を超える兵を持って、宇曽川に近づいていた。その中に並々ならぬ決意を瞳に宿し、厳かに、そして静かに馬を進める者がいた。
その姿は蒲生定秀。これからの戦いにおいて、浅井側の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。
出立する数日前、定秀の居城である日野城にて軍議が執り行われていた。
「父上、左京大夫のことですが......」
「ああ、奴はすぐに出陣するだろうな。我らにも出陣の命が下ることになる。お主も準備を整えておけ」
「はい。分かっておりまする。浅井と一戦交えるに当たってどういった戦い方をするおつもりで?」
「正吉郎は浅井に我らの内応を伝えたと言っておった。結果こちらの申し出を受け入れたそうだ」
賢秀ならびに蒲生家の重臣たちは、定秀が正吉郎と密書を幾度となく交わしていることを知っている。今回の戦は浅井が主導。水面下で浅井と同盟を結んでいる寺倉は浅井との接触にも使えるというわけだ。離反を決めてからも定秀は多くの密書を寺倉に送っていた。
「ほう、浅井は我らのことを簡単に信じるのですな」
「浅井も我らの立場を理解しておろう。それに正吉郎からの伝言だ。信じるに値すると踏んだのだろうな。そして我らと衝突した際には戦う真似事をして切り抜けると言っておる」
「我らはそれに乗るべきでしょうな。無駄に兵を減らすわけにもいきませぬ」
「ああ。浅井と戦う際には刀の刃がない方を使って戦うよう兵に伝える。そして機を見て反旗を翻し、六角の兵をかき乱すのだ」
「はっ」
若くして六角の次期当主筆頭となった義定だが、権力を持つには若すぎた。
(悪く思うでないぞ。お主だけが悪いわけではないが、これも乱世の習いだ)
定秀は憐れむように遠い目をしていた。
「権力を振り回し我らを迫害しようとするその魂胆、許すことはできぬ。この作戦、必ず成功させるぞ」
長政とは違い、長年の経験があるからこその威圧感。声を張り上げなくとも心に響く言葉。家臣らを見つめる定秀の目は強い意志が宿っていた。
◇◇◇
8月18日早朝。
六角軍2万3千は宇曽川の南に着陣した。
「申し上げます!浅井軍1万はこちらへと進軍しているようにございまする。あと二刻程でこちらへと布陣するかと思われます!」
「ご苦労。下がって良いぞ」
承禎はつまらなそうな顔で伝令兵へと言葉を返す。
「ありがたきお言葉にございまする。では、失礼致しまする」
とはいえ承禎は六角家の当主。そんな天の上とも言える人間に労いの言葉をかけられたとあっては、少なからず感激していたようだ。
「浅井は滅ぼす。ここで賢政めの息の根を止めてやろう」
承禎はクックックと笑う。なにせ兵数差が兵数差だ。想像の内ならばどうしようと六角の有利は揺るがない。承禎の顔には驕りがあった。いや、油断はせぬという意識さえ微塵も感じさせなかった。そんな承禎を、定秀はただただ冷ややかな目で見つめていた。
しかし、承禎が持つ浅井への怒りも当然のことであった。長政は六角家の六宿老の1人である平井加賀守定武の娘、小夜姫を嫁がせていた。その小夜姫を平井家に追い返し、偏諱された「賢」の文字も捨てたのだ。再三再四に渡る浅井家の反乱には手を焼いていた。そしてその承禎はこの戦で全てを終わらそうとしている。これまでは許してきたが、今回ばかりは近江から完全に浅井の名前を消し去ろうとしている。その並々ならぬ決意は定秀も認めるところではあった。
ただ、それだけだ。浅井家との兵数差を見ると、手のひらを返したように態度を変えた。何があろうと負けるはずがない。そんな油断が全身に表れていた。
どんな戦であっても油断は禁物だ。戦国乱世に生まれた大名家の当主ならば、油断が命取りになるということを理解していなければいけないはずだった。しかし悲しいかな、これまで承禎自身には圧倒的な兵数差を持っての敗戦の経験は一度としてなかった。久政との戦が良い例だろう。あの戦では圧倒的な兵数を持って、久政を完膚なきまでに叩きのめした。あれが常に頭を過るからか、これまで何度進言しようと兵数差がある時だけは適当に遇らうあしらうだけであった。義治が討ち取られた戦でも、義治自身に戦の才がなかったからだと思い込んでいたのだ。
この戦でもその姿が変わることはなかった。そんな承禎に定秀は呆れていたが、口から出すことはなく心の中で伝えるに留めた。
野良田の決戦がついに始まる。六角軍が万全の体制で待ち構えている中、ついに浅井軍が宇曽川の北側に布陣したのだった。
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