謝礼
「正吉郎様。織田家より文が届き申した」
桶狭間の戦いが終わり、織田の攻勢も一旦の終わりを迎えた。織田は岡崎城を接収し、城主に柴田勝家を入れて尾張へと帰還した。本来ならばここから一気に今川領を縮小させたいところではあるのだろうが、尾張の北には美濃の斎藤がおり、いつ攻め込んでくるか分からない。それ故時間的猶予は少なく、進軍できる期間は限られているのだ。
俺は光秀から文を受け取り、それを開く。
「どういった内容で?」
「これは秘匿していたのだが、私はわざと口を滑らした体で市に今川の攻略について助言をしたのだ。そのおかげで勝てたのだから、と謝礼を後日送ってくるのだという」
寺倉は織田と今川の戦には介入しないと言ったのだし、尾張訪問の際も信長は意味を汲んでなのかそのことについて何も言わなかった。だが、信長自身が許せなかったのか、律儀に謝礼と称し義元の愛刀だった宗三左文字(義元左文字)を送りつけてきた。当主である氏真と個人的な友好を結んでいると知りながら私にこれを送りつけようとは、信長も性格が悪い。とんだ地雷を押し付けて来たものだ。
これは暗に今川と手を切れと言っているように感じた。しかし裏切りなど世の常。六角から離反した俺に裏切りを示唆すれば手を切る可能性もあると思ったのかもしれない。
「ほう、何故そのようなことを?正吉郎様は彦五郎様と友誼を結んでいたはず。両家の戦には肩入れせぬ方が良かったのでは?」
「ああ、市が不安がってな。思わず同情してしまったのだ。私もまだまだ甘い。だが、同時に今川にも肩入れした。これは墓まで持っていく所存故、内容は言えぬ」
そもそもこれは助言でもなんでもなく、元々信長自身が成し遂げるはずだったことだ。その上俺は今川にも肩入れしている。元康が自害するよう仕向けたのは俺の指示だからだ。元康という存在がなくなれば、信長は西や北への勢力拡大が史実よりも格段に難しくなるだろう。つまり感謝される謂れはないということだ。
介入しないと言っていたはずが、それどころか結果的にどちらにも手を出すことになってしまった。しかし、このおかげで市の泣き顔を見ずに済んだのだから良しとしよう。
「なるほど。ではこれ以上は聞きませぬ。して、その謝礼とは?」
「ああ、それが治部大輔様の佩刀であった宗三左文字というものだそうだ。そんなものを送りつけて来るとは三郎殿も性格が悪い。わざわざ火種を持ち込むような真似を……」
「なんと!ですが無下にすることもできませぬな」
光秀は驚いた表情を浮かべる。織田の行動には驚かされてばかりだろうな。
「ああ、受け取る以外ないな。断って怒らせてはかなわん。むしろ旧松平家臣が欲しいくらいだ」
寺倉はマシになったとはいえ依然人手不足。松平宗家の長男・信康は生まれたばかりで、母親の築山殿と共に人質として駿府にいるという。だが、西三河を束ねる松平宗家の当主・元康が自害した今、元家臣団の多くは元康の遺言でも守ったのか、ある者は天の上、ある者は仕官を拒否し流浪の身となっている。もちろん今川、織田に下り仕官を受け入れた者も数多くいるが、重臣の多くはそれを受け入れることはしなかった。家臣団が分裂し領地を失った今、成長した信康が再興させない限りは、松平宗家は滅びたと同義であるというわけだ。肝心の信康はまだ赤ん坊であり、今川家の血も同時に引いている。これからは松平ではなく今川家の一門として育てられることとなるだろう。成長して松平家再興の志を抱いたとしても、資金もなければ領地もない。実質的に不可能だろう。
もし優秀な松平家臣を召し抱えることができれば、大きな力になることは間違いないのだ。
「ふむ。では上総介様に頼んでみてはいかがでしょうか。すでに仕官を拒絶して流浪の身となった者もいるようでございます故、色好い返事が頂けるかもしれませぬ」
「そうだな。では俺が文を書いて送ってみよう」
「それが良いかと存じます」
俺はその日のうちに文を書き、早馬で織田に届けるよう命じた。
◇◇◇
「上総介様、寺倉から御返答がきたようにございます」
西三河から帰還して4日が経ち、貞勝が信長の元に文を持ってやってきた。
「ほう、早いな。気に召したか?」
信長はクックックと笑う。寺倉はこれを機に今川と手を切るべきだ、それを伝えるかのように義元の愛刀を贈った。正吉郎はその意図を当然理解しているだろうと信長は確信していた。
「刀は有難く貰い受けるとのことでございます。この文はその後に書かれていることが目的のようなのですが」
信長は眉をひそめた。
(やつめ、なかなか図太いところがあるようだな。俺の前では恐縮した態度を崩した試しがなかったが、こうして文ならば強気に出られるというわけか。)
「言ってみよ」
「はい。それが、掃部助様は織田家に仕えることを拒んだ元松平家臣の身柄を譲って欲しいと申しております。寺倉は人手が足りていないため新たな人材が欲しいと」
「あやつ、俺相手にも一歩も引かぬな。それでこそ我が義弟だ。良いだろう。自由にさせてやれ」
信長は、心の中では正吉郎に最大限の感謝と賛辞を送っていた。それを公に伝えることは盟約上できない。あくまで内密に義元の形見を贈るだけに留めたのだ。
「はっ」
「捕虜とした者で仕官を望まぬ本多正信という奴がいたな。奴は足を負傷し戦働きができぬらしい。市から文官が不足していると聞いた。多少なりとも役にたつだろう。まずは其奴を送ってやれ」
織田家は仕官を拒否する旧松平家臣に対しての処遇を丁度決めかねていたところだった。それが謝礼として機能するならば渡りに船だ。
そして数日後、本多正信が寺倉に向けて護送されることとなった。
◇◇◇
「本多正信にございまする」
「本多殿、よくぞ参られた。私は寺倉正吉郎掃部助蹊政と申す」
俺が文を送ってから1週間後、織田から使者があり、いきなりこの正信の身柄を引き渡された。
「寺倉掃部助様でございましたか。そうとは知らず、無礼な真似を」
謀略に長けた腹黒いイメージだったが、話し方からはむしろ爽やかなイメージさえ持った。だが信長の奴、正信に何も伝えず黙って連れてきたな。ありがたいがもう少し考えて欲しかった。
「本多殿、率直に聞こう。文官として寺倉に仕えてはくれぬか?」
俺は単刀直入に尋ねた。織田での仕官を断ったならここでも断るかもしれない。
「ふふふ。私に拒否権はございませぬ。正直なところ、織田以外であれば何処へでも行くつもりでございました。殿のお言葉にございます故」
ここにきて初めて腹黒い一面が垣間見えた気がする。その笑い方、完全に悪役のそれだぞ。
だが、織田以外ならどこでも良いという正信の言葉で、俺の心配は杞憂に終わった。
「そうか。ではこれからよろしく頼む」
「はっ。身を粉にして働く所存でございます」
正信は優秀な文官として主に光秀の直属の部下という形で勤めることとなった。史実では主家に反旗を翻すこともあったし、念には念を置きしばらくは光秀の監視の下働かせることとなった。光秀ならば心配は要らないだろう。上手く扱えるに違いない。
かくして、新たに本多正信が寺倉家の一員になることになったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます