尾張訪問③ 正吉郎と三郎

清洲城城主で、今は尾張国一国を治める、三英傑の1人である織田信長は、妹から送られてきた手紙を見て、眉を寄せていた。


「今川が尾張に攻め込んでくる、か」


心中は穏やかではなく、歯を軋らせた。海道一の弓取りの異名を持つ今川治部大輔義元が尾張に攻め入ってくるのだから、当然の揺らぎである。


あやつは何者なのか、俺は不思議でならなかった。自分は幼い頃から変わったものを好み、他の者とは一線を画した感性を持っていると自負しているが、寺倉正吉郎という1人の男に、その“変わったもの”を感じていた。だからこそ、会う前には考えにもなかった婚姻を寺倉家と結んだ。


正吉郎は10倍の兵で攻め寄せた六角を完膚なきまでに叩きのめし、兵を殆ど失うことなく勝利した。そんな正吉郎を以前にも増して気にかけるようになっていた。同時に、兄弟のような存在だと感じ始めてもいた。


そんな正吉郎が、今川が攻め込んでくる準備をしているという。しかし、寺倉は今川とも友誼を結んでおり、手を出すことはないと言っていた。市に情でも移ったか?


それはそれで都合がいい。だが、正吉郎は“口外無用”だと市に言ったそうだが、市が俺に伝えることは分かっていてのことだろう。ふん、小賢しい真似をしてくれる。


悪態を吐くが、内心では感謝をしていた。そして手紙には、今川を討ち果たす方法まで記載してあった。


今川は田植え後に数万の兵を率いて尾張へと侵攻を始める。鳴海に向かう狭い谷合いで今川の陣が長く伸びたところを、山上から奇襲して今川義元を討ち取るべき、か。なぜその地形を知っているかを突っ込むことはない。あいつは俺と同じ“変わり者”だ。することにいちいち驚いていては身が持たぬ。さぞかしあやつの家臣らは苦労しているだろう。


しかし、義弟に対策案まで出されては、負けるわけにはいかぬ。俺は拳を強く握り、勢いよく腰を上げた。


「ククク、今川義元。俺は必ずや貴様を討ち果たす。尾張に攻め込んだこと、後悔させてくれようぞ。覚悟してもらおうか」


俺は今川侵攻に備えるべく、念入りな準備に取り掛かった。




◇◇◇




俺は半兵衛と別れ、一路南へと向かっていた。大垣を越え、揖斐川を下る。荷物がある行きに関してはこれが1番のルートだ。この時代の揖斐川は長良川や木曽川と繋がっているため、最短であるというわけだ。川を下った後は津島を通り、清洲へと徒歩で向かった。


津島は織田家を経済的に支える商業都市だ。古くから津島神社の門前町として栄え、交通・経済の要も担う湊町として繁栄してきた。後世では戦国時代において尾張最大の商業都市であり、「信長の台所」とも呼ばれているほどで、これがなければ信長の天下は無かったと言っても過言ではない要所なのだ。


松原湊に関してもこのような寺倉家の経済を担う港町とするつもりだ。今はまだ発展途上であるが、この津島で見た中で良かったことは松原にも活かしたいと思っている。


そんな津島の視察を終え、信長の居城、清洲城へと到着した。婚姻関係を結んでいるということもあり、丁重に扱われた。その日は大晦日。正月の挨拶の前に、俺と信長は再会を果たした。


「正吉郎。久しいな」


信長は大晦日ということで歓迎を兼ねて宴を催してくれた。久しいといっても半年ぶりだ。


「三郎殿こそお元気そうでなによりでございます」


「ククク、聞いたぞ。貴様、10倍の六角兵を完膚なきまでに叩きのめしたそうではないか。尾張でも話題になっておるぞ。やるな」


そこまでなのか......。まぁ離反で独立したばかりの弱小国人が圧倒的な兵数を誇る元主家である六角家を無傷で撃退したとなれば話題になるのも頷ける。話題に乏しい京ではさらに評価されているのかもな。なにせ将軍が一目置いているなどと言っているのだ。普通なら寺倉のような弱小勢力には興味さえ持たないだろう。将軍は三好の抑圧を跳ね除けての復権を狙っている。とことん打算的なのだ。京の公家にも財力を誇示するようにかなりの献金をしてきた。概ね評判は良いだろう。公家の間ではこの話題で持ちきりに違いない。


「偶々でございまする」


偶々だ、これが俺が褒められた時の口癖になりつつある。それが一番波風立たないからでもある。


「そう言うな。俺が珍しく褒めておるのだぞ」


確かに信長が褒めるというのはあまり見たことが無い。だが、そうは言っても自分の手柄のように言うのも好かない。


「勿体無きお言葉にございます」


とりあえずは当たり障りのないように答えておいた。信長は面白くなさそうに眉を動かすと、途端に表情が一転する。


「それはそうと、貴様市とは随分と仲睦まじく暮らしていると聞いた。城下ではおしどり夫婦と評判のようだが、閨ではまだ手を付けてはおらんようだな。それはなぜだ」


人を斬り裂けるのではないかという程の鋭い視線が俺の目を射抜くと、空気が一瞬にして凍りつく。というかそんなことなんで知っているんだ。織田から市と共にやってきた侍女に報告させているのか?怖いわ。


ただ、結婚したというのにその妻に手を出さないというのは予想以上にマズかったのかもしれない。隔意があると取られてもおかしくない。


俺は背筋が凍りつくのを感じ、信長の目線から目を逸らした。


「答えよ」


普段でも十分威圧感がある人だが、今は一段と怖いな。正直逃げ出したい。


「市はまだ身体が細くてか弱いため、もし市が子を成せば赤子と共に市も死なせてしまう恐れが大きいと存じます故、お市が15になるまでは控えております」


「で、あるか」


「心配なさずとも、織田家に隔意があるなど、そういった意味では全くございませぬ」


「ふん、そんなことはもとより心配しておらぬわ」


今川が攻め込む準備を進めているというのを市から聞いたのだろうか。その後に「今川との戦で俺に助言まで伝える程なのだからな」という言葉が続くように感じたからだ。おそらく、俺の“織田と今川の戦には一切介入しない”という言葉を尊重しているのだろう。信長の言葉には感謝の意が暗示されているようにも感じた。


何のことやら。俺は何もしてませんよ。


その後も今川軍侵攻のことが話題に上がることはなく、その日はお開きになった。


翌日、改めて新年の挨拶をした。贈った品は全て信長の気に召したようで、満足そうな表情をしていた。俺は信長に許可を貰い、清洲城の料理番に頼み食材を集めてもらった。


前置きとして肉食の有用性を伝え、猪でカツや猪肉の味噌汁を作り信長に出した。信長は変わったものが好きなため、抵抗なく口に入れた。名古屋といえばやはり味噌。とはいえこの時代は八丁味噌が作られている訳ではないので、今時点で流通している味噌を使った。


味噌カツは信長の口に合ったようで、お代わりまで求めてきた。柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益、森可成といった信長の重臣たちにも振る舞い、その反応も上々だった。


料理は心を掴む。その甲斐あってか、これ以後織田家中はかなり寺倉に対して好意的な目をするようになる。食べ物の力はすごいな。


目的を果たし、俺たちは鎌刃への帰路へと着いた。帰りは信長からもらった塩くらいで荷物が少ないため、熱田の町から桑名まで船で行きその後山道を歩くルートだった。


荷物は少なかったとはいえ、これまでの道中に加え帰りの山道だ。かなり過酷な帰路だったのは言うまでもない。



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