野良田の戦い①

5月23日。浅井家当主、浅井新九郎賢政は歴史上極めて重大な決断を下す。今日より六角承禎から偏諱された「賢」を捨て、これからは長政と名を改めたのである。そして六角の重臣、平井加賀守定武の娘を六角へと送り返し、正式に六角との手切れを明白に示した。


そして5月25日、愛知郡・肥田城城主、高野瀬備前守秀隆が突如浅井家に寝返る。浅井家はかねてから寺倉・浅井の二家が六角に対抗するため、その境界線に位置する国人に調略を掛けていた。同じく国境を接する佐和山城の小川壱岐守も同時にも調略をかけていたが、こちらになびくことはなかった。だが、高野瀬備前守が寝返ったことで、地道な説得が実を結ぶ。出家して名を改めた六角承禎(義賢)はこれに激怒し、すぐさま2000の兵を以って肥田城へと向かった。肥田城に詰める城兵はおよそ700。およそ3倍の兵を持って攻め込んだ。承禎は城を攻め立てたが、肥田城の城兵によって固く守られており、戦況は一向に良くなることはなかった。これ以上無駄に兵を失うのを良しとせず、水攻めを敢行した。


愛知川と宇曽川を長さ五十八町、幅一間半の堤防をひと月近くかけて作り、水を堰き止め城を水浸しにするが、梅雨の時期であったこともあり堤防が決壊し、その莫大な建設費用をドブに捨てただけでなんの成果も得ることができなかった。承貞は歯を食いしばりながらこの水攻めを諦めることとなり、攻め方を変えて兵力でゴリ押しする力攻めに移行。一旦軍勢を退却させ、軍備を整えることに専念しようとしたのである。大軍を以って肥田城へと攻め込もうと画策する六角家の行動を知り、長政は1万を超える軍勢を整えるため準備を始めた。


5月末には畿内の情勢にも大きな変化があった。河内国で三好長慶の力を借りて守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免し、長慶と対立を深め再び安見宗房と和解したのだ。


元々高政は実力者であり、三好長慶と近く年々力を増していた遊佐太藤と強い関係であった安見宗房と対立をしていた。その対立が表面化し、居城の高屋城を追放されて堺に逃れたのだが、長慶ら三好家の力を借りることで高屋城へと復帰することができたのだ。そんな高政にとっては恩人とも言える長慶に、恩を仇で返すような真似をしたことで長慶は当然激怒し、すぐさま討伐の兵を挙げる。


7月には二度にわたり戦が勃発した。三好軍は7月4日に畠山軍を破り、7月22日には安見軍を破った。そして畠山は徐々に追い込まれていくことになる。7月末には竹中との婚礼の日時が確定する。日取りは10月下旬で、戦が一旦落ち着いた頃ということで双方合意した。そして8月上旬、俺は光秀を引き連れ小谷城へと向かった。浅井とともに対六角の会議を行うためである。


これまで蒲生の内応の申し出は家中でもごく限られた人間しか知ることはなかった。しかし野良田で六角軍と事を構えるとして、浅井にこのことを伝えないわけにはいかなかった。そしてこれは寺倉の戦争協力の申し出でもある。当然だがこの戦いでは浅井に味方する。


「掃部助殿、わざわざ小谷まで足を運ばせることとなり申し訳ない」


小谷城に到着するとすぐに大広間に通された。そこには浅井の重臣らも座っていた。皆推し量るように俺を見つめている。長政は軽く会釈しつつ俺に向き直った。


「とんでもございませぬ。今回は寺倉の浅井への助力を申し出に参った次第でございまする」


「掃部助殿がいれば百人力。誠に心強く思う。かたじけない」


長政はある程度予想はついていたのか、感謝を述べながらも顔色を変えることなく返答する。


「それだけではなく、浅井殿にお伝えしたいことがあるのです」


続けた言葉に長政は目を細めた。当主である俺自らが足を運び伝えに来たことだ。邪推も頭を巡っていることだろう。


「ほう。それはなんですかな」


長政は首を傾げつつ聞く。白々しい、とまでは及ばないものの、何か心待ちにしているかのように口角は僅かに緩んでいた。


「蒲生が浅井・寺倉と六角が当たる際にはこちらへとお味方するという内応の申し出にございまする」


浅井家の重臣が一斉にわざめき、驚きで顔を見合わせていた。長政も困惑の表情を浮かべている。それもそうだろう。蒲生と言えば六角で絶大な権力を持つ重臣中の重臣。寝返るなどという判断を安易に下すはずがない。それは六角の罠だ!と声高に言う者も現れる。


そんな家臣らを手で制したのは長政だった。


「失礼だが、それは真か?」


だが長政も家臣らと同様信じきれないようで、怪訝そうな表情を浮かべつつ聞き返した。


「真にございまする。六角義治率いる軍を寺倉にて撃退した際、我らは義治の首を討ち取りました。その義治を擁立していたのが蒲生殿にございます。結果、対抗馬であった次期当主当確の義定の心象は当然悪いため、現在その宿老筆頭という立場が危険に晒される恐れがある、と。故に六角での孤立を危惧した蒲生殿はこちらへの助力を申し出てきた次第にございまする」


あの後も時々密書が送られてくるが、定秀は義定にはかなり嫌われているようである。他の宿老にあいつを追い出せ!みたいなことも言っているらしい。承禎がそれを抑えるのがしょっちゅうらしい。肩身が狭い思いをしているのは間違いないだろう。だが六角家での権力を占めるのは専ら宿老だ。義定が追い出せと言ったところでどうにかなるものではない。


そんな状況を把握している俺からすれば、離反しようというのも決して理解できないことではないのだ。


「……」


俺の説明に長政は少し俯きながら考える様子を見せた。確かに立場を揺るがされる可能性があるとはいえ、定秀にも六角宿老としてのプライドがあるだろう。そう簡単に離反することなど考えられない。口を一旦開いた後、再びしばらく考え込んだ後、再度長政は口を開いた。


「……掃部助殿の言うことが本当なのであれば、我らにも勝機はあるだろう。掃部助殿、信じて良いのだな?」


見上げるような目つきでジッと俺を見つめる。俺はそんな長政に毅然とした態度で目をしっかりと合わせながら言った。


「ええ、蒲生殿も勝機を見出してのことでしょう。蒲生は我らとの戦において先鋒を務めると考えます。その先鋒が寝返り六角をかき乱すことになれば、たちまち六角は大混乱の陥りましょう。そうでなくとも、戦況は我らにとって良い方向に大きく変わることは間違いないかと存じます」


宿老が寝返った。その事実がどれほど大きいか。六角承禎は政務の多くを宿老らに任せている、言わば形だけの当主だ。その一翼を担う蒲生が離反したとあればもはや翼の折れた飛行機だ。混乱はどうにも避けられないだろう。


「ふっ。そこまで断言されれば信じざるを得ないな。掃部助殿、六角と戦う時はぜひ力を貸してくれ。よろしく頼む」


長政は力強く頷く。六角への畏れと不安に占められていた大広間も、六角を打ち倒すことへの期待の心情が漂い始めているように感じた。


「承知致しました」


俺は深く頭を下げた。8月下旬には六角が兵を揃え、2万をゆうに超える兵数で浅井と対峙することになるだろう。寺倉の兵数は最大動員数で約1500。守備兵を残すことを考えれば、この戦に動員できるのはせいぜい1000程度だ。


この戦いで六角の力は大幅に削がれることになる。史実とは展開が違うとはいえ、長政は六角を討つためかなり長い間地道に準備を進めてきたのだろう。その成果を発揮し、史実通り六角を打ち果たしてもらいたいものだ。

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