鳳雛と伏龍の胎動

婚礼①


「正吉郎様、蒲生から密書が届いております」


5月16日、神妙な面持ちで光秀が密書を持って俺の元にやってきた。


「蒲生から?内容は?」


俺は眉を顰めてすかさず問う。


「それが……。どうやら内応の申し出のようにございまする」


今回の和睦で寺倉は6万石の小大名になった。動員数で言えば1500人。以前と比べれば大きな成長を遂げた。

とはいえ、蒲生家が離反しようなどと考えるほど近江において立場が盤石なわけではない。依然寺倉は勢力拡大を為したとはいえ、未だ小勢力に過ぎないのだ。武功を誇示させる名目で派兵した寺倉郷の戦いと同じ轍を踏むことなく、然るべき対策や大将を持ってすれば、六角家程の大大名ならば片手で捻り潰せるだろう。


「なに?」


定秀にとっても寝返りはリスクが高いことを十分承知しているはずだ。


「正吉郎様が六角の侵攻を退けたことで、六角家の立場が揺るぎ始めているのは周知の事実にございまするが、もし今後六角と正面から戦をすることになれば……」


「六角から離反しこちらへ寝返る、と」


「左様。六角四郎殿が亡くなったことで、四郎殿の擁立派であった蒲生家は、六角家中での力を弱める危機に晒されようとしている、ということなのでしょうな」


「いわば保険といったところか。だがこれを六角へと漏らせば蒲生は崩壊する。それを分かっていてのことなのか?」


つまり、義定が家督を継ぐことになれば、それまで義治を擁立していた蒲生家は、六角六宿老の筆頭としての地位から陥落してしまう恐れがあるわけだ。当然、義定は蒲生のことを良くは思っていないだろうからな。


「……左様なことをすれば、確実に蒲生から恨みを買いましょう。今の状況で敵を増やすのは得策ではないかと。むしろ、これから六角との正面からの衝突が無いとは言い切れませぬ。その時のためには少しでも味方は増やしておくべきかと存じます」


「ああ、私もそう思っている。六角と戦になれば、浅井も乗ってくるだろうし、勝機はある」


これが有名な「野良田の戦い」だ。浅井が倍の六角軍を倒し、完全に北近江での地位を確立した有名な戦いだ。史実通りに事が運んだとしても、六角家は崩壊する。六角家を誰よりも知り尽くす定秀だからこそ、現場を冷静に見て此方側に与するが最も益が深いと判断したのかもしれない。


「兵数差を覆すためには敵内部からの攻撃も必要と言うことですな」


「よし、密使を送り承諾の旨を伝えてくれ」


「はっ」


野良田の戦いのある永禄3年が刻一刻と迫っている。永禄3年は戦国の勢力図を大きく変える端緒となる年だ。桶狭間の戦いも起こる可能性が高い。今川義元が史実と同様の行動をとっているからだ。


一つ危惧することとすれば、俺という存在が野良田の戦いの勝敗に影響を及ぼすか否か、である。元々浅井の力によって六角を打ち破る戦だ。史実通りでも浅井の勝利は揺るがない。深入りは無用だな。



◇◇◇



永禄2年6月2日。


織田信長の妹、市姫。現代では戦国一の美女と呼ばれているが、この時は未だ12歳。俺も15歳だが、この年齢で他家へと嫁いでくるのは偲びなく感じてしまう。しかし、信長は武家の娘なのだからと諭され、そしてお市もそれを理解して受け入れた。この時代の武家の女に恋愛の権利はない。それが頭で分かっていても、僅か12歳の女の子にはとても酷なことに違いない。


しかし、当然ながら俺が織田家の事情に口を出す権利はない。俺は市の覚悟に見合う誠意を見せなければならない。


この日から3日間に渡って婚礼の儀が取り行われる。前日に織田家の身内でお暇請い式が行われたようだ。これは言うなれば身内とのお別れの儀式で、家長と新婦がかわらけで酒を飲み交わす宴会だ。その前に納采も既に済ませた。納采とは新郎側から新婦側へと送る品のことで、自らを高く見せるためにも良い品を織田へと送っておいた。


俺の方に嫁いでくるから、婚礼は鎌刃城で行われることになっていた。そのため、織田家の身内に屋敷を当てた。身内が多く集まっているそうだ。


今日寺倉家から迎えを出し、新婦がくるのを待つ。しかし、これがなかなかやってこない。父親の葬式で普段着で来たりする信長のことだし、儀式など下らないと、迎えが来た瞬間に引き渡しそうだと思ったが、そんなことはないらしい。しっかりこの時代の婚礼の通例が分かっているようだ。


早朝に来た迎えは昼過ぎまで待たせるらしい。これはどれほど市姫を大切にしているか、というのを表すための行為だそうで、迎えはひたすら部屋で酒をちびちび飲みながら待つのだという。


迎えは家長から呼び出され、新婦である市姫を連れて行く。ここでいう家長は三郎殿(信長)だ。


その後、迎えが形式上の口上を述べ、御簾に乗って新郎の居城へと運ばれる。出門の際、門火を焚いて新婦を送り出すのが習わしなのだと言う。ここでの警備は送り役の武士が行う。輿の後ろには多くの侍女たちが並び、新郎の元へと向かう。


城下町を歩くその行列は、たちまち人の目を引いた。織田家はこの時一国を治める程度の小規模な勢力であったが、それでも寺倉家と同じく商業が盛んな町・津島などを支配下に置いている。名前を知っている人間が大多数で、この婚姻自体が大きな注目を浴びていた。


現代では考えられないが、新婦は一度家を出ればもう2度と帰ってこないという覚悟をするのだという。いつでも帰れると思いつつも、足以外で移動することがほぼないこのご時世、それなりの覚悟は必要だということだろう。城に入る時にはこちら側も門火を焚いて迎えるのが普通であり、例に漏れずしっかりとこちらもやっていた。


俺は2人で過ごすための部屋でずっと待機していた。退屈で仕方ないが、くつろげるわけもなく我慢してじっと座っていた。


「正吉郎様、市姫様がご到着なされました。もうじきこの部屋へとお連れします。人払いをしておりますので、どうぞお2人でゆるりとお過ごしくだされ」


小姓の勘兵衛が俺に伝言する。


俺は身から溢れ出る緊張を隠せない。なぜか鳥肌も立っている。結婚など前世でも今世でも初めてのこと。しかもまだ俺は顔すら見ていない。これでは現代で言うお見合いのようだな。


「ああ、わかった」


俺は短くそう告げる。そして勘兵衛の足音が遠ざかると大きく息を吐いた。自分以外誰もいないはずなのに、その部屋に重苦しい空気が漂っていることを感じ取る。


「失礼致します」


幼さを残す女声が響く。襖はゆっくりと開き、中に入ってきた。顔には白い布が掛かっていたが、俺の前に正座するとその布を取った。


座していたのは、ずば抜けて美麗な容姿を持った、年齢とはかけ離れて大人びた雰囲気の女の子が静かに瞑目していた。牡丹のような卓抜した秀麗さを見せながらも、どこか佳人薄命な雰囲気をも感じさせる。まさに国色天香と言って差し支えない。


現実から遥かに乖離したその容姿に、俺は図らずも見惚れてしまう。


「市と申します」


俺はその言葉で現実に引き戻されたようにハッとなり姿勢を正す。もともと姿勢は整っていたが、その行動はただ固さを増しただけだった。


「て、寺倉掃部助と申しまする」


俺は噛みながら市姫へと正面で向き合い、名を告げる。一切笑みが伺えない、若干強張った表情を崩すことはない。


「掃部助様。これからよろしくお願い致します」


そう言って頭を畳近くまで深く下げる。信長の性格を見てしまうと、雲中白鶴な雰囲気を纏った所作に思わず嘆息する。兄と妹と言ってもここまで違うものなのか。


「こちらこそよろしく頼む」


初対面ということももちろんあるだろうが、沈黙が続き気まずい雰囲気が流れる。


と言うよりも、声に熱が全く伺えない。よそよそしいという表現が可愛く感じる程だ。冷たいと言う言葉の方が合うくらいだ。俺に興味がないというような。12歳でこんな冷淡な声を出せるということは、よっぽど嫌だったのだろう。史実で長政とおしどり夫婦と呼ばれていたし、兄が勝手に俺と結婚することを決めたのだから、可哀想に感じてしまう。


俺は沈黙を破るべく、二人でやろうと思って予め用意していた返碁を取り出した。


「これは?」


「返碁というものです。私が作りました」


そして、俺は市姫に向かってルールを説明した。これで遊んで打ち解けようなどと思っていたが、それはほぼ意味をなさなかった。


夜まで俺が用意した遊びで気を引こうと試したが、結局市姫の心は掴めず、むしろ心の距離は遠ざかるばかりであった。



◇◇◇




翌日、初対面を果たした俺と市姫は、慣例に従い結婚の儀を執り行なっていた。


儀式はつつがなく進み、俺と市姫が微量の酒の入った朱塗りの杯を交わした。


その後新郎、つまり寺倉家の親族らが集まり、宴会を開いた。といっても、寺倉には親族が少ない。父上も母上も既に他界しているし、親族は弟と妹、父上の側室、即ち二人の母親くらいなものだ。酒を呷ることはなく、淡々と終えた。新婦側の人間は1人見届ける役を賜り、じっとその様子を見ていた。


そしてさらに翌日には御披露目の儀が行われ、重臣による祝いの言葉をただ頂くだけの時間が続く。それは無駄に長く、複雑な言い回しでの祝言であった。


退屈で投げ出したくなるような儀式だったが、左にいる12歳の市は一切表情を崩すことなく我慢しているのだからと自分を律した。


全ての儀が終わっても、市姫は笑顔を見せることはなかった。しかし、隠してはいるつもりのようだが、ずっと浮かない表情が垣間見える。


その時、俺はただ心の整理がついておらず、そっとしておくべきだと判断し何も尋ねようとはしなかった。


しかし、それがこの後重大な事件になるとは思いもよらなかったのである。

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