市の心中

最近、正吉郎様が忙しそうに動いています。それでも私のことも色々気遣ってくれているのを感じますが、夜の暗い時間以外はほとんど一緒にいられないので悲しいのが本音です。


正吉郎様は寺倉家の当主ですし、やらなくてはいけない事が沢山あるのはわかっています。だから、私が我儘を言うわけにはいかない。それもよく分かっています。


それでも、寂しいものは寂しい。この城には侍女以外に他に頼れる人もいないので、邪魔だとは分かっていても構ってほしい。子供っぽいと言われても仕方ありませんが、それを正吉郎様は察しているようで、一緒に居られる時はずっと一緒に居てくれます。


不安な気持ちはお見通し、ということでしょう。常に気遣ってくれているので、時折申し訳なさまで感じてしまいます。


普段でさえその調子だというのに、年始には兄上に会いに行くと言います。私も付いていきたいと言ったのですが、頭を優しく撫でられて、歩きで大変だからとやんわりと断られてしまいました。


私は頰を膨らませて必死に抗議しました。そうすると、正吉郎様は困ったような顔を浮かべて、こう言いました。


「出立する前に埋め合わせするから、許しておくれ」


約束ですよ!と私は身を乗り出して言いました。


ここ、鎌刃城に来てからとても楽しい日々を送っています。それも全て正吉郎様がいるから。


元々私はこの婚礼に乗り気ではなかった。むろん家格が云々というわけではなく、尾張に好いた相手がいるからという理由でもない。


恋愛に自由がないことも分かっていました。


それでも婚礼の翌日、それまで抑えつけていた不安定な気持ちが堰を切ったように溢れ出し、こっそり城を抜け出してしまった。幼い頃からやんちゃな兄上と遊んでいたので、見張りにも見つかることはありませんでした。後でその見張り番は怠慢だとこっぴどく叱られたらしいので、後で誠意を込めて謝ったら固まっていましたね。


私は町の外まで一目散に走った。でも、土地勘のない場所で迷ってしまったせいで悪い人捕まり、必死に抵抗しましたが、体格でも不利な私には手に余る相手で、追い詰められてしまいました。いや、悪い人とは私のことか、と今更ながら後悔しています。


そんな時、救ってくれたのが正吉郎様でした。自らを顧みず、怪我をしながらも私を守ってくた。そして勝手に抜け出した私を叱りながらも、優しく頭を撫で、抱きしめてくれました。


不安な気持ちはとうに露見していて、もう隠す必要はない、俺は何があっても市の味方だ。そんな風に仰っていました。そんな正吉郎様は格好良くて、その時初めて恋を知ったのだと思います。


「市、今日は少し遠出しようか」


正吉郎様は、約束通り私との時間を作ってくれました。私は鎌刃以外の町を見たことがありません。そんな私を気遣ったのでしょうか。鎌刃を出て他の町に行こうと言いました。


「良いのですか?」


私は小首を傾げ、聞き返しました。


「市、君は俺の妻だ。俺の見ている景色を少しでも見せてやりたいと思っているんだよ」


そう言って顔を背けてしまいました。照れているのでしょうか?


向かった先は、物生山城の城下、松原という湊町でした。以前まで六角家という大大名の湊だったそうなのですが、正吉郎様の采配によって戦に勝って得た湊なのだそうです。私のところまで詳しい情報が回ってくることはありませんが、噂では10倍の兵を無傷で打ち破ったと聞きました。正吉郎様は私と歳がそう離れているわけではないのにすごいです。私もしっかりしなくてはいけませんね。六角家とはとても強大な存在だと言います。私が支えなければ、正吉郎様は潰れてしまいます。


湊も栄えており、船も沢山あります。人も鎌刃の町と負けず劣らず多く行き交っています。こんな町を作ってしまうなんて本当に凄いです。


「これからこの町を日ノ本随一の湊町にしたいと思っている。その景色をいつか市に見せたい」


なんと、ここを日ノ本で随一の湊町にしようと言うのですか!なんとも壮大な展望だと思いますが、正吉郎様の真面目な表情を見ると冗談ではないのでしょうね。でも、不思議とできないとは思いません。


「それは楽しみでございます」


私はコロコロと笑いながら言いました。


「冗談じゃないぞ」


「ふふ、分かっております」


正吉郎様は、小さく息を吐きました。私が冗談だと思っていると思ったのでしょう。そのあと、頭を撫でました。子供扱いされている気がしますが、これがなんとも気持ちいいもので、撫でられているうちに不満はいつの間にか霧散しています。


「物生山城も同時に改築している。この城を10万の兵でも落とせない難攻不落の城にしたいと思っているんだ」


今度も冗談ではない。それもちゃんと分かりました。


そう言ったあと、私の手首を優しく掴み、物生山城の方へと歩き出しました。


湊から城へと続く一本道には、沢山の商店がありました。まだ完成していないこの町ですが、既に多くの店が商いを営んでいました。ここが商いの中心になる。正吉郎様はそんな風に言っていました。


通りを私と正吉郎様は2人で歩きました。店を一つ一つ見て回ります。その時目に留まった髪櫛を、正吉郎様は買い、私に贈ってくれました。これまで意識はしていませんでしたが、これが初めての正吉郎様からの贈り物でした。こんなことでもここまで嬉しいものなのだと知りました。


南から長く続く峰の北端に位置する物生山城の、近くにある開けた場所。湊からの一本道を抜けたあと、緩やかな山道を歩きそこに着くと、目に移る風景はとても美しいものでした。


青空と目下に広がる大きな湖、淡海。永遠に広がっているように見える、目下の広大な海の先には山がありました。


尾張から見える広い広い海。その先には何があるのだろう。見るたびにそう思っていました。しかし、ここから見る景色は、それとは全く違った景色でした。広い海の先に大地があるのです。私はこの景色が好きになりました。


「これがこの城から見える景色よ。気に入ったか?」


「はい!」


私は興奮を隠せずに言った。そんな私を見て正吉郎様は満面の笑みを浮かべながら、大きく二度頷いた。


私は勇気を出して手を握りました。すると正吉郎様は、少し戸惑った様子を見せながらも、手を握り返してくれました。


私は自分の顔が真っ赤なことに気づきましたが、西陽が顔に当たっていて見られずに済みました。心なしか正吉郎様の顔も赤くなっていたように感じましたが、それも夕日のせいでしょう。


しばらく景色を眺めた後、私たちは手を繋いだまま、仲良く鎌刃城へと戻ったのでした。



◇◇◇




その夜、正吉郎様は徐に話し始めました。


「市、心して聞いて欲しい。素破の調べによると、どうやら今川家が来年の田植えの後に織田家を攻めようと画策し、数万の軍勢の支度を進めているようだ。だが、心配は無用だ。あの三郎殿ならば必ずや今川を撃退するであろう」


「なんと!しかし、心配は無用とは一体なぜ言えるのですか?」


私はその話を聞いて、不安でたまらなくなりました。心配は無用だと言われても、それが私の心を通ることはありませんでした。そして、その意図を正吉郎様に聞きました。


「もしも俺が三郎殿ならば、俺が寺倉郷の戦いで寺倉の数倍の六角軍を討ち破った時のように、今川軍が鳴海に向かう狭い谷合いで陣が長く伸びたところで、山上から今川義元を奇襲し、かの首を討ち取ろうと考えるだろう。寡兵で大軍を破るには大将首を狙うしか策はないからな。確かに実家が心配なお市の気持ちはよく分かる。だが、一方で寺倉家は今川家とも友誼を結んでいるため手は出せぬのだ。だからこれは口外無用で頼む。俺が何も言わずとも、軍略に優れた三郎殿ならば俺の考えた策くらいは、当然考えつくであろう。だから三郎殿を信じるが良い」


なんと。正吉郎様は、今川の撃退方法について考えを教えてくださいました。でも、織田と今川の戦に手出しができないので、私から兄上様に伝えてほしいと願っているかのようにも思えました。


そして、私は正吉郎様に内緒で兄上様に文を認めました。


『兄上様、これは正吉郎様から閨の中で他言無用と言われたことではございますが、織田家の一大事につき、兄上様にお伝えいたします。正吉郎様は、今川家とも友誼を結んでいるため、この事は伝えてはならないと申されました。しかし、危急の事態故、いけないこととは分かりつつも、文にて伝えさせていただきます。正吉郎様のお話では今川が来年の田植えの後に数万の軍勢で織田家を攻めようと戦の支度を進めているそうにございます。正吉郎様はかの寺倉郷の戦いの時のように、鳴海に向かう狭い谷合いで今川の陣が長く伸びたところで、山上から奇襲して今川義元を討ち取るべきだと申されております。これは兄上の心の内に留め置きください。くれぐれも、新年の席で口を滑らすことのないよう、よろしくお願い致します。ご健闘を心よりお祈りしております』



◇◇◇



俺は、市に桶狭間の戦いについての情報を伝えた。まぁ何もしなくても信長は史実通りに今川義元を討ち取るだろう。しかし、市を不安にさせたくない。その思いから口を滑らせてしまった。口外無用だと強く言っておいたが、それは意味を為さない。市は言うだろうからだ。何せ実家存亡の危機だ。ダメだとわかっていても内緒で文を送るに違いない。


とはいえ、信長も俺の意図を理解してくれるだろうし、聞かれてもとぼければいい。


そもそも桶狭間は史実で起きる出来事だ。桶狭間なんて場所は分からないし、詳細な場所を言えば変な疑いを持たれてしまうだろうから、場所はぼかしておいた。


しかし、これでは織田に肩入れすることになると言われても仕方がない。俺は、織田にとっても今川にとってもメリットのある、いや、氏真にとって戦国を生き抜くための助けになるような行動を取るつもりでいる。だが、これもあくまで内密だ。現代の知識を持つからこそできることなのだ。


だからと言って桶狭間が起こらなければ、織田家が滅び、市を悲しませてしまう。それは避けなければならない。そう思った。今の俺にとって、妻の市も友の氏真も大切な存在なのである。


氏真には恩がある。父親の義元は亡くしても、氏真自身には手助けをしたい。


虫のいい話だとは思うが、それが俺の本心だった。










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