桶狭間の戦い④
駿河国・駿府館。
「上総介様!!!」
床を忙しく踏みしめる音。そして切羽詰まっている様子が感じられる口調に面々は身を引き締めた。
中に入ってきたのは、ボロボロの格好で足を引きずる一人の伝令兵であった。あちこちに生々しい傷が散見され、鎧を纏っている様子もない。おそらく這々の体でここまでたどり着いたのだろう。
「お主、そのような格好で無礼だとは思わぬのか!」
「も、申し訳ございませぬ!」
氏真の祖母である寿桂尼が辛辣な言葉を投げつける。しかし、目の前で肩で息をし、暗澹とした表情で跪くその兵を見て、只事ではないと察した氏真は、目配せしつつ右手で制した。
「この者の姿をみれば分かるでしょう、祖母上。お主、危急の報告があるのだろう。申してみよ」
「お、織田との戦にて、今川治部大輔様が御討死なされました!」
その一言に、駿府館の一室は時が止まったように凍りつく。
「まさか!織田は五分の一程度にしか満たぬ兵数しかおらぬのだぞ!負けは兎も角、父上が討死などあり得るはずがなかろう!」
普段どちらかといえば理性的で感情的になることの方が少ない氏真が、驚きと不信に心を冒される。故に傷を負っている兵に向かい怒鳴りつけてしまった。此度の今川軍の進軍に、“負け”の二文字が氏真ら今川家の人間の頭に浮かぶことなど一度もなかった。今川義元は織田信長を破り、上洛に向けて日の出の勢いで勢力を拡大させる。誰もがそう確信していたのだ。
「落ち着け、彦五郎!」
寿桂尼が一転して今度は氏真を窘める。氏真は陰鬱な感情と現実に折り合いがつかず、場の空気を乱していた。
「そのようなこと、言っても仕方なかろう。治部大輔様はお亡くなりになられたのだ。受け入れよ」
寿桂尼は涙を頰に伝わせていた。これは現実であると、氏真は一気にそれを実感した。
「……父上はどのように亡くなられたのだ」
「はっ!田楽狭間にて休息中であった治部大輔様は、突然の豪雨と共に織田方に奇襲を受け、戦場からの退却を始めたところ織田の兵に囲まれ、御討死なされました。ご無念でございまする」
「そうか」
氏真は短く噛み締めるように言葉を絞り出した。頭の整理は全くできておらず、悲痛な思いが身体中を駆け巡る。そしてこれからは自分が今川家の全てを背負っていくのだと考えると、父の死は到底受け入れることができなかった。言葉足らずだったのは、様々な思いが頭を占めていたからである。
「そしてその戦で松井五郎八郎殿、久野元宗殿、井伊信濃守殿、由比美作守殿、一宮宗是殿、蒲原氏徳殿らも討死になされたとのことでございまする」
諸将は一様に言葉を失った。その者らは全て有力武将や国人であったからだ。
「如何致しましょう。治部大輔様の弔いの戦を起こすべきかと存じます」
その提案をしたのは、今川家に忠義を尽くし、重臣でもある岡部正綱であった。従兄の岡部元綱は、此度の戦に参加している。
「いや、我らは父上という柱だけでなく有力武将らも大勢失っている。その上これから戦をする体力もないだろう。兵糧にも限りがある」
今川家は大大名ではあったが、米があまり取れず、長く大軍を動かすことはできなかった。今回の戦は兵糧を奪うための戦でもあり、それに失敗した以上ここで再び動くのは逆に他の国人らの離反まで招く可能性があるのだ。
「しかし、このままやられたままでは……!」
「そうは言っても現実的に厳しいことはお主も理解しているだろう。今は感情よりも優先すべきことがあるはずだ」
正綱を諭すように言う。正綱はそれ以後何も言うことはなかった。私は、つい先程まで動揺し過ぎで祖母に窘められたとは思えないほど落ち着きを取り戻していた。
もう現実が変わることはない。家臣らが大粒の汗を垂らしながら動揺を隠せない様子を見て、私はその混乱を収め、家臣らを纏めなければならないのだと覚悟を決めたのだ。
父上亡き今、今川家を支えるのは私だ。これからこの報せを聞いた国人は次々と離反し織田につくだろう。
まずは家中の混乱を収めることから始めなければならない。そして国境付近の国人衆の離反を防ぐことのできるよう、文を出して引き止めねば。私ができるのは文を書くことくらいなのだ。背伸びしても仕方がない。
「明日より皆喪に服すのだ。これも戦国の世では常。悲しむことは大事だが、我らはこれからの今川を守っていかなければならぬ。この私に、どうか力を貸してくれ」
私は深く頭を下げた。こんな私に付いて来てくれるのだろうか。そんな一抹の不安が頭をよぎる。
「もちろんでございます! 今川を守るためならば、我らは喜んで力をお貸ししまする!」
そんな不安は杞憂に終わる。皆前を向いたようだ。私はそんな目を頼もしく感じた。この者達がいれば、今川は立ち直れるかもしれない。そんな期待が胸を這うのだった。
義元の死がどれ程大きいのか。それを氏真が知るのはまだ先のことである。
◇◇◇
信長が桶狭間から帰還し、清洲城で休息を取っていた頃。
「上総介様、お耳に入れたき報せが」
伝令兵は信長の前に跪き、深く頭を下げた。
「なんだ」
「大高城に籠っていた松平元康ですが、降伏勧告を拒否し、僅かな手勢と共に三河・岡崎の松平家の菩提寺である大樹寺に逃げ込みました。追っ手が寺を取り囲み、降伏を促しましたが、織田家に降るを良しとせず、先祖の墓前で自害した由にございます」
「……そうか、竹千代は逝ったか」
信長は元康のことを弟のように思っていた。人質として織田家に囚われていたためであるが、肉親を手にかけたこともある信長であっても悲痛に感じていた。
(泥水を啜ってでもしぶとく生き残るような男であれば、家臣にして岡崎城を任せて今川への壁に使えるかと考えていたが……。あやつ、義元と共に逝くなど馬鹿なことを。自害するほど忠義に厚い男ではないと思っておったが、それは思い違いだったというわけか……)
元康の死は今後の歴史に大きな影響をもたらすこととなる。この後信長は空城の岡崎城を接収し、西三河を手中に収めることとなったのだった。
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