桶狭間の戦い②
5月19日。
俺は早朝のまだ暗がりに包まれる清洲城を出発した。家臣たちに一言告げ勢いのまま馬に飛び乗った。後ろからついて来ているのは10騎に満たないように馬の足音で感じた。兵も十分について来ていないのをさほど気に留めず、大高城外の砦へと一路向かっていた。
そして美濃街道を南下し、途中の熱田神社で馬を止めた。ここまでの道中榎白山神社や日置神社で戦勝祈願を行い、後続の兵たちの合流を待った。先走りすぎては命取りになるだけだ。ここで兵の士気を上げることも大将の役目である。
熱田神社に着くと、動悸の激しい心の臓に鞭打ちながら目を瞑り、息を静かに長々と吐き続けていた。その時俺の元に集結していた兵は300。ここで残りの兵の到着を待った。
いくら肝が太いと自覚している俺と言えど、この戦況において緊張と武者震いは止まることを知らなかった。しかしそんな自らを戒めるように笑う。
「ククク......。この俺が震えるとはな」
これから今川の軟弱な兵どもを打ちのめすことができると思うと気が昂ぶる。そう自分に思い込ませた。そんな俺を見て兵たちはなぜか青ざめていた。
それは俺が鬼のような目つきで笑っていたからだ。それを察するにはそう時間は要らなかった。
まさに第六天魔王の誕生。兵たちは恐怖に当てられ皆一様に震えていた。
日が昇りすっかり明るくなった熱田神社に清洲城からここへと向かってきた兵たちが到着した。その数2000。2万5千の今川には到底及ばない数であった。
しかし、休息を取り長い間思案を巡らせていたことで俺は冷静な頭を完全に取り戻した。
戦勝祈願の旨を記した願文を右筆に作らせ、兵がほとんど集結したのを確認し、俺は御神前に跪いた。
「この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、勝利を掴む」
その時、1羽の白鷺が舞い立つ吉兆が表れるように本殿の奥から甲冑の触れ合う音が響いた。
その音を耳にした俺は、立って勢いよく兵たちに振り返り声を張り上げた。
「これぞ熱田の大神が我々を護り、勝利に導くという印である!この戦、必ず勝利してみせようぞ!」
「応ッ!!!!!!」
俺の言葉に、目前の兵たちは一斉に歓声を上げた。
俺はその歓声を耳にし、その目に確かな闘志を燃やしながら静かに笑った。
◇◇◇
信長は熱田から善照寺砦へと向かう海岸沿いの道は満潮のために通れないと判断し、土手沿いの道で水野帯刀の守る丹下砦を経て向かった。
信長は丸根砦と鷲津砦に後詰めを送ることをしなかった。その結果、織田秀敏や飯尾定宗、佐久間盛重という一門や譜代の家臣を死なせることになった。しかしこれには理由があった。丸根砦と鷲津砦を犠牲にする事で、今川の先陣を西に引きつけた状態に留めおこうとしたのだ。
もちろん信長自身、苦渋の決断であった。一門や譜代の家臣を死なせてまで、この戦にはなんとしても勝たなくてはいけなかったのだ。この戦で負ければ後はない。
「政綱はまだか!」
程なくして簗田出羽守政綱が目の前に跪き、粛然と告げた。
「はっ、ここに」
「義元は如何している」
信長は予め放っておいたこの簗田政綱に今川兵の動きを逐一報告させていたのである。
「はっ!殿の命じた通り、蜂須賀正勝殿や前野長康殿らによって狭い谷間の場所に留まっておりまする!」
正吉郎が目をつけた谷間の入り組んだ場所で、農民たちを使い酒など差し入れを持って行かせ、今川兵がそこに留まるよう画策していたのだ。見事にその策略に嵌り、今その場所で休息を取っているという。
信長は馬鹿めとほくそ笑んだ。それは罠だ。兵の多さに油断しきったか。その油断が命取りになることを思い知らせてやろう。
「その場所はどこだ」
「桶狭間山の麓、田楽狭間にございまする」
「よし、ご苦労。下がって良いぞ」
そう言って政綱を下がらせた。信長は内から込み上げる何かを抑え、貞勝の前に立った。
「この戦はなんとしても勝たねばならぬ。貞勝、今から中島砦へと入るぞ」
「殿、それはなりませぬぞ!中島砦は大高城よりも低い場所にあり、敵から丸見えでございまする。そんな様子を見せればたちまち我が軍は危険を被りましょう!」
貞勝が額に汗を流しながら反論する。信長はそんな貞勝を一蹴した。
「貞勝、いいから黙って俺の指示に従え。これは命令だ」
信長鋭い目つきで貞勝を射抜いた。それに怯んだのか、貞勝は目を一度逸らし、歯を食いしばりながら首肯し背を向けた。
そして信長は中島砦へと兵を進めた。ここからであれば川沿いに谷底を一直線に上っていくことで義元の本陣を目指すことができる。
勝家の反対を他所に、織田軍は中島砦に入った。この機を逃すわけにはいかぬと、信長は冷静な思考を頭に残しながら、軍を義元の本陣に向けて進めた。
◇◇◇
信長が義元の本陣に近づくと、急に雲行きが怪しくなり、途端に視界を妨げるほどの豪雨が降りはじめた。
天も運も自分に味方をしていると直感し、信長は黒い微笑を露わに足を早めた。この間に義元の本陣に攻勢を加えるという考えだ。
半里ほど進んだところで、ついに織田軍は義元の本陣を視界に捉えた。信長はこの石水混じりの豪雨を味方に、義元を直接狙える位置まで兵を近づける。直接義元のいる本陣を俯瞰し、信長はこの豪雨で音がなかなか伝わらないのを見越し、今日一の大きさの声で叫ぶように後続の兵たちに告げた。
「狙うは今川義元の首ただ一つ!!!皆、進め!!!!」
その声を契機に、合計3000の兵たちは半ば狂乱が混ざったような声を張り上げ、一斉に本陣を目掛けて谷を駆け下りた。
◇◇◇
この豪雨の中、今川軍は直前まで勢いよく降りてくる織田軍に気づくことはなかった。それが視界に入った時にはもうすでに遅し。声を上げることもなく討ち取られていった。
「なんだ!!!何が起こっている!!!」
豪雨で視界がぼやけている中、兵たちが次々に悲鳴のような声をあげる。義元はその状況に動揺を隠せずにいた。
「まさか......。おのれ!信長め!!!お主ら、狼狽えるでないぞ!我らは兵数で圧倒しておるのだ。冷静に戦えば負けることはない!」
しかしその叫びが届くことはない。それに加え、陣形は細長く分散した形。義元を囲む兵も必然的に薄くなり、義元自身にも危険が及ぶことを瞬時に察知する。
そして同時にこの状況を立て直すのはほぼ不可能だということを義元は察した。
「くっ......。この借りは必ず返すぞ。退却だ!!!」
義元は単騎この戦場から脱出することを目論んだ。しかしそれは叶わない。目前に織田の兵が迫っていたのだ。義元を守る兵は数えられるほどしかいなかった。
その兵たちもあっという間に倒され、ついに義元は孤立した。そして目の前に立つのは織田の兵。その中の1人が義元に向かって突進してきた。
「我は織田の将、毛利新介なり!今川義元殿のお命、この我が頂戴致す!!!」
その姿はまさに猪突猛進であった。その勢いに一瞬怯みながら、義元は覚悟を決め刀を抜いた。
激しく打ち合ったのち、義元は胴を刀で突かれ馬から落ちた。体を強く打ち付けた義元は痛みに悶えそうになるのを抑え、直ぐに立て直そうと手を付いたものの、その時にはもう織田兵に囲まれ、八方塞がりとなっていた。
そして義元は自らの死を覚悟する。
(くっ......。我が天命、ここで尽きるか。心残りは、我が子である彦五郎だ。あやつが私の亡くなった後今川家を背負えるだろうか)
死を前に涙を堪えつつ、我が息子に思いを馳せる。あの心優しく、ただただ真っ直ぐな氏真に今川の大将が務まるだろうか。
そんなことを考えている間に、義元の首は既に刎ねられていた。
ーー今川義元、討死。
義元の死は日ノ本に大きな衝撃をもたらした。この戦がこれからの日ノ本を大きく変えていくことになるのは言うまでもない。
そして義元の首を刎ねた直後、その戦勝を天が自ら祝うかのように一条の光が差しこんでいた。
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