名門の凋落
桶狭間の戦い①
永禄三年(1560年)5月12日。
今川家の実質的当主、今川義元はついに尾張に向けて進軍を開始した。その報せは勿論信長の耳にも入っていた。
「ようやく来たか」
俺は静かに呟く。素破からの報せは迅速で、進軍開始の報は翌日に届いた。
「如何なされますか」
その報せを素破から聞き、いち早く耳に入れようと大広間に入り俺の目の前で跪くのは、古くからの忠臣、村井吉兵衛貞勝。行政手腕に長けており、俺が当主になったその時からの家臣で、この織田家内で最も信用のできる人間の1人だ。
「今は辛抱の時よ。兵の準備をしておけ。その時が来れば沙汰を下す」
俺は冷静な言葉を発した。だが家臣らは総じて額に汗を滲ませ、心ここに非ずといった様子であった。それは貞勝も同じようで、焦りと不安が声に如実に表れていた。
「はっ」
そう声に出すものの、納得はいっていない様子。それもそうだ。こうしている間にも今川2万5千の大軍がここ尾張に向かって刻一刻と迫りつつあるというのに、ここで呑気に待てと言っているのだ。だが、今はまだ動くべき時ではない。
5日が経ち、この時には戦の準備は整いつつあった。兵は5000。5倍の兵を迎え撃つには物足りない。それどころか、正面から立ち向かったところで勝ち目はない。
だが俺は至って冷静だった。家中の混乱を避けるため意図的に秘匿していたものの、大軍を率いてここ尾張に侵攻してくるというのは既に知っていた。田植え後のこの時期、今川が大軍を率いて尾張に攻め込む。これを分かった時点で知れば、織田家中は纏まりがなくなるだろうと踏んだわけだ。
正吉郎が提案したこの兵数で今川を討つ奇策。もちろん俺の頭にも、この数で迎え撃つのならば大将首を最優先で狙うべきだ、というのは考えにあった。だが奴はその場所まで仄めかしていた。本当に奴は何者なのか。そんな考えが頭を過るのはもはや日常となっていた。
俺は改めて地図を開く。
東の沓掛城から西の大高城と鳴海城へ向かうには起伏のある丘を越えていくか、谷底を通るしか方法はない。正吉郎はここに目をつけたというわけだ。
この場所は大軍が通るには縦に列を長くするしか方法はない。ここに狙いを定め、俺は一戦に全てを賭けることにした。だが、そのことを今俺の口から出すことはない。どこに間者がいるかは分からない。直前までただただ無言を貫く。例え家臣に一時的な不信感を与えたとしても、だ。勝てば信用は倍になって戻ってくるが、一時の不信感を気にし、結果的に滅亡を招くことになればそれこそ元も子もないのだ。仮にここで打って出たとしても圧倒的な兵力差の前には無力。必然的に今川が考え得ない奇策に頼らざるを得ない。
5月18日。今川の2万5千は沓掛城へと入り、尾張攻めの軍議を開いていた。
三河で今川の傘下にあった松平元康はこの日、大高城に兵糧を入れることに成功した。これを俺の元に報せたのは織田玄蕃允秀敏と佐久間大学助盛重。秀敏は鷲津砦を、盛重は丸根砦を守っている。この2つの砦と正光寺砦、氷上砦は大高城を攻めるにあたり造られた砦であり、織田は俺に当主が変わってから少しずつではあるものの、奪われた鳴海城、大高城、沓掛城を巡る争いにあたりじわじわと盛り返し始めていたのだ。そこに大軍を向けてきたのが義元だ。
「どうなさいましょう」
再び村井貞勝が俺に問いかけた。目の前には秀敏と盛重の2人がおり、家臣も全員が勢ぞろいであった。対今川の軍議である。
「やはり籠城だ。守りに徹する以外勝ち目はない」
「いや、籠城したところで多勢に無勢。圧倒的な兵力差に対してはどうしようもないだろう。ここは打って出るしか」
家臣らは口々に自らの意見をぶつけ合う。だがそんな論議に意味はない。籠城しても真っ向から戦ってもどちらにしろ無策で挑めば勝ち目はない。
俺は厳かに手を前に出し、喧騒に揺れる大広間を鎮めた。一度目を瞑った後落ち着いた様子で口を静かに開く。
「今は耐えろ。そしてもうじき夜も更ける。秀敏、盛重。お主らは砦に戻り、戦に備えよ」
「いつまで待つおつもりでございますか!こうしている間に今川は大軍で攻めいる準備をしておるのですぞ!悠長なことは言ってはおられませぬ。殿、ご決断を!」
貞勝は俺の言葉に痺れを切らしたようだ。その言葉に続いて諸将も“そうだ”と同調の様子を見せる。
籠城か出陣か。二択を強いられているわけだが、もう心の中では決まっている。もう少し辛坊しろ。俺はそう念じたが、それが伝わることはない。今川は兵糧が足りておらず、これは尾張を攻めるというだけでなく、奪うための戦でもあったわけだ。つまり、籠城で兵糧切れの退却を狙うというのも立派な策の一つであった。だからこそ、出陣か籠城かの究極の二択に迫られることとなったのだ。
「お主らは俺が無策でこうして座っていると思っているようだが...」
「そ、そのようなことは!」
貞勝らの顔に影が差しすぐに慌てて否定するが、俺はそんな様子に脇目も振らず告げる。
「ククク。暫し待て。もう少しの辛抱だ。お主らはいつでも出陣ができるよう準備を怠るな」
俺はそう言い残し大広間を退出した。俺が立ち去った後、大広間は大変な騒ぎになったようだ。
「上総介様は何を考えていらっしゃるのだ。ここで決断をせねば我らはどうしようもない!」
「もう織田家は終わりか……」
「やはりうつけはうつけのままであったというわけか……」
不信感を露わにする者もいれば、半ば諦めの言葉を漏らす者もおり、中には俺がいないことをいいことに陰口を叩く者もいたようだ。
今は仕方がない。これは織田家の存亡を賭けた戦い。巨人に真っ向から立ち向かっても勝ち目など全くないのだ。正吉郎も10倍の六角兵を討ち果たしたのだ。奴にできて俺にできないはずはない。
俺は一世一代の戦を前に、静かに目に闘志を燃やしていた。
◇◇◇
5月19日未明。
早馬にて報せが届いた。
ーー松平元康と朝比奈泰朝が1000の兵で丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始。
俺はこの報せに飛び起きた。自室から出て大広間に急ぐ。中に入ると家臣らがどっしりと沙汰を待つようにこちらを見つめていた。覚悟は決まったようだな。
俺は上座に向かうことなく、立ったまま鋭い目つきで家臣らを見渡した。皆俺の言葉を待っている。
「思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし」
俺は敦盛を舞い出した。その様子を見て家臣らは怪訝そうな顔を浮かべる。
「殿はどうなされたのだ」
「大軍に恐れをなして気でもお触れになったか」
小さな声だったが信長の耳には届いていた。だがそんな家臣らを気に留めることなく舞い続ける。
「殿ッ!」
大きな声でそれを遮ったのは柴田権六勝家。信行の元家老で、信行を父の後継者にしようと林秀貞と共に画策し俺を排除しようとしていた者だ。
俺に敗れ降った勝家だが、俺の度重なる不可解な行動に耐えきれなくなったのだろう。声を張り上げて俺を諌めようとした。だがその勝家を、殺意に似たものを込めた目つきで制する。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
そして力強く家臣らを威圧するように続けた。そして敦盛の歌詞を頭の中で反芻する。
人間50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない、夢幻の如くなり。
「機は満ちた。今こそ我らが打って出る時!当然準備は整っているな?勝利への道は俺が切り開く。俺は必ずや今川を打ち果たし、この尾張に再び平穏を取り戻すものなり!皆の者、我に続け!」
俺は勢いのまま大広間を後にした。背後からは沈黙の後地揺れの起こる程の雄叫びが挙がる。
そして、俺は後から兵が付いてくるか確認すらせず、ただ前だけを向いて馬を走らせたのだった。
ーー桶狭間の戦い、開幕。
歴史に名を残す一戦が、今この時始まろうとしていた。
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