石鹸と蚊帳

石鹸は父が存命の時から少量であるものの作られている。だが、その範囲は家中で使われるにとどまっていた。


石鹸は清潔さはもちろん、衣服の洗濯にも使える。俺が発案した洗濯板は多くの民に使われ今も使われているが、汚れの落ちが多少良くなった程度である。


石鹸を使えば汚れの落ちが飛躍的に良くなるだろうが、この時代石鹸という高級品を使ってまで衣服の汚れを落とそうという人間はそういない。


俺は藤次郎を呼んで石鹸を本格的に外へ売り出すための相談を持ちかけることにした。


「石鹸、とは正吉郎様が家中で使われているものでございますか?」


藤次郎が眉根を寄せて首を傾げる。


「ああ。それを大量に作ることができれば間違いなく大きな収入源になると考えている」


石鹸は消費財であり、継続して大きな収入を見込める。


「如何して作るのでございまするか?」


「これは内密に頼む。寺倉家が河原者や流民を受け入れて町を作っているのは知っているな?」


「ええ。存じております」


「人数は予想を大幅に越え、山の者も多くいてな。その中に狩人もいたのだ。狩人は猪や鹿を狩っている。そういった獣からは脂が取れ、それは石鹸の原料となる」


獣から脂身を取り、それを熱して溶かすことで獣脂は得ることができる。


「なるほど、獣脂ですか。左様な物からできていたとは存じ上げておりませなんだ」


もちろん獣脂以外にも荏胡麻油や菜種油、椿油などの植物油でも石鹸は作れるが、この時代の植物油は大変高価なため、害獣駆除も兼ねて安価な獣脂を使うのが一番だ。


「猪は害獣であり、狩るだけでも十分世に貢献している。だがそれが商売の道具として使えるのなら、一挙両得というものだろう」


猪は調理すれば美味しく食べれるし、狩人には衣食住という報酬のある“仕事”としてやってもらえれば良い。


シシカツなんか食べてみたいな。興味がある。


「あとは灰汁だ。木の灰を水に溶かした上澄み液を使う。これは木を燃やし、白い灰になったものを水と混ぜ、沸騰するまで煮てその後水分だけを抽出するために濾していく。これを獣脂と混ぜて反応させていき、冷ましたあと分離しないようこまめにかき混ぜてから型枠へと流し込み、固まるのを待つ。これで完成だ」


この製法は最も簡単だが、固化しにくく軟石鹸になりやすいのが難点だ。だが、汚れが落ちることは間違いないのだから、大した問題ではないだろう。


「承知いたしました。この製法は寺倉の極秘とし、山奥で生産を始めまする」


「製法を試して出来上がった際には一度使ってみたい。私に送ってもらえるか?」


市にも試してもらいたいな。


「ええ、もちろんでございます」


輸入するよりも安く売れば、町の民にも使ってもらえるだろうし、病の予防にもなる。石鹸に馴染みのない人間にも広めていきたい。この時代にとって病は大敵だ。清潔さにも気を使えるようになれば、予防にもなるだろう。


「ただ、そのままでは匂いがキツいこともあり、石鹸とはいえ少し気が引けるだろう。富裕層に対しては柑橘系の果物の果汁を絞り匂いをつけるのが良いだろう」


「なるほど。2種類に分けて作るというわけですね。承りましょう」


「ああ、よろしく頼む」


こうして石鹸の製作が始まった。これは灰吹法が国内に広まった際の代替産業でもある。寺倉の石鹸は国内で相場よりも安く売られることとなり、やがて国外にも広まっていくことになる。


そしてそれと同時に洗濯板の収益が大幅に上昇した。石鹸と洗濯板を使うことで汚れがすぐに落ちると評判なのだという。相乗効果が生み出され、俺は長く微笑を浮かべていた。



◇◇◇



寺倉家は先の戦いで湊を手に入れた。松原湊はこれからの水運を担う存在として期待されており、今現在最優先で港町の整備が行われている。


湊を領有するにあたり、堅田衆を武士待遇で雇い、正式な水軍となった。堅田衆は琵琶湖を掌握している有力な湖族であるが、その一角を担う馬場孫次郎という3人の棟梁の1人を雇い、武士待遇で受け入れることで輸送の安全性も同時に得られる。琵琶湖の輸送をその手に担う堅田衆が運用していれば、手出しは難しいというわけだ。


最初は俺が港町の整備を命じていたが、藤堂虎高にその役目を任せることにした。


松原には松原内湖と呼ばれる内湊があり、物生山城からすぐ近くに湊があった。非常に立地も良いというわけだ。虎高は城から湊までの一本道を整備し、流通を円滑にし、城へのアクセスも良くした。


寺倉からも4時間ほどで着く。これまでは六角の襲撃も覚悟しなくてはならなかったが、領地が一体化し湊も手に入れ、琵琶湖を掌握する堅田衆の力も借りることができるようになったため、円滑かつ安全な輸送が可能になったというわけだ。


湊の整備も着々と進んでいる。



◇◇◇


「おはようございます、正吉郎さま」


夏になった。小氷河期とはいえ、夏が暑いのは変わらない。日に日に寝心地の悪さが増しているように感じた。


「おは……よう?」


「どうか致しましたか?」


市は小首を傾げる。俺は市の顔をじっと見る。その顔に赤いできものができているのが見えたからだ。俺は血の気が引けたのを感じた。この歳で戦国一の美女と呼ばれる予定の顔が傷物になったりしたら笑えない。


「左目の下に……」


俺は恐る恐るその箇所を指しながら言う。


「ああ、虫にでも刺されたのでしょうか?すぐに治ると思います。気にしないでください」


「そういうわけにはいかぬ」


この時代に虫刺されに効く薬なんてない。この城は山城だ。城下の何倍も虫が多いのは当たり前だ。男の俺は我慢できるが、市には顔に出さずとも堪えるはずに違いない。気づかなかったのは俺の不徳だ。


「と、仰られても……。一体どうすると言うのです?」


今すぐに治すことは不可能だ。これから刺されるのを防ぐというのなら可能だろう。とは言え虫除けスプレーなんていう便利なものは存在しない。蚊取り線香を作ろうにも成分的に少し難しいだろう。


「ああ、そうか。蚊帳を作ろう」


「かや……ですか?」


俺は前世でも蚊が大嫌いだった。それ以外の虫は比較的大丈夫だが、耳の周りを飛ぶプーンとという音がなんとも言えない不快感に駆られるのだ。


蚊を避けるのに最適なのは、やはり蚊帳だろう。蚊だけでなく他の虫が近づくのも防げる。


日本には伝わっているはずなのに、なぜかほとんどの地域では全く知られていない。使っているのも富裕層の一部だ。


世界最古の繊維作物とされる麻の布を使えば簡単に作れる。隙間を作らないように上から垂らすだけだ。重さもないため、本当に垂らすだけで虫除けになる。


「寝ている時周りを覆って害虫の侵入を防ぐものだ。女子にとっても虫は精神的にも身に堪えるであろう?」


「いえ、私は武家の娘ですので、お気になさらずとも」


真顔でそう言う市。


「だからそれは無しだと言ったではないか」


「ふふ、すみません。そうですね、確かに身体を刺されたり、虫の接近で夜中に起こされることが何度かありました」


「それは早く言って欲しかったな。大事な身体なんだから不自由があるのなら俺に言ってくれ」


「不自由なんてとんでもありません。私は正吉郎さまと一緒に居られるだけで十分でございます」


あの日から市の距離が近い。歯の浮くような台詞を平気で言ってくるし、言われるこっちの身にもなってほしい。戦国の女は強力だな。


「正吉郎様、朝食のご用意が……」


俺が顔を背けていると、勘兵衛がいつも通り俺を起こしにきた。


「あ、ああ。すぐ行くよ」


その日俺は蚊帳の試作をし、早速夜に市のために設置した。それを使っている姿を見て、家臣らの中でも話題になり、城内に瞬く間に広がった。


ごく一部の富裕層にしか使われていなかったためもちろん城下の領民も知っていることはなく、家臣から提案されて市井にも売り出すことになった。


市のために作った物だったが、そこまで話題になるとは思っていなかった。口では言わないが虫には皆困っているということだろうか。


商人を通じて売り出されたのは7月の中旬を過ぎてからだった。季節も相まって瞬く間に領内に広がり、思いがけず寺倉の臨時収入となっていったのだった。


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