長尾景虎の上洛
夏が過ぎ、秋がやってきた。
9月に入って間もなく、越後の龍、長尾景虎が上洛した。正親町天皇や将軍足利義輝に謁見をし、裏書御免と塗輿や菊桐の紋章などの使用を認める御内書を授けるという管領並みの待遇を与えられた。現代では7つを合わせて上杉の七免許と呼ばれている。
これは関東管領上杉憲政の処遇についての決定権と、信濃の諸勢力に対し意見を加えるべしという信濃出兵に対する大義名分を与えたことになる。
その長尾景虎が帰省の宿に寺倉家の本城、鎌刃城を選んだことは何か意味があるのだろうか。
「長尾弾正少弼景虎にござる」
目の前に座るのは正真正銘の軍神様。もうすぐ30歳を迎えるという景虎は、威圧感があり、精悍な顔つきしていた。目つきも鋭く、それはさながら“越後の虎”そのものであった。
「寺倉掃部助蹊政にございまする。弾正少弼殿、上洛の帰途に寺倉を選んでいただけたこと、誠に嬉しく存じます」
俺はまず深く頭を下げた。景虎は越後の大大名。下手な真似はできない。
「寺倉という名は京でも話題になっていると聞き及んでな。一度見ておこうと思った次第だ。しかしこの鎌刃城は活気に溢れておる。正直に驚き申した」
景虎は1500の兵を城下に控え、少しの側近とともに鎌刃城へと登城した。
「そのようなこと、勿体無きお言葉にございます。関東管領への就任の許しを将軍家から頂いたとのこと、誠にお祝い申し上げまする」
俺は深々と頭を垂れて寿いだ。
左近衛少将という従四位下の官位を今回上洛した際朝廷から叙任されたそうだが、そのまま弾正少弼を名乗っているのだという。
「掃部助殿も10倍の六角兵を被害を殆ど出すことなく撃退し六角四郎義治の首を討ち取ったとか。京でも話題になっておった」
景虎の話によると、京では寺倉正吉郎掃部助蹊政という名前は話題の的になっており、将軍・足利義輝公もかなりの興味をお持ちになっているのだという。
なにせ今は三好に掌握されている幕府だ。裏では三好討伐を目論んでいてもおかしくはない。だが、三好は今の寺倉家にとって六角家を超える巨大な存在。お願いだから今寺倉が三好を敵に回すことになるような行動は謹んでほしいものだ。
というか10倍の兵って誇張されてないか?せいぜい5倍程度だったはず。誇張された方が周りへの牽制になることもあるだろうが、戦に長けた武将だと思われてもそれはそれで困る。
「一将功成りて万骨枯ると申します。全ては家臣の弛まぬ献身あってこそであり、私などお褒めに預かるほどの者ではございませぬ」
「ご謙遜を」
ククク、と目を光らせながら景虎が笑う。あ、京での噂を全部信じてるなこれ。景虎はその生い立ちから真っ直ぐな性格だと言われている。それもあるのだろう。
「武田との戦も熾烈を極めていると聞きました。微力ながら、弾正少弼殿の戦勝を願っております」
川中島の戦いは再来年、第四次の戦だ。これが川中島最大の戦となり、双方が大きな傷を負うことになる。
「お気遣い、感謝致す」
景虎は武田との戦に苦戦している。関東管領に就任するにあたり、北条への対処も必要になるのだが、そうなると武田、北条の両方を敵に回することになるというわけだ。越中での戦も控えているし、頭を悩ましているのだろう。
「それはそうと、掃部助殿。鎌刃の町は豊かであるな。越後とは比べ物にならぬ。越後は貧しい。戦続きの今、民は疲弊しておる。掃部助殿はこの戦乱の世を如何にして鎮めるべきだと思われるか?」
景虎は俺の瞳の奥を凝望するように見つめる。俺はしばらく考え込んだ後、言葉を選びつつ緩やかに口を開いた。
「……まずは奪うための戦をやめることだと思いまする。奪わなくても民が豊かに暮らせる安居楽業の国を作ることが、最も必要だと存じます」
景虎は義を重んじる武将だと後世では有名だが、越後が不作に陥ると、その度に上野に侵攻し米を奪い、民を奴隷にし売り払うという行為を行っていた。これも民のためであり、時代柄仕方のないことではあるのだろう。しかし、それでは戦がなくなることはない。
「安居楽業の国、か。では、越後の民を豊かにするにはどうすれば良いのだ?それがなければ奪う戦は無くすことができぬ」
「分水路を整備してはどうでしょう」
「分水路?」
景虎が首を傾げる。俺は陰日なたがない真摯な面持ちで答えた。
「信濃川は水害によって壊滅的な被害を被っていると聞き及んでおります。その川から水が流れる通路を開削し、海に放水して水害を軽減するのです。時間も人手も必要になりまするが、将来的には越後が豊かになることを阻んでいた水害を防ぐ一手になるかと。下流に流れ込む流水量を削減すれば、これまで湿地だった土地を肥沃な農地に変貌させることができるでしょう」
洪水に悩まされてきた越後平野を豊かにするには、川の水を日本海へと放水するのが一番というわけだ。下流域に流れ込む流水量を削減し、氾濫を防ぐ。その分水路は現代でも活躍しており、越後を日本随一の穀倉地帯として作り上げた要因にもなっているのだ。
しかし、現時点では越後は泥湿地が殆どで、米作が思うようにいかないのが現状だ。石高も40万石を少し超える程度で、甲斐までとは行かずとも兵糧の調達に苦しんでいる。
だが、分水路ができれば状況は間違いなく一変する。豊かな暮らしを民にもたらすことは間違いないし、未来にも大きく繋がることになる事業だ。
「信濃川の水を海へと放出する……。そのようなこと、考えたことすらなかった。それができれば越後はたちまち豊かな国になるだろう」
「ええ、間違いなく」
それは現代の新潟が証明している。分水路のおかげで農業が盛んに行われるようになったのだ。これは江戸時代に発案されたことであり、技術的にはできないわけではない。もし景虎が豊かな国を作りたいのならやるべきだろう。
「掃部助殿、私はその分水路とやらを作り、民の暮らしを豊かにしたい。お主の意見、大変参考になった。礼を言う」
景虎は頭を深く下げて感謝の言葉を述べた。
「頭を上げてくだされ。私は大したことをしておりませぬ」
目つきの鋭い軍神に頭を下げさせてしまうなど、かえって恐縮してしまう。
「だが、寺倉領の繁栄も頷ける。貴殿は本当に民のことを良く考えているのだな」
「私は誰もが豊かな生活を送り、戦ではなく笑顔が絶えない世を目指しております。国の資本は民。民こそ力なのです」
「……貴殿の言葉、誠に心に響く。戦ではなく笑顔の絶えぬ世、か。そんな世を見てみたいものだな」
遠い目で虚空を仰ぐ景虎だが、拳は震えていた。強い覚悟を感じる。
「弾正少弼様は酒を好まれると聞きます。酒は適量ならば百薬の長とも言われますが、度を過ぎれば毒にしかなりませぬ。越後の国を豊かにするためにも、酒量と塩辛いものはほどほどに控えて、お身体を大事に厭われるのがよろしいかと存じます」
酒の飲み過ぎと塩分の取りすぎが原因の高血圧により、景虎は48歳で亡くなる。平和を願うのであればと思い、火種を残してこの世を去る景虎に一応の忠告をした。
「御忠言、痛み入る。お主には感謝してもしきれぬな。お礼に俺の愛刀を受け取ってくれぬか?」
そう言って自らの刀を差し出した。
「そのようなもの、頂けませぬ。私は何か対価を得ようとしてこうして言っているわけではありませぬ。私が目指すのは笑顔の絶えない世。それには越後の民も含まれております」
「そう言うでない。友好の印とでも考えて欲しい。姫鶴一文字と言ってな、私が普段から帯刀している愛刀だ」
「尚更頂けませぬ……と申したいところではありますが、ここは近衛少将様のご厚意に甘えて有難く頂きたく存じます」
過度な謙遜は隔意に通ずる。俺は恭しく受け取った。
この後景虎は民の暮らしを豊かにするための政治を行なっていき、俺の忠言に応え、70を越えるまで元気に生きることになる。
川中島での健闘を祈り、翌日俺は景虎を越後への帰路へと送り出したのだった。
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