猪の飼育
永禄3年(1560年)3月。
領内では石鹸が広まりつつあった。これまでは高級品であった石鹸も、寺倉家が相場よりも大幅に安価で提供し始めたために庶民の手でも届くようになっていた。これのおかげで、洗濯板の売り上げも促進することになった。石鹸と合わせて使うと汚れの落ちが格段に良くなるのだ。
だが、消費量が増えるにつれ、石鹸の原料となっている獣脂が慢性的に不足しつつある。これからはジャガイモを揚げるための油も必要になってくることが予想される。まだジャガイモは生産がほとんど始まっていないため問題ないが、庶民の中で広まり多くの人が食べるようになると、需要に供給が追いつかなくなるだろう。
それに、今の獣脂の入手源は100%狩人の手によるものだ。つまりは供給にムラがあり、安定供給が難しいということであり、生産が滞ってしまう恐れがあるということだ。
石鹸はすでに寺倉家の主要産業となりつつあり、財政を大きく支えている。領内だけでなく、畿内や地方にもこれから広まることを加味すれば、獣脂の安定供給は急務だということになるわけだ。
その安定供給を成し遂げるにはどうすればいいか。その話は数日前に遡る。
「正吉郎様、沼上の民よりご相談が来ております」
俺が自室で政務を行なっていると、部屋の外から勘兵衛の声があった。
「如何なる用件だ」
「沼上に住む民が猪の子供をどうするべきか、正吉郎様に沙汰を求めているようでございます」
「猪の子供?」
俺は首を傾げる。子供なら如何様にでもできるだろう。その辺の裁量は与えているはずだ。もし悩んだならば利家に聞くこともできるだろうに。俺は沼上についてはほとんどを利家に委任している。代官としてではあるが、大きな権限を持たせている。
「ええ、猪の子供となれば脂もあまり取れませぬし、食用にも向いていません。だからと言ってむやみに殺すこともできず、逃せば将来的に我らに害を与える可能性が高い、と」
なるほど。大人の猪がいれば子供の猪もいる。両者が共に行動し、里に降りてくることだって少なくないだろう。大人になった猪は殺すとしても、子供の方を無闇に殺すことははばかられるというわけだ。
「では思い切って人目のつかない場所でその子供達を飼育するか」
森を切り開いて猪の畜産を始めれば、安定供給は可能になるだろう。
「飼育して我らの手に負えなくなる危険性があるのでは? 」
「それはそこまで問題にならないだろう。子供の頃から躾ければ人間を襲うことはない」
確かに飼育するとしても危険が無いとは言えない。だが、ウリ坊の頃からしっかり躾けておけば人間に害をなすことはない。調教師の能力が問われる。馬を飼育している者に頼めばそう問題にはならないだろうか。その子供になれば猪本来の凶暴性は失われてくるはずだ。
「なるほど。確かに飼育することで今の獣脂不足を解消することが可能になるかもしれませぬな」
ほう、と勘兵衛が相槌を打つ。石鹸の生産にも好影響をもたらすことを理解したようだ。
「ああ、だから猪の子供は殺さず然るべき人間に育てさせるよう言ってくれ」
「わかり申した」
勘兵衛はそう言って立ち上がり、退出していった。城下にわざわざ来ていたということだろうか。もしそうならば大した忠誠だ。ただ、今は正式な寺倉の民とはいえ、元は底辺層。新しく寺倉にやってきた人間はまだ良いが、以前から寺倉領に住んでいた民には納得していないものもおり、卑しい身分だと見下す者もいる。そういったことは禁止しているものの、やはり差別意識というものは簡単に消え去るものではない。河原者や流民が既存の民に認められ、共存共栄できるようにしていきたいが、まだ道は長いようだ。
何はともあれ、半月が経ったころウリ坊の飼育が始まった。ただ、領民の多くは猪を害をなすものとしか考えていないだろうし、このことは秘匿すべきだという結論に至った。
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